ユノ・フェルティアの物語
第一章「山と師のもとで」
第1話「朝焼けの谷」
朝が来る。
山の朝は早い。お日さまが山の向こうからちょっとだけ顔を出すと、谷の空気がぱっと変わる。夜の冷たさが残ってるのに、空がじわっと橙色になって、鳥が鳴き始めて、杉のいい匂いがしてくる。
わたしはその匂いで目を覚ます。
毎朝、同じ匂い。同じ音。同じ冷たさ。でも不思議と、飽きない。
「ユノ。起きてるかい」
板戸の向こうから、低くて落ち着いた声。カーラ先生だ。
「起きてます」
「なら、水を汲んできな。朝の鍛錬の前に」
「はーい」
寝台から降りる。八つの身体はまだ小さくて、寝台の縁に足が届かない。ちょっと飛び降りるみたいにして床に立つ。冬が終わったばかりの朝はまだ冷たい。素足に木の床がひやっとする。
着替えて外に出ると、谷の向こうに朝焼けが広がっていた。
ルーアの谷。アーヴェリア王国の南東にある、山に囲まれた小さな村。家は二十軒くらい。畑があって、牧草地があって、山の斜面には果物の木が植えてある。王都からは馬で五日かかるらしいけど、わたしは王都を見たことがない。
知ってるのは、この谷と、山と、カーラ先生だけ。
井戸は家の裏にある。桶を持って歩いていくと、隣の家のトーマスさんが、もう畑に出ていた。
「おう、ユノ。今朝も早いな」
「おはようございます、トーマスさん」
「カーラ先生は元気かい」
「元気ですよ。今朝もわたしより先に起きてました」
「はは、あの人はいつもそうだ」
トーマスさんはカーラ先生のことを「あの人」って呼ぶ。村の人たちはみんなそうだ。「先生」とは呼ばない。カーラ先生が嫌がるから。「わたしは教師じゃないよ」っていつも言う。でもわたしにとっては先生だから、先生と呼ぶ。
水を汲んで家に戻ると、先生が庭に立っていた。
白髪まじりの髪をうしろで一つに束ねて、動きやすい革の上着に麻のズボン。腰には木剣。背筋はぴんとまっすぐで、わたしから見ると、すごくかっこいい。
「遅い」
「走って戻りましたよ」
「走って戻って遅い。水を汲むのに手間取ったね」
「……桶が重いんです」
「なら身体を鍛えな。さあ、始めるよ」
先生が木剣を投げてよこす。わたしは桶を置いて、両手で受け取る。
朝の鍛錬は、毎日同じことをする。
まず、型。先生が教えてくれるのは宮廷式の剣術で、一つ一つの動きに名前がついてる。それを順番につなげて、何回も何回も繰り返す。
「違う。足が先。手はその後」
「こう、ですか」
「遅い。考えてから動いてるだろう。考えるな。足が地面を踏んだ瞬間に、手が動いてるようにしな」
考えるな、は先生の口癖だ。
わたしは考えるのが好き。何かを覚える時、まず頭で「こうだな」って分かってから動きたい。でも先生はそれを嫌がる。「頭で分かることと、身体が知ることは違う」って言う。
正直、先生の言ってること、なんとなく分かる。
頭で「こう動こう」って思ってから動くと、いつもちょっと遅れる。考えて、判断して、動く。その「ちょっと」が、剣ではだめらしい。先生にはそれがない。先生は、見て、もう動いてる。
わたしもたまに、近いことがある。
何も考えないで振った剣が、すごく綺麗に動くことがある。足が勝手に正しい場所に行って、腰が回って、剣がすとんと決まる。
でも、たまにしかできない。
「——今の。悪くない」
先生が言った。手の中に、木剣が空を切った感触がまだ残ってる。
「今のは、何も考えてなかった」
「だからいい。お前の身体は、頭より賢いんだ」
こういうことを言われると、嬉しいけどちょっと悔しい。頭がいいって言われるのと、身体が賢いって言われるのは、なんか違う。でも先生がそう言うなら、そうなんだろう。
型の練習が終わると、打ち込み。先生が構えた木剣に、わたしが打っていく。
先生の受けは重い。受け止めるだけじゃなくて、受けた瞬間にこっちの身体がぐらっとなる。何回やっても、いつの間にか足元がふらふらになってる。
「力で打つな。力比べをしたら、お前は一生わたしに勝てないよ」
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「相手の力を使いな。押してくるなら乗る。引くなら一緒に引いて崩す」
わたしは小さい。同じ年の村の子と比べても、背が低い方だ。先生は背が高くて、腕も長い。同じように剣を振っても、届く距離が全然違う。
だから、工夫する。
先生の剣が上から来た時、正面で受けないで、半歩だけ横にずれる。そうすると先生の剣が空振りして、ほんの一瞬だけ体勢が崩れる。その隙に——
「甘い」
横から木剣が飛んできて、わたしの脇腹を叩いた。痛い。
「発想はいい。でも『半歩』が大きすぎる。もっと小さく。相手の剣がぎりぎり届かない場所に立つんだ」
「ぎりぎり、ですか」
「そう。安全な場所に逃げるんじゃない。危険の、すぐ隣に立つ。それが間合いってやつだよ」
危険の、すぐ隣に立つ。
先生の言葉は、短いのにずしっとくる。意味が全部分かるわけじゃないけど、なんか大事なことを言ってるのは分かる。
鍛錬が終わると、朝ごはん。
先生の家は、村の外れにある。集落から少し離れた、山の斜面に建つ小さな木の家。部屋は三つ。先生の寝室と、わたしの寝室と、居間兼台所。
居間の壁に、一振りの剣が掛けてある。
鞘に入った、細い長剣。飾りはないけど、鞘の革はぴかぴかに手入れされていて、金具もきれい。先生がこの剣を抜くところを、わたしは一度も見たことがない。
「先生、あの剣って——」
「昔のものだよ」
いつもそう言って、話を終わりにする。
先生には、聞いちゃいけないことがいくつかある。あの剣のこと。先生が村に来る前のこと。それから——わたしの両親のこと。
わたしに両親がいないのは知ってる。先生に育てられたのも知ってる。でも、それ以上のことは、先生は教えてくれない。
「食べな。午後は魔術の時間だ」
「はい」
朝ごはんは質素。パンと、チーズと、昨日の残りのスープ。山の暮らしは贅沢じゃないけど、足りないものはない。
先生はご飯を作るのがうまい。スープの味付けが絶妙で、村のおばさんたちに「どうやって作ってるの」って聞かれて困ってるのを見たことがある。
「先生、スープおいしいです」
「毎朝同じことを言うね」
「毎朝おいしいから、毎朝言います」
「……ふん」
先生は笑わない。笑わないけど、口のはじっこがほんのちょっとだけ上がることがある。今がそう。これがカーラ先生の笑い方。
午後の魔術の時間は、わたしが一番好きな時間だ。
家の裏手、山の斜面を少し登ったところに、平らな岩場がある。そこが練習場所。下にはルーアの谷が広がっていて、遠くには山の稜線が並んでいる。
「今日はまず、昨日の復習。風の操作。やってごらん」
先生が言う。わたしは頷いて、腰の小さな魔導書に手を触れる。先生が手作りしてくれた、革綴じの手帖みたいなやつ。
魔術は、言葉を使って発動する。先生が教えてくれるのは一般魔術言語っていうもので、魔導書にはその基本の術式が書いてある。風の操作は属性魔術の基本で、空気の中のマナに力を加えて風を起こす。
手を出す。術式を唱える。マナを集めて、言葉に乗せて——
「うーん」
風が起きた。でも弱い。落ち葉が一枚、ふわっと舞ったぐらい。
「マナの集め方が足りない」
「足りないっていうか……うまく集まらないんです」
これが、わたしの苦手なところ。
魔術の基本は、自分の中のマナを操ること。マナを集めて、ぎゅっとして、術式に乗せる。この「集めてぎゅっとする」が、どうにもうまくいかない。
やり方は分かってる。先生の言う通りにやってるつもり。でもマナが霧みたいに散っちゃう。砂を握るような感じ。ぎゅっとしても、指の隙間から抜けていく。
「お前のマナ操作が弱いのは、今に始まったことじゃない。だが、それで終わりじゃないだろう」
「……はい」
「マナが足りないなら、術式で補え。同じ結果を、違う道から出す方法がある」
先生はそう言って、魔導書の別のページを開かせた。
「風を直接起こすんじゃなく、空気の温度の差を使って自然に流れを作る術式がある。こっちなら、少ないマナでも風を起こせる。やってごらん」
新しい術式を読む。温度の差を使った空気の流れ——ちょっと難しいけど、なんとなく分かる。自分のマナを使う量が減るってことだ。
組み立てる。さっきとは違う道。同じ「風を起こす」なのに、裏道から行くみたいな感じ。
手をかざす。
風が吹いた。さっきよりずっと強い。落ち葉がぶわっと舞い上がって、わたしの髪がばさばさ揺れる。
「あ——」
「見ろ。同じ結果だ。道が一本しかないと思うな」
嬉しい。こういう瞬間が、わたしは大好きだ。「あ、こうすればいいんだ」って分かった時。世界がちょっとだけ広くなる。
「先生、これの応用で——火にも似たやり方ありますか?」
「自分で考えな」
「えー」
「えー、じゃない。わたしが全部教えたら、お前の頭が怠ける。自分で考えろ」
風の術式の後、火の練習に移った。
先生が小さな薪の束を岩場に並べる。
「点けてごらん」
火の術式。マナに熱を乗せて、燃やす。理屈は分かる。でも、やっぱりマナが足りない。
手を出す。術式を唱える。
小さな火花がぱちっと散っただけ。薪には届かない。
「もう一回」
もう一回。今度はちょっとだけ火が出た。でもすぐ消える。
「マナが散ってる。集め方を変えろ」
「……さっきの風みたいに、別の道を探せってことですか」
「自分で言ったじゃないか」
くそ、と心の中だけで思う。先生に聞こえたら怒られる。
考える。火をつけるのに、マナをそのまま熱にする以外の方法。風の時は温度の差を使った。火の場合は——
あ、と思った。
ものが燃えるのに必要なのは、燃えるものと、空気と、熱。先生が前に教えてくれた。じゃあ、大きい熱を作る代わりに、薪のまわりの空気をいじって燃えやすくすれば、ちょっとの熱でも火がつくんじゃないか。
でもそれ、風と火を一緒に使うってことだ。二つの魔術を同時に——
「……やってみていいですか」
「何を?」
「風と火を一緒に使います。たぶんうまくいく——たぶん」
先生の目がちょっと細くなった。
「やってごらん」
魔導書の二つのページを見る。風と火。二つの術式を頭の中で並べて、くっつけられそうなところを探す。
できるかな。分からない。でも、なんか——できそうな気がする。
手を薪に向ける。
風が、薪のまわりをふわっと包む。そこに、ほんのちょっとだけ熱を乗せる。
ぼう、と音がして、薪に火がついた。
「——あ、ついた!」
きれいな火だった。ちゃんと安定してる。
「複合か」
先生の声がちょっと変わった。いつもの平たい声と、ちょっとだけ違う。
「二つの属性を同時に使うのは、お前にはまだ早い技のはずなんだが」
「怒ってます?」
「怒ってない。……呆れてるだけだ」
呆れてる、って言いながら、口のはじっこが上がってた。
「ただし——」
先生の声が真面目になった。
「組み合わせを間違えたら暴発する。今日はたまたまうまくいったが、風と火の組み合わせは一番危ない。制御を間違えたら、お前の手が焼ける」
「……はい」
「新しいことを試すなとは言わない。だが、試す前に『失敗したらどうなるか』を考えろ。それができないうちは、ただの無茶だ」
「はい、先生」
先生は頷いて、薪の火を見た。わたしが点けた火が、ゆらゆら燃えてる。
「……八つでこれをやるのは、わたしの知る限りではいないね」
「それ、褒めてます?」
「事実を言っただけだ」
事実を言っただけ。それが先生の一番の褒め方だって、わたしはもう知ってる。
魔術の練習のあと、少し時間が余った。
先生が「好きにしていい」と言うので、わたしは岩場のふちに座って谷を見下ろした。
ルーアの谷は、夕方になると金色になる。斜面の果物の木が西日に光って、川がきらきらして、家の煙突から煙がゆっくり上がっていく。
きれいだな、と思う。
毎日見てるのに、毎日そう思う。同じ谷、同じ山、同じ空なのに。光が違う。風の匂いが違う。だから毎日、ちょっとだけ違う。
「先生」
振り返ると、先生も谷を見ていた。わたしとは違う目で。もっと遠くを見てる感じの目。
「きれいですね」
「ああ」
「先生は、ここ好きですか」
「好きだよ。だからここにいる」
短い言葉だった。でもなんか、その中にいっぱい詰まってる気がした。
「わたしも好きです」
「そうかい」
二人で並んで、金色の谷を見てた。それだけで、なんか、よかった。
夕方、帰り道。
山道を先生と二人で歩く。先生の歩く速さに合わせて、ちょっとゆっくり。
道の横に、白い花が咲いていた。
「先生、この花なんていうんですか」
「シロツメノカ。山によく生える。薬にもなるよ」
「へえ。何の薬?」
「煎じれば咳止めになる。でも、根は毒だ。覚えておきな」
「花は薬で、根は毒。へんなの」
「変じゃないよ。世の中のものは大抵そうだ。いい面と悪い面がある」
先生はこういう時、花の話だけじゃなくて、もっと大きいことを言ってる気がする。でも八つのわたしには、なんとなくしか分からない。
家に着いて、夕ごはんの準備。
「先生、今日わたしが作っていいですか」
「……お前が?」
「先生に教わったんですよ。できます。たぶん」
「たぶん、ね」
先生の口の端がちょっと上がった。
「いいだろう。ただし不味かったら言うからね」
「望むところです」
夕ごはんは、ちょっと焦げた。先生は「不味い」とは言わなかった。「味付けは悪くない」と言ってくれた。
それが先生の優しさだって、わたしは知ってる。
夜。
食事が終わって、先生が薪をくべる炉のそばで、わたしは術式の書き写しをしてる。先生が教えてくれた術式を、自分の手帖に写す作業。毎晩やってる。
「ユノ」
「はい」
「明日は村に買い出しだよ。お前も来な」
「はい。何を買うんですか?」
「塩と油と糸。あとはバレン先生のところに薬をもらいに行く」
「薬? 先生、どこか悪い——」
「歳を取ると、あちこちガタが来るんだよ。大したことじゃない」
大したことじゃない。先生はいつもそう言う。
夜中に、目が覚めた。
理由は分からない。物音がしたわけでも、寒かったわけでもない。ただ、ふっと目が開いて、暗い天井を見てた。
こういうこと、たまにある。
夜中に目が覚めて、しばらくぼんやりする。そうすると決まって、あの夢の残りみたいなものが、頭のすみっこにくっついてる。
いつも同じ夢。
赤い空。なにかが燃えてる。何が燃えてるのかは分からない。ただ、赤い。それと——誰かの腕の中にいる。大きくて、あったかくて、震えてる腕。
声が聞こえる。何か言ってる。でも聞き取れない。水の底から聞こえるみたいに、ぼんやり。
そして、冷たくなる。
あったかかったものが、急になくなる。
そこで目が覚める。いつも。
これが本当のことなのか夢なのか、分からない。カーラ先生に聞いたことが一回だけある。
七つになったばかりの夜だった。「先生はどうしてわたしを拾ったんですか」って聞いた。深い意味はなかった。ただなんとなく。
先生は長い間黙ってた。わたしが「すみません」って言いかけた時、先生が口を開いた。
「戦争があった」
いつもと違う声だった。
「帝国がこの国に攻めてきた。大きな戦だった。たくさんの村が焼かれた。お前がいた村もそのひとつだ」
「……」
「焼け跡の中に、お前がいた。泣いていなかった。六つの子供が、親を失って、泣いていなかった」
先生はそこで言葉を切った。しばらくして、続けた。
「連れて帰った。それだけだよ。……放っておけなかった」
わたしは「ありがとうございます」と言った。先生は「礼を言われることじゃない」と言った。
それきり、その話はしてない。
わたしも聞かない。
先生がいて、山があって、鍛錬があって、魔術がある。それがわたしの世界。それでいい。
でも、夜中に目が覚めた時だけ。あの夢の残りが消えるまでの少しの間だけ。胸の奥に、冷たいものがある。固くて、溶けない。普段は気にならない。朝になれば忘れる。でも、なくなったことは一回もない。
毛布を引っ張って、目を閉じる。
明日は買い出しだ。村に行けば、マリアさんがおまけをくれる。トーマスさんが畑の話をしてくれる。ルッツたちが遊ぼうって言ってくる。先生はバレン先生に怒られて、むすっとした顔で帰ってくる。
そういうことを考えると、冷たいのがちょっとだけ遠くなる。
大丈夫。明日は来る。いつも通りの明日が。
翌朝。買い出しの日。
「やあ、ユノちゃん。今日はカーラさんと一緒かい?」
雑貨屋のマリアさんが声をかけてくる。
「はい。塩と油と糸をください」
「はいはい。カーラさん、ちょっと痩せたんじゃない? ちゃんと食べてる?」
「食べてますよ。昨日はわたしが作ったんです」
「あら! ユノちゃんがご飯作るの? えらいねえ」
「ちょっと焦げましたけど」
「そこがかわいいわね」
マリアさんはいつもおまけに干し果物を入れてくれる。ありがたい。
先生は店の外で待ってる。人と話すのが得意じゃないから、買い物はいつの間にかわたしの仕事になった。
買い物を終えて広場を通ると、子供たちの声が聞こえた。
ルッツたちが棒を振り回して遊んでる。剣ごっこだ。
「おれは五星だ!」「じゃあおれ帝国の将軍!」「おれリゼ・ヴァレインやる!」
「あ、ユノだ! 一緒にやろう!」
ルッツが手を振った。鍛冶屋の息子で、わたしより一つ上。元気で、ちょっと乱暴で、でも根はいいやつ。
「ごめん、今日は先生と買い出しなの」
「えー、つまんないの。ユノがいると面白いのに」
「また今度ね」
「約束だぞ!」
手を振って、先生のところに戻る。先生は日だまりで壁にもたれて目を閉じてた。
「先生、終わりました」
「ああ。……友達は大事にしな」
「聞こえてたんですか」
「聞こえた」
バレン先生のところに行く。村でひとりの治療師。五十くらいの優しいおじさん。
「カーラ。また無理してるだろう」
「してない」
「嘘をつくな。脈が乱れてる」
「大したことじゃない」
「大したことじゃないかどうかはわたしが決める」
先生とバレン先生はいつもこんな感じ。わたしは診療所のすみで座って、聞いてないふりをしてた。
帰り道。
「先生、荷物持ちます」
「お前にゃ重いだろう」
「持てます」
先生はわたしの顔をじっと見て、何か言いかけて、やめた。
「……好きにしな」
山道を並んで歩く。荷物は重いけど、持てないほどじゃない。
その夜。炉端で。
「ユノ」
「はい」
「お前は——この村の外に、興味はあるかい」
「外?」
「この谷の向こうに何があるか。そういうこと」
「……ちょっとだけ」
「ちょっとだけ?」
「ここが好きだから。先生がいて、山があって。それでいいです」
先生は黙って、炉の火を見てた。
「世界は広いよ。この谷からは想像もつかないくらい」
「先生は見たんですか」
「……ああ。美しかった。今思い出すのは、美しいことばかりだ」
先生の横顔が、炉の火に照らされて、いつもよりちょっとだけ柔らかく見えた。
「先生」
「なんだい」
「いつか見てみたいです。先生が見た世界」
先生がわたしを見た。何かを確かめるみたいな目で。
何も言わないで、炉に薪をひとつくべた。
火が、静かに燃えてた。
こうして、わたしの毎日は続く。
朝に起きて、水を汲んで、剣を振る。午後は魔術をやって、夕方に帰って、夜は術式を書き写す。たまに村に行って、たまに山で鳥の声を聞いて、たまに夜中に目が覚ける。
変わらない毎日。でも、ちょっとずつ変わっていく毎日。
わたしの剣は少しずつ速くなって、魔術でできることが少しずつ増えて。先生は変わらず厳しくて、でもたまに口のはじっこが上がって。
それでいい。それだけでいい。
ルーアの谷の朝は、明日も早く来る。
わたしはその朝を、先生と一緒に迎える。
何度でも。
——そう、思っていた。