秤を持つ男
カドレイユ派の人間が魔術院に来ること自体は珍しくない。
予算の陳情、人事への介入、研究への口出し。名目はさまざまだが、目的はいつも同じだ。派閥の影響力を院内に浸透させること。グリシカ・クルーシャが副宰導に就いて以来、その頻度は増しこそすれ、減ることはなかった。
平民の副宰導は、彼らにとって目障りなのだ。
だから、研究棟の廊下で若い貴族の姿を見た時も、グリシカは特に驚かなかった。
距離を詰めすぎず、視界に入る位置で立ち止まっている。こちらから声をかけさせる間合い。政治を心得た人間の立ち方だった。
研究室の報告を聞き終え、振り返る。
若い男だった。二十代後半。整った身なりだが、大貴族の威圧感はない。中堅の家だろう。目が合うと、すぐに会釈をしてきた。動きに無駄がない。
「……レーヴェン子爵ですか」
名前は知っていた。カドレイユ派の末席に名を連ねる、中部の小領主。先代当主の急逝後、若くして家督を継ぎ、派閥に身を寄せた。目立った武勲も魔術の才もない。だが、こうして院に出入りしているということは、派閥の中で何らかの役割を与えられているのだろう。
「お忙しいところ失礼いたします。本日は予算案の件で事務方とお話をしておりまして」
声に緊張はない。言葉遣いは丁寧だが、卑屈さがない。嘘をついている顔でもない。嘘をついている自覚がないのか、それとも嘘を嘘と思わない程度に慣れているのか。
後者だろう、とグリシカは判断した。
「そうですか」
それだけ返した。それ以上は要らない。この男が何をしに来たかは、見れば分かる。事務方への用事は口実で、本命は自分だ。カドレイユ派が副宰導の周辺を探りに来た。おそらくエクハルトあたりの指示。
「少しだけお時間をいただけますか。南部拠点の件で、現場からの声をお伝えしたく」
「現場の声、ですか」
グリシカは男の目を見た。
嘘ではない。だが、本心でもない。この男は「現場の声」を道具として使っている。自分がそうしていることに、おそらく気づいている。気づいた上で、口にしている。
――器用な男だ。
「……立ち話で良ければ」
歩き始める。半歩遅れてついてくる足音。距離の取り方が上手い。近すぎず、遠すぎず。
南部拠点の設備、冬季の観測、予算の遅延。筋の通った話をしてくる。嘘は混ぜていない。ただ、この話をしたくてここに来たわけではないことが、声の温度で分かる。
「士気に影響が出ることを懸念しております」
「士気」
その一語が、グリシカの耳に引っかかった。
この男は今、初めて本音に近い言葉を使った。予算でも設備でも制度でもなく、「士気」。人の心に関わる言葉。政治の駒としてではなく、現場にいる人間のことを、一瞬だけ考えた。
意図的かどうかは分からない。だが、あの一語だけは計算ではなかった気がする。
「現場の研究員が成果を出すために必要なものは、できる限り整えたいと思っています。ただ、予算は有限です。どこかを増やせば、どこかが減る。それを判断するのが執行会議の役割です」
自分の原則を述べた。いつも通りの言葉だ。
そして、釘を刺す。
「レーヴェン卿。カドレイユ公爵家の嘆願書は拝読しました。現場の声を届けたいというお気持ちは理解しますが、予算の増減は政治ではなく、必要性で判断します。それだけは、お伝えしておきます」
男の表情が、わずかに動いた。驚きではない。むしろ、確認。こちらが全部見えていることを、ここで確認した顔。
「肝に銘じます。お時間いただきありがとうございました」
丁寧に頭を下げて、去っていく。
グリシカはその背中を一瞬だけ見送り、次の研究室へ向かった。
――器用で、賢い。だが、それだけの男だ。
カドレイユ派にはああいう人間が何人もいる。信念ではなく計算で動き、派閥の意向に沿って器用に立ち回る。悪人ではないが、自分の足では立っていない。
そういう人間を、グリシカは何人も見てきた。帝国の研究機関にいた頃も、魔術院に来てからも。才能があっても、政治に飲まれて消えていく者。器用であることが、かえって足枷になる者。
あの男も、そうなるのだろう。
そう思って、それきり忘れた。
忘れていた。
十日後にもう一度、あの男の顔を見るまでは。
帝国が動いた。
東部国境の緊張。王国騎士団の展開。五星の出撃。評議の紛糾。統一指揮権の棚上げ。
グリシカにとって、戦争の足音は政治の喧騒として届いた。魔術院は直接の戦闘には関わらないが、後方支援と研究資源の配分は副宰導の管轄だ。執行会議は連日の開催。各派閥からの圧力は増し、処理すべき書簡は山と積まれた。
その日も、遅くまで執務室にいた。
日が暮れてようやく院を出る。いつもの裏門。いつもの一人の帰り道。
「副宰導」
声に振り向くと、あの男がいた。
レーヴェン子爵。カドレイユ派の末席の若い貴族。前回は派閥の密命で来た男。
だが、今日は空気が違った。
何が違うのかは、すぐには分からなかった。立ち姿は同じだ。丁寧な物腰も同じだ。だが、目が違う。前回は探るような、測るような目だった。今日の目は——
何かを探しているのではなく、何かを確かめようとしている目だった。
「レーヴェン卿。今日も事務方に」
「ええ。補給線の件で。……少しお時間をいただけますか」
前回と同じ言葉。だが声の温度が違う。計算の色が薄い。
「……歩きながらでよければ」
二人で歩き始めた。夕暮れの通り。グリシカは黙って待った。この男が何を言うのか、急かす必要はない。
「副宰導。一つ伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「あなたはなぜ、護衛をつけないのですか」
足が、一瞬だけ乱れた。
予想していなかった。予算の話でも、派閥の話でも、戦争の話でもない。護衛の話。自分個人に関わる話。
この男は、政治の用事で来たのではない。
「……仕事に必要ないからです」
「暗殺未遂があったと聞いています」
「ありました」
「それでも、ですか」
グリシカは少し考えた。
この問いに、どう答えるべきか。副宰導として、政治的に無難な答えはいくらでもある。だがこの男は今、政治の言葉を聞きに来たのではない。
「レーヴェン卿。守られて生きることは、私の性に合いません。それだけです」
本音だった。珍しいことをした、と自分でも思った。
男は黙って聞いていた。その沈黙に、前回にはなかった重さがあった。
「もう一つ、伺ってもいいですか」
「どうぞ」
「統一指揮権の件。副宰導は、どうお考えですか」
足を止めた。
政治的な意見は述べられない。それが副宰導としての原則だ。魔術院は独立機関であり、王家と貴族の争いに介入しない。
だが、この男は「政治的な意見ではなく」と続けた。
「一人の人間として。帝国が攻めてきた時、指揮系統が分断されたまま戦うことを、どう思いますか」
一人の人間として。
グリシカは夕暮れの空を見た。茜色が薄れ、紫が滲み始めている。商人が荷車を引く音が聞こえる。子供の笑い声が、路地の向こうから。
ラナならどう答えるだろう、と一瞬だけ思った。
あの人なら笑って「知らないよ、そんなこと」と言うだろう。そしてその後で、真顔になって「でも、人が死ぬのは嫌だね」と付け加えるだろう。
「……人が死にます」
自分の声が、思ったよりも静かだった。
「指揮が統一されていなければ、前線の判断が遅れます。遅れた分だけ、兵が死にます。それは、政治の問題ではありません」
「必要性の問題ですか」
男が、自分の言葉を返してきた。前回、廊下で言った言葉を。覚えていたのだ。
「……ええ。必要性の問題です」
沈黙が落ちた。だが、居心地の悪い沈黙ではなかった。
男が頭を下げた。
「ありがとうございます。お時間を取らせました」
グリシカは頷き、歩き出した。数歩進んで、足が止まった。
振り返ったのは、自分でも理由が分からなかった。
「レーヴェン卿」
「はい」
男の目が、夕日を受けていた。前回とは違う目。探る目でも、測る目でもない。揺れている目。何かの縁に立っている者の目。
――この男は、変わろうとしている。
その直感が、グリシカの口を動かした。
「……判断は、ご自身でなさってください。誰かに決めてもらうものではありません」
言ってから、余計なことを言ったかもしれないと思った。副宰導の立場で、カドレイユ派の人間に助言めいたことを口にするのは、政治的に賢くない。
だが、あの目を見て黙っていることが、できなかった。
それだけのことだ。
帰り道、いつもの一本道を歩きながら、グリシカは考えていた。
器用で、賢い。だが、それだけの男だ。
前回、そう判断した。そして忘れた。
今日、同じ判断を下せるかと問われれば、少し迷う。
あの男は変わろうとしていた。何がきっかけかは分からない。だが、「勝つ側を選ぶ」ために来た前回の男と、「自分で判断するために」来た今日の男は、同じ顔をしていて別の人間だった。
人は変わる。
当たり前のことだ。だが、副宰導という椅子に座っていると、その当たり前を忘れそうになる。貴族は貴族の論理で動き、派閥は派閥の慣性で回り、何も変わらないように見える日々が続く。
その中で、一人の若い子爵が、自分の足で立とうとしている。
――それだけで、少し救われる。
大袈裟だとは分かっている。一人の貴族が変わったところで、魔術院の政治は変わらないし、カドレイユ派が弱まるわけでもない。
だが。
グリシカは、かつて自分を拾ってくれた師の言葉を思い出した。
「理由なんて、後から見つかればいいのさ」
あの男がこれからどうするかは分からない。カドレイユを離れるのか、留まるのか。王家につくのか、別の道を探すのか。
それは彼自身が決めることだ。
グリシカにできるのは、ただ一つ。自分の原則を、自分の言葉で伝えること。それだけだ。
官舎の扉を開け、外套を脱ぐ。短杖を定位置に置き、ブローチを外す。
いつもの夜の始まり。
だが今夜は、寝台に腰を下ろした後で、少しだけ考えた。
あの男は、明日どんな顔をしているだろう。
秤を握り続けているだろうか。それとも――
「……余計なお世話だったかな」
小さく呟いて、目を閉じた。
メアに聞かれたら笑われるだろう。「グリシカさんが人のこと心配するなんて珍しいですね」と、あのそっけない口調で。
「……うるさいな」
誰もいない部屋で、誰にともなく呟いた。
明日もまた、同じ道を歩く。護衛なしの、一本道を。
だが今日は、その道の途中で、少しだけ足を止めてよかったと思った。