小さな依頼


日が傾き始めた王都の通りを、メア・アトリュートは足早に歩いていた。

ラーグラムから預かった古文献の整理が、予定よりも随分と長引いた。今日はグリシカとの約束がある。裏通りのあの酒場で、いつもの時間に。遅刻の言い訳を考えながら、近道になる小さな広場を横切ろうとしたときだった。

足が止まった。

広場の隅、古い噴水の陰に、小さな影がうずくまっている。

子供だ。七つか八つか。膝を抱え、顔を伏せて、声を殺して泣いている。

――急いでいるのだ。

そう自分に言い聞かせて、二歩ほど進んだ。三歩目で、足が動かなくなった。

「……何かあったの」

しゃがみ込んで声をかけると、子供が顔を上げた。涙と土埃で汚れた顔。女の子だった。

「おかあさんの……お守り……」

途切れ途切れの言葉を拾い上げる。母親が仕事で王都を離れている間、預かっていた小さなペンダントを、この広場で遊んでいるうちに落としてしまったらしい。

「いつからここで探してるの」

「……お昼から、ずっと」

半日近く。メアは眉をひそめた。広場は石畳と花壇と低木が入り組んでいて、子供の背丈では見通せない場所がいくつもある。

――仕方ない。

腰に下げた小さな魔道具に手を伸ばす。位階言語の術式が刻まれた、使い慣れた道具。

「少し離れて。怖くないから」

短く告げて、術を起動する。橙色の光が掌から溢れ、翼を広げ、一羽の鳥の形を取った。

炎の鳥。メアの使い魔だ。

「わっ……!」

女の子が目を丸くして後ずさる。

「大丈夫。触らなければ熱くないよ」

炎の鳥は静かに羽ばたき、広場の上空へ舞い上がった。メアの視界と使い魔の視界が重なる。上から見下ろす広場の全景。石畳の隙間、花壇の根元、噴水の縁。

「……ペンダントって、どんな形?」

「丸くて、銀色で……真ん中に青い石がついてるの」

炎の鳥が旋回する。夕日に照らされた広場を、熱のない炎が滑るように巡っていく。

女の子はいつの間にか泣き止んで、空を見上げていた。

「あの鳥……きれい」

「そう? 便利なだけだよ」

ぶっきらぼうに答えながら、メアは使い魔の視界に意識を集中させる。

石畳の端、排水溝の蓋の隙間に――光るものが見えた。

「あった」

噴水の裏手。排水溝の鉄格子のあいだに、小さなペンダントが引っかかっている。子供の手では届かない場所だ。半日探して見つからなかったのも無理はない。

メアは鉄格子の隙間に指を差し入れ、慎重にペンダントを引き出した。銀色の鎖。青い石。汚れてはいるが、壊れてはいない。

「……はい」

差し出すと、女の子が両手で受け取った。ペンダントを胸に抱きしめて、また泣き出す。今度は、さっきとは違う涙だった。

「ありがとう、おねえちゃん……ありがとう……!」

「いいから、早く家に帰りなよ。もう暗くなる」

女の子は何度も頭を下げて、広場を駆けていった。小さな背中が角を曲がって見えなくなるまで、メアはなんとなく目で追っていた。

炎の鳥が肩に戻り、静かに消える。

「……遅刻だ」

呟いて、小走りに裏通りへ向かった。


酒場の扉を開けると、奥の席にグリシカがいた。すでに一杯目が半分ほど減っている。

「すみません、遅れました」

「いいよ。こっちも今日は遅かったから」

グリシカは軽く杯を掲げて示した。メアは向かいに座り、店主にいつものを頼む。

「何かあった? 走ってきたでしょ、息が上がってる」

「……別に」

運ばれてきた杯に口をつける。酸味のある麦酒。いつもの味だ。

グリシカはそれ以上聞かない。彼女はそういう人だ。踏み込まないが、待つ。その沈黙が、メアには心地よくもあり、厄介でもある。

結局、自分から話してしまうから。

「……広場で子供が泣いてたんです」

「うん」

「お守りのペンダントを落としたって。お母さんが留守にしてる間、預かってたものだったみたいで」

「それで使い魔を飛ばした」

「なんでわかるんですか」

「メアが道草を食うとしたら、そういう理由しかないから」

グリシカが小さく笑う。メアは杯に視線を落とした。

「……半日も一人で探してたんですよ、あの子。声も出さないで泣いて」

「そうか」

「たぶん、大人に言えなかったんだと思います。大事なものを落としたなんて、怒られると思って」

沈黙が落ちる。酒場の喧騒が遠くに聞こえる。

「見つかってよかったね」

「排水溝に引っかかってただけです。上から見れば、すぐ見つかるようなところに」

「それでも、あの子にとっては大冒険だったんじゃない。半日かけて見つからなかったものが、炎の鳥に見つけてもらえた」

メアは何も言わない。グリシカが続けた。

「きっと忘れないよ。困ったときに助けてくれた人がいたってこと」

「……大げさですよ。ペンダントを拾っただけです」

「大げさかな」

グリシカはそう言って、杯を傾ける。穏やかな目をしていた。

メアはその視線から逃げるように、二杯目を頼んだ。

「……あの子、使い魔を見てきれいだって言ってました」

「いい子だね」

「便利なだけだって返しちゃいました」

「メアらしい」

「……もうちょっと気の利いたこと言えたらよかったんですけど」

グリシカが笑った。声を出して笑ったのを見るのは久しぶりで、メアは少し面食らう。

「何がおかしいんですか」

「いや、ごめん。――メアのそういうところ、好きだよ」

「……はあ」

言葉の受け取り方がわからず、メアは杯を傾けてごまかした。

しばらく、他愛もない話をした。ラーグラムの古文献が埃っぽくて酷かったこと。魔術院の若手が面白い論文を出したこと。裏通りの茶屋が新しくなったこと。

二人の間を流れる時間は、いつも穏やかだ。

「……グリシカさん」

「ん?」

「今日、あの子見て思ったんですけど。子供って、ひとりで抱え込むのが上手いですよね。助けてって、なかなか言えない」

グリシカは少しだけ目を細めた。

「……大人もそうだと思うけど」

「かもしれないですね」

短い沈黙。酒場の灯りが橙色に揺れている。

メアは知っている。目の前のこの人が、護衛もつけずに毎日一人で歩いていることを。貴族たちの視線に晒されながら、弱音を誰にも言わないことを。

グリシカも気づいている。この若い魔術師が、自分に向けた言葉の本当の意味に。

だが、どちらもそれを口にはしない。

「……もう一杯、いきますか」

「付き合うよ」

それだけで十分だった。


帰り道、夜風が冷たかった。

二人で酒場を出て、いつもの分かれ道で足を止める。

「今日はありがとうございました。……いつも付き合ってもらって」

「こっちこそ。楽しかったよ」

グリシカは背を向けかけて、ふと振り返った。

「メア」

「はい」

「炎の鳥、きれいだと思うよ。私も」

メアは一瞬、言葉に詰まった。

「……おやすみなさい、グリシカさん」

「おやすみ」

石畳を歩く足音が遠ざかっていく。グリシカの背中が、夜の王都に溶けていった。

メアは少しだけ立ち止まって、自分の掌を見た。炎の鳥を生み出す、この手。便利なだけだと、自分では思っていた。

でも今日、あの子が見上げた目と、グリシカの言葉が重なって、少しだけ胸が温かくなった。

「――便利なだけ、か」

小さく呟いて、メアは歩き出す。

明日もきっと、ラーグラムの古文献と格闘して、夕方にはこの裏通りを歩くのだろう。その途中で、また誰かが泣いていたら。

たぶん、素通りはできない。それが自分だと、もう知っている。