副宰導の一日
朝は早い。
グリシカ・クルーシャは日の出の前に目を覚ます。王都の東区、魔術院が用意した官舎――と呼ぶには質素すぎる小さな住居で、彼女の一日は始まる。
寝台から身を起こし、まず左手の薬指に嵌めた指輪に触れる。マナ障壁の術式が正常に機能していることを確認する、毎朝の習慣。暗殺未遂のあった翌日から、この確認を欠かしたことはない。
着替えは手早い。副宰導の正装は袖が長く、動きにくいことこの上ないが、文句を言ったところで変わるものでもない。胸元にブローチ型の携帯魔導書を留め、腰帯にベルカ工房製の短杖を差す。ラナから贈られた長杖は、壁に立てかけたまま。今日は執行会議の日だ。戦場に出るわけではない。
護衛はいない。就任以来ずっとそうだ。単独で官舎を出て、まだ人気のない石畳の通りを歩く。
魔術院に着くと、すでに数名の研究員が棟の灯りを点けていた。
「おはようございます、副宰導」
受付の若い書記官が背筋を伸ばす。グリシカは軽く頷きだけを返し、執務室へ向かう。愛想がないのは自覚している。だが、朝の挨拶に添える適切な言葉というものを、いまだにうまく見つけられない。
執務室の机の上には、昨夜のうちに届いた書簡が積まれている。
一通目。カドレイユ公爵家からの嘆願書。南部の魔術研究拠点への追加予算を求めるもの。体裁こそ丁寧だが、要するに「うちの派閥にもっと金をよこせ」ということだ。
二通目。フレンツェル侯爵家――エリザからの書簡。魔道具の新しい試作品について、院の工房を借りたいとの申し出。こちらは純粋な学術的関心が伝わってくる。承認の判を押す。
三通目。王宮からの通達。宮廷魔術師の予算に関する報告要請。
溜息は、飲み込む。
午前の執行会議は、いつも通り穏やかには終わらない。
「副宰導、南部拠点の件ですが――」
カドレイユ派の幹部が切り出す。グリシカは表情を変えずに聞く。彼の言葉の裏にある政治的な思惑を読み解きながら、同時に、それがどれほど馬鹿馬鹿しいことかを噛み締めている。
「検討いたします」
その一言で場を収める。賛成も反対もしない。判断を保留することで、どの派閥にも与しない姿勢を保つ。
――中立を装う実務家。
誰がそう呼び始めたのかは知らないが、的を射ていると思う。好きでやっているわけではないが。
会議が終わると、廊下でエリザとすれ違う。
「グリシカ、工房の件ありがとう。今度お茶でもどう?」
「……気が向いたら、ぜひ」
エリザは苦笑して去っていく。もう少し愛想よくできればいいのだが、言葉を飾ることが、どうにも苦手だ。
昼は執務室で簡素な食事を取る。パンと干し肉、それに温かい茶が一杯。
食事の合間に、手元のマナ結晶を弄る。圧縮率の限界を探る実験――というほど大袈裟なものではないが、手が空くとつい触ってしまう。マナを圧縮し、密度を高め、臨界の手前で解放する。帝国の研究機関にいた頃から変わらない、彼女にとっての「息抜き」だ。
ふと、窓の外を見る。魔術院の中庭では、若い魔術師たちが模擬戦の準備をしている。
かつてはあの中に自分もいた。森の中で、師に叩き込まれた理を、ただ純粋に追いかけていた頃。
「……ラナ」
名前を口にしたのは無意識だった。今頃どこかの酒場で潰れているのだろうか。あの人は昔からそうだ。世界を放浪し、気まぐれに弟子を取り、酒を飲んで笑う。かつて使徒であったことなど微塵も感じさせない生き方。
あの奔放さが、少しだけ羨ましいと思うことがある。
午後は研究棟を巡回する。
各研究室の進捗を確認し、若手の報告を聞く。彼女が副宰導として最も力を入れているのは、実はこの巡回だ。才能ある若い魔術師が、貴族の派閥争いに巻き込まれて潰されることがないよう、目を光らせている。
「マナ流路の効率化について、面白い論文を見つけたんですが――」
目を輝かせて話す若い研究員に、グリシカは黙って耳を傾ける。口を挟まない。最後まで聞いてから、一言だけ助言を添える。
「着眼点はいいですね。ただ、圧縮効率の計算に一箇所誤りがあります。直して再提出してください」
研究員は一瞬しょげるが、すぐに頷いて走り去る。
……正直に言えば、誤りの指摘より先に「面白い」と言ってやりたかった。だが、この院では甘い言葉は毒になる。中途半端な評価は、貴族たちに「副宰導の贔屓」と解釈される。だから、正確な指摘だけを残す。
夕刻。執務室に戻ると、机の端に一冊の古い書物が置かれている。添えられた紙片には、見覚えのある筆跡。
『面白いものを見つけた。読んでみるといい。――ラーグラム』
魔導図書館に籠りきりの宰導が、時折こうして書物を届けてくる。かつて師を同じくした兄弟子。数百年の時を隔てた、奇妙な縁。
書物を手に取り、頁をめくる。古い時代のマナ理論に関する考察だ。今の体系では失われた視点がいくつか含まれている。
「……なるほど」
小さく呟く。ラーグラムが何を伝えたかったのか、理解するのにそう時間はかからない。この人は、言葉ではなく知識で語る。
日が暮れる。
執務を終え、魔術院を出る。帰路はいつも同じ道だ。護衛のいない、石畳の一本道。暗殺者が来るならここだろうと、自分でも思う。だが、足を止めるつもりはない。
――守られて生きるのは、性に合わない。
途中、王都の裏通りにある小さな酒場に足を向ける。今日は、約束がある。
扉を開けると、奥の席にすでに先客がいた。
「遅くなってすみません、グリシカさん」
メア・アトリュートが、すでに一杯目を空にしている。
「ごめん、会議が長引いてしまって」
グリシカは向かいに座り、店主に黙って指を二本立てる。いつもの酒が二つ、運ばれてくる。
「今日もお疲れですか? 顔が怖いですよ」
「……そう? いつも通りだと思うけど」
メアが肩をすくめて笑う。この二十代の若い魔術師は、グリシカにとって数少ない「肩書きなしで話せる相手」だ。師弟でも上下でもない。ただの飲み仲間。
「ラーグラムさんから変な本渡されませんでした?」
「ああ、渡されましたよ」
「やっぱり。あの人、最近やたら古文献を掘り返してますよね。……何か探してるのかな」
グリシカは答えない。ただ杯を傾ける。
ラーグラムが何を追っているのか。それはおそらく、この世界の秩序の根幹に関わる何かだ。だがそれを口にするには、まだ早い。
「店員さん、もう一杯頂けますか?」
「付き合いますよ」
夜が更ける。
官舎に戻ったグリシカは、外套を脱ぎ、短杖を定位置に置く。ブローチを外し、指輪だけを残す。
寝台に腰を下ろし、暗い天井を見上げる。
今日も、誰かを傷つけず、誰にも傷つけられず、一日が終わった。
精霊族と人間のあいだで育った自分が、人間の世界でできることは何か。その問いに、まだ答えは出ていない。秩序よりも調和を――そう信じてはいるが、この魔術院で調和を保つことが、どれほど困難なことか。
それでも明日もまた、同じ道を歩く。護衛なしの、一本道を。
「……おやすみ、ラナ」
届くはずのない言葉を、小さく呟いて目を閉じる。
どこかの酒場で酔い潰れているであろう師は、きっとこう言うだろう。
――「理由なんて、後から見つかればいいのさ」
そうかもしれない、と思いながら、グリシカは眠りに落ちた。