使徒たちの分裂

前編


世界は、いつだって美しかった。

少なくとも、リア・フレアスの目にはそう映っていた。風が森を渡るときの囁き。陽が湖面に触れるときの煌めき。夜空に瞬く星々の静かな呼吸。それらはすべてティモテが遺した秩序の結晶であり、リアにとっては愛すべき調和の一部だった。

「――リア、またぼうっとして」

姉の声が、木々の間を抜けて届いた。

ラナ・フレアスは腰に手を当て、呆れ顔で丘を登ってくる。表面上は苛立っているように見えるが、リアにはわかる。千年を超えて隣にいた姉の機嫌を見誤ることはない。

「ぼうっとなんかしてないよ。ちゃんと見てたの」

「何を」

「世界を。ほら、今日は風がすごく穏やかで――」

「仕事中だ、仕事中」

ラナはリアの隣に並び、二人は揃って丘から世界を見下ろした。眼下には精霊族の集落が点在し、そのさらに遠くには人族の街が霞んでいる。いつの間にか増えた、小さな灯りの群れ。

「人、また増えたね」

リアが呟いた。

「ああ。あいつらは増えるのだけは早い」

ラナの言い方に悪気はなかった。精霊族にとって、人族は後から生まれた隣人だ。数百年前まではまばらだったのが、気づけば平野を覆い、森を拓き、石の街を築いている。

「すごいよね。短い命で、あんなに一生懸命に」

「まあ、一生が短いぶん、急がなきゃならないんだろうな」

ラナが肩をすくめる。リアは微笑んで、小さく頷いた。

人族も精霊族も、それぞれの形で世界に在る。それでいい。それが調和だ。ティモテが遺した秩序とは、何かを排することではなく、すべてが在るべき場所に在ることだ。

リアはそう信じていた。


「リア」

名前を呼ぶ声に、心がわずかに揺れる。

振り向くと、アル・ティアリスが立っていた。白い髪が風になびき、白い肌が木漏れ日を映している。いつも通りの、どこか超然とした佇まい。

だが、リアは知っている。この人が時折見せるかすかな柔らかさを。自分にだけ向けられる、ほんの少しの温もりを。

「アル。どうしたの、難しい顔して」

「いつも通りだ」

「いつもより二割増しだよ」

アルは無表情を保とうとしたが、リアの目には小さなため息が見えた。

「――ジンと話をした」

その名を聞いた瞬間、リアの胸に薄い翳りが落ちた。

ジン・ハルファス。六使徒の一人にして、かつては最も理知的で、最も優しい声を持つ仲間だった。秩序を守るとはどういうことかを、誰よりも深く考え、誰よりも丁寧に語る人だった。

――かつては。

「また、管理の話?」

アルが頷いた。

「人族は成長が早すぎる。このままでは秩序を脅かす存在になりかねない。我々が導かなければ取り返しのつかないことになる――そう言っていた」

「導く、か……」

リアはその言葉を舌の上で転がした。導く。それは一見、正しく聞こえる。秩序を守る使徒として、世界を正しい方向に導くことは役目のはずだ。

だが、リアの中で何かが引っかかる。

「ねえ、アル。ジンの言っていること、前からあんな感じだった?」

「……どういう意味だ」

「うまく言えないんだけど。なんだろう、言葉は正しいのに、温度が違う気がして。前のジンは……もっと穏やかだったと思うの」

アルは沈黙した。白い目がリアを静かに見つめる。

「お前の感覚は、いつも侮れない」

「天然の勘だよ」

「自分で言うな」

リアは小さく笑った。だが笑いはすぐに消えた。

風が変わっている。世界を覆う調和の響きの中に、かすかな不協和が混じり始めている。リアにはそれが聞こえる。理屈ではなく、肌で感じる。調和を愛する者だけが知覚できる、微かな軋み。


六使徒が集う円卓は、長い歳月の中で幾度も議論の場となってきた。

しかし、これほど空気が張り詰めたことは、リアの記憶にはなかった。

ジン・ハルファスは立っていた。かつての穏やかな青年の面影は、まだある。整った顔立ち、落ち着いた声。だが、その瞳の奥に宿る光が、リアの知るジンのものではなくなっていた。

「我々は長く見守りすぎた」

ジンの声が円卓に響く。

「ティモテが眠りについてから、我々は世界を観測し、秩序の逸脱がないかを見張ってきた。だが見張るだけで十分だったのか? 人族は増え、力を持ち始めている。やがて彼らは石碑に触れるだろう。秩序の根幹に、未熟な手が届く。その前に我々が正しく導かなければ――」

「導くというのは、管理するということか」

アルの声が冷たく割り込んだ。

「管理ではない。保護だ」

「保護という名の支配だろう」

「支配と導きの区別もつかないのか、アル」

空気が凍った。

リアは二人の間に視線を走らせた。アルの白い目は冷徹に光り、ジンの瞳には苛立ちとも確信ともつかない熱がある。

――違う。

リアの胸の奥で、何かが叫んだ。

ジンの言葉には理があった。アルの反論にも理があった。だが問題は理ではなかった。ジンの声に、かつてはなかった鋭さが宿っている。説得ではなく、断定。対話ではなく、宣告。まるで何者かに焚きつけられているかのように。

「ジン」

リアは口を開いた。六人の視線が集まる。

「少し、落ち着こう? お互いに大切にしているものは同じはずだよ。世界の秩序を守ること。ティモテの遺志を継ぐこと。方法が違うだけで、願いは同じでしょう?」

ジンがリアを見た。

一瞬、その目に昔の穏やかさが戻ったように見えた。リアを見つめるジンの瞳が、ほんのわずかだけ揺れる。

だが、次の瞬間、それは消えた。何か暗いものが、奥底から浮かび上がるように瞳を塗り替えた。

「――変わっていない。だからこそ、行動しなければならないのだ」

ジンの声は静かだったが、そこに宿る決意は岩のように硬かった。

リアの言葉は、届かなかった。

円卓は割れた。

ジンに従う者と、アルに従う者。六使徒は真二つに分かたれ、それぞれの信じる秩序のために背を向けた。

ラナはリアの隣で拳を握り、低く呟いた。

「……馬鹿が。馬鹿が、揃いも揃って」

リアはラナの手にそっと自分の手を重ねた。冷たかった。姉の手がこれほど冷たいのは、初めてのことだった。


ジンが去った夜、リアは一人で丘に立っていた。

風は冷たく、星は遠い。かつて穏やかだった世界の響きに、今は明確な亀裂が走っている。

――外の何かが、入り込んでいる。

リアにはわかっていた。確証はない。理屈で説明できるものでもない。だが、「刹那」の目は一瞬の中に世界の全てを映す。その一瞬一瞬に、世界の調和を蝕む異物の気配が、確かに滲んでいた。

ジンの変容は、彼一人の意志ではない。境界の向こう側にあるものが、彼の心に触れている。秩序を崩し、混沌へと引き戻そうとする、外界の意志が。

だが、それを証明する術をリアは持たなかった。刹那に映る世界は、見えるだけだ。見えたものを変える力ではない。

「リア」

背後からアルの声がした。振り向かなくても、彼の気配はわかる。世界の誰よりも近く、誰よりもよく知っている存在。

「……ねえ、アル」

「なんだ」

「もし、ジンのせいじゃなかったら」

「――何を言っている」

「ジンが変わったのは、ジンだけの問題じゃない気がするの。何かが、外から……」

リアは言葉を探した。しかし、感覚を正確に言葉にすることは、いつだって難しかった。

アルは長い沈黙の後、リアの隣に立った。二人の間を風が抜ける。

「お前の勘が正しいのだとしても」

「うん」

「たとえ外界の何かがジンに触れていたのだとしても、彼は自らの意志で刃を向けた。我々に、世界に。その事実は変わらない」

リアは何も言えなかった。

アルの言うことは正しい。いつだって正しい。

だが正しさだけでは、誰も救えないことを、リアは知っていた。

アルの手が、静かにリアの手を取った。冷たい指先に、微かな震えがある。この人の震えを知っているのは、きっと世界で自分だけだ。

「……戦いになる」

「うん」

「お前には、後方にいてほしい」

「それは無理だよ、アル」

リアは彼の手を握り返した。

「わたしも使徒だもの。守りたい世界は、あなたと同じ」

アルは何も言わなかった。ただ、握った手の力が少しだけ強くなった。

夜の風が二人の間を吹き抜けた。明日からは、もうこの静けさはないのだろう。

リアは目を閉じ、この一瞬を、刹那の中に刻み込んだ。

後編


戦が始まった。

精霊族同士が刃を交え、マナが荒れ狂い、大地が軋む。ティモテが築いた秩序そのものが引き裂かれるような、途方もない破壊。それが「精霊大戦」と呼ばれるようになるのは、もっと後のことだ。この時はまだ、ただの悲劇だった。

リア・フレアスは、戦場にいた。

戦うことが好きだったことは一度もない。刃を向ける理由を持ちたいと思ったこともない。だが、世界の調和が壊れていく中で、立ち尽くすことだけはできなかった。

「刹那」の名は、戦場で鮮烈に輝いた。

リアの魔術は、一瞬に凝縮される。長大な術式を刹那のうちに編み上げ、瞬きの間に放つ。それは暴風のような力ではなく、針の一刺しのような精密さだった。必要な場所に、必要なだけの力を、一瞬で届ける。

それでも、戦場は広すぎた。守りたいものが多すぎた。


前線は日ごとに動いた。

ジンの軍勢は強かった。ジンに従った精霊族は多く、その統率は苛烈で、精密で、隙がなかった。管理を旨とする者の軍が、管理された戦を展開する。皮肉なことに、ジンの軍勢にこそ秩序があった。

それに比べ、アルの陣営は守る側だ。広がる戦線を支え、民を逃がし、崩壊を食い止める。派手な勝利はない。ただ、今日も世界が終わらなかった、という消極的な成果だけが積み上がっていく。

リアは前線と後方を行き来した。「刹那」の速さを活かし、戦線の綻びを見つけては塞ぎ、孤立した部隊を救い、崩れかけた守りを繋ぎ直す。縫い針のような戦い方だった。華はない。だが、リアがいなければ戦線はとうに瓦解していた。

戦のさなかにも、リアは世界の調和に耳を澄ませていた。

その響きは、日に日に濁っていった。


夜、陣地の片隅で、ラナが酒を飲んでいた。

その姿を見て、リアは静かに隣に座った。

「……姉さん」

「飲むか」

「うん」

リアが酒を口にすることは珍しかった。ラナがわずかに目を見開き、それから何も言わずに杯を渡した。

辛い酒だった。喉を焼く熱さが、妙に現実感を与えてくれる。

「姉さん」

「なんだ」

「怖くない?」

ラナが一瞬だけ、リアを見た。それから視線を夜空に戻し、長い息を吐いた。

「怖いに決まってるだろ」

「そっか。姉さんでも怖いんだ」

「何だと思ってたんだ、私を」

「無敵」

ラナが短く笑った。笑いの端が少しだけ震えていた。

「お前ほど呑気じゃないだけだ」

「呑気じゃないよ、わたし。ちゃんと怖い」

「……知ってる」

沈黙が降りた。遠くで、まだ火の手が上がっている。精霊族の放つマナの光が、夜空を不自然に明るく染めていた。

「ねえ、姉さん」

「なんだ」

「わたしがいなくなったら、世界をちゃんと見ててね」

「――は?」

ラナが杯を止めた。鋭い目がリアを射抜く。

「何を言って――」

「別に、死ぬつもりはないよ。ただ、もしもの話」

「もしもの話はするな。縁起でもない」

ラナの声が荒くなった。リアは微笑んで、それ以上は言わなかった。

だがリアの感覚は、もうずっと前から告げていた。世界の調和の中に、自分の響きが薄くなっていることを。刹那を見る者は、自らの刹那にも気づいてしまう。


翌朝、戦場へ向かう前に、アルがリアの元を訪れた。

白い髪。白い肌。いつも通りの凛とした佇まい。けれどリアには、その奥にあるものが見える。揺れている。この人は、揺れている。

「今日の戦線は厳しくなる」

「うん。わかってる」

「後方に――」

「アル」

リアは穏やかに、だがはっきりと遮った。

「それは、もう言わないで」

アルの唇が引き結ばれる。リアは微笑んだ。不思議なほど穏やかな気持ちだった。

「わたしね、この世界が好きだよ。風の匂いも、水の音も、木漏れ日の温かさも。それから、姉さんの呆れ顔も」

一拍の間を置いて、リアはアルの目を真っ直ぐに見つめた。

「あなたの隣にいられることも」

アルは何も言わなかった。ただ、その白い目が僅かに潤んだ。リアはそれを見て、ああ、この人はやっぱり不器用だなと思った。

「行こう、アル。守るべき世界が待ってる」


最後にジンと相対したのは、荒廃した平原だった。

かつては花が咲き乱れていた場所だ。リアはそのことを覚えていた。春になると一面の白い花に覆われ、風が吹くと花弁が舞い上がって、まるで雪のようだった。六使徒で連れ立って歩いたこともある。ジンが花の名前を一つ一つ教えてくれた。穏やかな声で、丁寧に。

今は何もない。焼けた大地と、マナの残滓が漂うだけの荒野。

ジンは変わり果てていた。

かつての穏やかな面影は消え、そこにあるのは自らの正義を信じて疑わない者の、冷たい炎だった。外界のものに蝕まれた瞳には、もはやリアの知るジンはいなかった。

「退け、リア。お前と戦いたくはない」

「わたしもだよ。でも、退けない」

「なぜだ。お前は戦いを好まないだろう」

「好まないよ。大嫌い」

リアは笑った。場違いなほど穏やかな笑みだった。

「でもね、ジン。この世界にはまだ調和がある。壊れかけてるけど、まだある。風は吹いてる。命は巡ってる。それを守りたいの。あなたがかつて守ろうとしていたものと、同じものを」

ジンの目が、一瞬だけ揺れた。

ほんの刹那――あの頃の顔が覗いた。円卓を囲み、穏やかに秩序の在り方を語っていた頃の、あの優しい目が。

だが、それは瞬きの間に消えた。暗いものが、再びすべてを塗り潰した。

「調和では世界は守れない。お前たちの甘さが、この世界を滅ぼす」

「……そうかもしれない。でも、壊すことで守れるものもないよ」

対話は、そこで終わった。


リア・フレアスの最後の戦いに、物語が語るような美しさはなかった。

「刹那」は幾度となく閃いた。一瞬に編まれる術式が光の線となって戦場を走り、ジンの攻撃を逸らし、味方を守り、崩れかけた戦線を繋ぎ止めた。

だが、ジンは強かった。外界の力を取り込んだその魔術は、かつての仲間のものとは質が違っていた。一撃一撃が秩序そのものを侵食し、リアの編む術式を内側から崩していく。

リアは一つ、また一つと傷を重ねた。

それでも退かなかった。退けば、後ろにいる者たちが倒れる。退けば、この世界の調和が、また少し壊れる。

マナが身体を巡る感覚が薄れていく。術式を編む速度が、わずかに遅くなる。刹那が、少しずつ長くなっていく。

「リア!」

遠くから、ラナの声が聞こえた。

「――退け! 退きなさい!」

姉さん。ごめんね。

リアは笑った。きっと、ぼうっとしているように見えただろう。いつもそうだった。

最後の一撃が、リアの身体を貫いた。

痛みはあった。だが不思議と、恐怖はなかった。


崩れゆく身体の中で、リアの目が最後の刹那を映した。

「刹那」の力が、この世で最後の一瞬を、永遠のように引き延ばしていく。

風を感じた。焼けた大地の上を、それでも吹き続ける風。命が終わっても世界は回り続ける。その当たり前のことが、何よりも美しかった。

アルの気配を感じた。遠い。けれど、確かにそこにいる。白い髪。白い肌。不器用な優しさ。

もう少しだけ、あの人の隣にいたかった。それだけが、少しだけ、心残り。

ラナの声が聞こえた。

叫んでいる。何を叫んでいるのか、もう聞き取れない。でも、きっと怒っているのだろう。いつもみたいに。いつも通りに。

姉さん。世界を、見ていてね。

――この世界は、まだこんなに美しいのだから。

リア・フレアスは目を閉じた。

刹那の使徒が最後に見たのは、花弁の舞う白い野原だった。かつてここに咲いていた花。今はもうない。けれどいつか、きっとまた咲く。

その確信だけが、消えゆく意識の中で、温かく灯っていた。

それは一瞬だけ瞼の裏に浮かび――

――消えた。