退屈の果て


エリス・フレンツェルの人生に、退屈でなかった日は一日もない。

物心がつく前のことは知らないが、記憶にある限り、世界は常に薄い膜の向こう側にあった。人が何かに驚き、何かに感動し、何かに苦しむ。それを眺めるエリスの中には、何も湧かない。

理由は早いうちに理解した。

自分が天才だからだ。

他者が一年かけて学ぶことを、エリスは一日で把握する。十年の修練で到達する領域に、一月で辿り着く。魔術の才能においてはとりわけ顕著で、師と仰いだ老魔術師を三ヶ月で追い越し、書庫にある文献を半年で読み尽くした。

別に悲嘆はなかった。他の人間が愚かだとも思わなかった。ただ、ステージが違う。人はアリの営みを見下さない。そこに悪意を抱く理由がない。同時に、そこに興味を持つ理由もない。

エリスは魔術の研究に没頭した。退屈を紛らわすには、未知の理を解き明かすことだけが唯一の手段だった。それすらも、答えに辿り着くまでの時間が他の誰よりも短いというだけで、結局のところ退屈の先送りに過ぎなかったが。


精霊大戦が始まった。

世界を揺るがす大乱。精霊族の内戦が人族の文明圏にまで波及し、バルナスティア帝国の各地が魔王ジン・ハルファスの軍勢に蹂躙された。

エリスにとっては、それも退屈だった。

戦場に立てば、敵は強かった。精霊族の兵は人族とは比較にならないマナを操り、その術式は複雑で美しかった。だが、エリスにとって「強い」と「面白い」は別の話だ。強いだけなら、上回ればいい。上回れるものは、退屈の範疇を出ない。

帝国の兵が死に、街が燃え、人々が逃げ惑う。エリスは戦い、勝ち、それを繰り返した。何も変わらなかった。

「なぜ戦うのですか」

ある日、帝国の騎士に問われたことがある。カルセナ・グラン・ドラグニカ。エリスの近くで共に戦っていた女騎士だった。

「暇だからだ」

正直に答えた。カルセナは呆れた顔をしていたが、それ以上は何も言わなかった。

実際のところ、理由はそれだけだった。精霊大戦の戦場は、少なくとも書庫で文献を読むよりは時間が潰れた。


あの男と出会ったのは、帝国の東部戦線でのことだった。

ジン・ハルファスの精鋭部隊が砦を包囲していた。帝国軍は壊滅寸前で、守備隊の残兵が決死の防戦を敷いている。エリスは偶然その場に居合わせただけだった。

偶然にしか戦う理由を持たない男だった。

包囲を崩しにかかったエリスの前に、一人の青年が立っていた。

淡い金色の髪。明るい碧い目。見た目は自分と大して変わらない年齢に見えたが、纏っているマナの質が異質だった。人族のものではない。使徒のそれに近い――いや、使徒そのものだ。

だがその青年は、使徒らしからぬ戦い方をしていた。

剣を持ち、前線に立ち、帝国の兵と肩を並べて魔王の軍勢を押し返す。使徒の力をもってすれば、もっと効率的に殲滅できるはずだ。なのに彼は、あえて兵と同じ位置に立ち、同じ速度で戦っている。

そして――笑っていた。

兵士たちに声をかけ、崩れかけた防陣を自ら立て直しながら、「下がるな、まだやれる」と落ち着いた声で叫んでいる。戦場のさなかに、場違いなほどの落ち着きだった。

「……変なやつだ」

それがユウ・イル・アーティエに対する、エリス・フレンツェルの第一印象だった。


砦の包囲が解けた後、カルセナがユウを連れてきた。

「この方は生命の勇者です。イルの使徒として、魔王討伐の使命を帯びています」

「使徒か。暇な神もいたものだ」

エリスの言葉にカルセナが顔をしかめたが、ユウは少し笑って受け流した。

「まあ、暇かどうかは置いといて。よろしく、エリス」

飾らない男だった。初対面の相手にもタメ口で、気負いがない。だが馴れ馴れしいというのとも違う。言葉に変な含みがなく、ただ率直なのだ。カルセナが「も、申し訳ありません」と頭を下げていたが、エリスは別に気にしなかった。無礼だとも思わなかった。ただ、少しだけ意外だった。使徒とは、もっと厳めしいものだと思っていた。

その夜、陣地の片隅で、エリスは偶然ユウの姿を見た。

昼間のあの明るい男が、一人で座っていた。

右手を見つめている。その手は――先刻の戦闘で、敵兵の生命を吸い取った手だ。触れた対象から生命力を奪い、自身を癒す力。使徒としては理に適った能力だろう。

昼間の笑顔はどこにもなかった。

碧い目が、暗い。あの戦場で兵士たちを励ましていた瞳と同じものとは思えないほど、深く昏い光を湛えている。

エリスは足を止めた。

天才の目は誤魔化せない。あの明るさの下に、これが潜んでいたのか。

「おい」

エリスが声をかけると、ユウは顔を上げた。一瞬の間があって――穏やかな表情が戻る。切り替えの速さは見事だったが、エリスの目には遅すぎた。

「エリスか。どうした、眠れないのか」

「お前の力、便利だな。生命を奪い、自分の糧にする。合理的だ」

表情が、ほんのわずかに揺らいだ。

「……うん、そうだね。便利だよ」

「なのに、さっきまであんな顔をしていた」

沈黙があった。今度は、取り繕おうとしなかった。あるいは、できなかった。

「……奪うことでしか、生きられないから」

声のトーンが違った。普段の穏やかさが消え、底の方から絞り出すような響きがあった。

「それの何が問題だ。生物はすべて他の命を食らって生きている。お前だけが特別というわけではないだろう」

エリスの言葉は、理屈としては正しかった。少なくとも彼自身はそう考えていた。

だがユウは、小さく首を振った。

「理屈は、そうかもね。でも……手から伝わるんだよ。奪った命の、温度が」

エリスは口を閉じた。

理屈ではなかった。ユウが苦しんでいるのは、論理の問題ではなかった。「奪った命の温度が伝わる」――それは感覚の話だ。体験の話だ。エリスがどれほど頭を回転させても、手のひらに他者の生命の温もりを感じたことはない。想像はできる。だが想像と体験は違う。

――理解できない。

エリスは、その事実に驚いた。

自分が「理解できない」と感じたのは、生まれて初めてのことだった。


それから三人の旅が始まった。

カルセナは実直な騎士だった。信念があり、腕が立ち、何より仲間を守ることに迷いがなかった。エリスにとって「理解しやすい」人間の典型だった。行動原理が明快で、予測でき、安心できる。

ユウは違った。

気さくで、裏表がなく、誰に対しても同じ態度で接する。旅先の村では子供に剣の構えを教え、酒場では店主と気安く話す。飾らない人柄で、自然と周囲の空気が和らぐ男だった。

だが、エリスは知っている。

戦いが終わった夜、一人になったユウの目が変わることを。あの手を見つめる時間があることを。あの飾らない笑みが消え、奪った命を数えるような沈黙が訪れることを。

その落差が、エリスには理解できなかった。

エリスは幾度もユウに問いかけた。

「なぜ苦しむ」

「……何のこと」

「夜。一人の時のお前の顔だ」

ユウは一瞬だけ目を逸らし、それからいつもの穏やかな表情に戻った。

「……苦しまずにいられたら、楽だろうね」

「ならば戦わなければいい」

「戦わなければ、もっと多くが死ぬ」

「それはお前の責任ではないだろう」

「責任かどうかじゃない。目の前で人が死ぬのを、見ていられないだけだ」

――理解できない。

何度言葉を交わしても、エリスにはユウの苦しみの核に触れることができなかった。論理で近づけば近づくほど、本質が遠ざかる。しかも厄介なことに、この男は平然とした顔でそれを覆い隠す。まるで何でもないことのように振る舞い、次の瞬間にはまた誰かのために動き出す。

それは、エリスにとってまったく新しい体験だった。

魔術の理を解き明かす時には、必ず答えがあった。問いを立てれば、時間の差こそあれ、解に到達できた。だがユウの苦しみには、解がなかった。なぜなら、それは解くべき問題ではなかったからだ。

――この男は、矛盾そのものだ。

命を奪う力を持ちながら、命を奪うことに苦しむ。しかしその苦しみを捨てることもしない。捨てれば楽になると知っていて、それでも手放さない。なぜなら、苦しみを捨てた瞬間に自分が「奪うだけの存在」になってしまうからだ。

苦しみが、彼を人にしている。

そしてこの男は、その苦しみを飲み込んで、明日もまた当たり前のように誰かのために剣を振るうのだ。

エリスはそのことに気づいた時、自分の内側に奇妙な感情が生まれるのを感じた。

名前のつけられない感情だった。敬意とも違う。同情とも違う。ましてや理解とは程遠い。ただ、この男の隣にいると、世界の色が少しだけ変わる。薄い膜の向こうにあったはずの世界が、ほんのわずかだけ近くなる。


「なあ、エリス」

ある夜、焚火の傍でユウが声をかけてきた。いつもの落ち着いた声だった。だが、碧い目は焚火の炎をじっと見つめている。

「なんだ」

「エリスってさ……退屈?」

エリスは少し目を見開いた。

「……なぜそう思う」

「いつも、どこか遠くのほうを見てるから」

何気ない言い方だった。だがその言葉は、エリスの胸に妙な正確さで届いた。

退屈か。

そうだ。ずっと退屈だった。世界はいつも遠くにあった。

「――ああ。退屈だった」

過去形で答えていた。

ユウが不思議そうな顔をする。

「今は?」

エリスは焚火を見つめた。炎の揺らめきが、二人の影を地面に伸ばしている。傍らには、先に眠りに就いたカルセナの寝息が聞こえる。

「今は――」

言葉を探した。天才と呼ばれた頭脳が、ひとつの感情に名前をつけようとして、うまくいかない。

「……わからない」

ユウは少し黙って、それから静かに笑った。普段の気さくな笑みではなかった。もっと静かで、どこか寂しげな――本当の笑みだった。

「そうか。……わからないってのも、悪くないね」

その表情を見た瞬間、エリスは確信した。

この男のことを、自分は一生理解できないだろう。そして、その「理解できなさ」こそが、自分をこの世界に繋ぎ止めている。

退屈は死んだ。

あるいは――裏返った。世界が退屈なのではなかった。自分が、世界に触れていなかっただけだ。

「ユウ」

「ん?」

「お前は面白いやつだ」

「……なにそれ、急に」

「褒めている。最大級に」

ユウは少し呆れたように笑い、エリスは鼻を鳴らして焚火に薪をくべた。

夜はまだ長く、戦争はまだ終わらない。

だが少なくとも、今この瞬間、エリス・フレンツェルは退屈していなかった。