星なき夜の工房
魔術院の工房棟に、深夜の灯りが一つだけ残っている。
エリザ・フォン・フレンツェルは作業台の前に座り、手元の魔法鍵をじっと見つめていた。
鍵のような形状を持つ短杖――複雑な魔術刻印と精緻な細工で装飾されたそれは、初代エリス・フレンツェルが創り上げた秘宝。フレンツェル侯爵家が代々受け継いできた、王国屈指の遺産。
そして、エリザにとっては枷でもある。
「……もう一回」
小さく呟き、マナを鍵に流し込む。空間系統の術式を展開し、鍵の内部構造に触れようとする。歴代の魔術体系が整然と並ぶ「書庫」の層を通り過ぎ、その奥にあるはずの――空間生成の核へ。
マナが弾かれる。
いつも、ここで止まる。
扉は見えている。だがその先に進むだけのマナが、圧倒的に足りない。ひとつの王国を覆い尽くすほどのマナ。初代だけが到達した領域。
エリザは杖を作業台に置き、髪をかき上げた。息を一つ、吐く。
「……はあ」
何百回目かの失敗だった。記録も取っている。毎回微妙にアプローチを変え、理論を更新し、再挑戦する。進歩がないわけではない。鍵の内部構造に対する理解は、おそらく歴代の当主の中でも随一だろう。
だが、「理解すること」と「到達すること」は違う。
その差が、エリザには何よりも重い。
「まだいらっしゃったんですか」
声に振り向くと、工房の入口にグリシカ・クルーシャが立っていた。質素な外套を羽織り、腰帯にはベルカ工房製の短杖。執務を終えた帰り道、ということだろう。
「見回りの途中?」
「いえ、灯りが見えたので。こんな時間に工房を使っているのはエリザ様くらいですから」
「『様』はやめてって言ってるでしょ」
エリザは苦笑する。グリシカは表情を変えずに小さく頷き、工房の中へ足を踏み入れた。
作業台の上に広がった図面と魔術式の走り書き、それに置かれた魔法鍵を一瞥する。何をしていたのかは、一目で分かっただろう。
「お茶を淹れましょうか。湯沸かしの術式なら、ここの設備で十分です」
「……お願い」
グリシカが手際よく茶を用意する間、エリザは作業台に頬杖をついていた。
この副宰導は、余計なことを聞かない。それがありがたくもあり、時に少しもどかしくもある。
二つの杯が作業台に置かれる。
「ありがとう。……ねえ、グリシカ」
「はい」
「あなたはラナに育てられたんでしょう。千年を生きた精霊族に」
グリシカの動きが一瞬止まる。だが、すぐに杯を手に取り、静かに答えた。
「ええ。幼い頃から」
「師の背中を見て、届かないと思ったことはある?」
間があった。
「……常に」
短い言葉だった。だが、そこに嘘がないことは分かる。
「ラナは千年を生きた使徒です。あの人が身体にマナを流して戦う姿を初めて見た時、私はこう思いました。……これは一生かかっても追いつけない、と」
「でも、あなたは追いかけた」
「追いかけた、というより……ラナが残したものの中に、自分なりの道を見つけただけです。マナ圧縮は、ラナの戦い方を見て考え始めた理論ですが、最終的にはラナとは全く違うものになりました」
エリザは黙って聞いていた。
「エリス様が創り上げたものを、そのまま再現する必要はないのかもしれません」
「――分かってる」
エリザは杯を両手で包んだ。温かい。
「分かってるんだよ、頭では。初代と同じことをする必要はない。この鍵には歴代の魔術が詰まっていて、それだけでも十分な力がある。でもね」
言葉を切る。
「……空間生成の核に触れた瞬間があるの。ほんの一瞬だけ。そこに何があるか、感じられる。完全な循環構造――マナが劣化せず永続的に留まる閉じた泉。初代はそれを創り上げた。その、途方もない美しさが分かってしまうから」
手の中の杯を見つめる。
「分かるからこそ、諦められない。届かないと知っていても」
グリシカはしばらく無言だった。やがて、小さく息を吐いた。
「……私も、同じです」
「え?」
「ラナのマナの流し方。あの人は身体中の流路を完全に制御して、マナそのものを武器にする。その流れを見た時の感覚は、今でも覚えています。あまりにも自然で、あまりにも美しくて、これはきっと人には到達できない領域だと思いました」
グリシカは杯を傾けた。
「でも、あの流れを見たからこそ、マナの密度を極限まで高めるという発想が生まれた。ラナの到達点には届かない。でも、見たものは消えない。見たものが、別の道を照らすこともある」
エリザは目を伏せ、それから小さく笑った。
「……あなたって、普段はあんなに無愛想なのに、たまに良いこと言うよね」
「お褒めいただき恐縮です」
「褒めてない。……半分くらいしか」
茶を飲み終え、グリシカが先に席を立った。
「あまり遅くならないでください。明日も執行会議がありますので」
「分かってる。もう少しだけ」
グリシカは小さく頷き、工房を出ていく。その足音が石の廊下に消えるまで、エリザは黙って耳を傾けていた。
一人になった工房で、再び魔法鍵を手に取る。
複雑な魔術刻印が、工房の灯りを受けて淡く光る。歴代の当主が注ぎ込んだ魔術。その最奥に眠る、初代だけが見た景色。
「見たものは、消えない、か」
グリシカの言葉を反芻する。
エリザは鍵にマナを流した。空間系統の術式を展開する。いつもの手順。いつもの道筋。
だが今夜は、少しだけ変えてみる。
核に触れようとするのではなく、核が残した「痕跡」を辿る。初代が空間を生成した時、鍵の内部構造に刻まれたはずのマナの流路。それは現在も鍵の奥底に残っているはずだ。空間そのものは維持されていなくとも、かつて流れた道は消えない。
マナが、微かに応える。
「……っ」
ほんの一瞬。指先に伝わる感覚。いつもとは違う手応え。核に弾かれるのではなく、核の外郭に沿ってマナが流れる。まるで、閉じた扉の隙間から風が漏れるように。
すぐに途切れた。だが、今の感覚は確かだった。
エリザは魔法鍵を握りしめ、目を閉じた。
心臓が鳴っている。
これが答えかどうかは分からない。初代の到達点への道が開けたわけでもない。だが――
「見えた」
小さく、だが確かにそう呟いた。
新しい走り書きを始める。今夜の実験記録。今の感覚を、一字も逃さず書き留める。
窓の外に星はない。厚い雲が、夜空を覆い隠している。
だが工房の灯りは、もうしばらく消えそうになかった。