ユノ・フェルティアの物語

第一章「山と師のもとで」

第2話「山の向こうの音」


 十になった。

 何が変わったかって言うと、桶が重くなくなった。

 毎朝の水汲みは相変わらず。でも二年前みたいにふうふう言いながら運ぶことはなくなって、走って帰っても息が切れなくなった。先生は「遅い」って言わなくなった。代わりに何も言わなくなった。何も言わないのが、先生の「合格」だ。

「型、始めるよ」

「はい」

 木剣を受け取る。二年前より、手に馴染む。

 型を流す。足、腰、剣。三つが揃う感覚が、前よりずっと多くなった。考えなくても動ける型が増えてきて、先生に「考えるな」って怒られる回数が減った。

 でもゼロにはならない。

「今の七手目、迷っただろう」

「……はい」

「迷いは剣に出る。お前は迷った時に右肩が上がる。直しな」

 先生の目は誤魔化せない。ちょっとした身体の癖まで全部見てる。怖いけど、ありがたい。自分では気づけないことを、先生が見つけてくれる。

 打ち込みに移る。先生の構えに向かって、剣を振る。

 二年前と違うのは、たまに先生を「おっ」と言わせられるようになったこと。避けて、崩して、隙を突く。力はまだまだ足りないけど、間合いの感覚だけは少しずつ分かってきた。

「危険のすぐ隣」。先生が教えてくれた言葉。相手の剣がぎりぎり届かない場所。そこに立てた時だけ、先生の守りに一瞬だけ穴が開く。

 今日は——

 踏み込む。半歩。いや、半歩より小さく。先生の剣が振り下ろされる、その軌道のすぐ外側に身体を滑り込ませて、木剣を突き上げる。

 がっ、と音がした。

 先生の木剣と、わたしの木剣がぶつかった。でもいつもと違う。いつもは弾かれるのに、今日は——押し返せてる。ほんの一瞬だけ。

「——ほう」

 先生が力を込めた。次の瞬間、わたしの木剣は弾き飛ばされて、わたしは尻もちをついていた。

「いたた……」

「今の踏み込みは良かった」

 先生がそう言って、弾き飛ばされた木剣を拾ってくれた。

「間合いに入る感覚が掴めてきたね。あとは、入った後に何をするかだ」

「入るので精一杯です……」

「そのうち余裕ができる。焦るな」

 先生が手を差し出してくれた。つかんで立ち上がる。先生の手は大きくて、硬い。でも、あったかい。


 午後は魔術の時間。

 二年で、わたしの術式の引き出しはかなり増えた。

 風、火、水、土。四つの基本属性の術式は一通り使えるようになった。どれもマナの量が足りないから正攻法では弱いけど、組み合わせたり、裏道を使ったりすることで、なんとか形にできる。

 先生が新しい術式を教えてくれるたびに、わたしはまずその構造を頭の中でばらす。どの部分がマナを使っていて、どの部分が術式の命令で、どこを変えれば別の結果になるか。それを考えるのが楽しい。パズルみたいで。

「今日は新しいものを教える」

 先生がそう言って、岩場の上に小さな石を三つ並べた。

「障壁。マナで壁を作る術だ。防御の基本中の基本」

「障壁……」

「やってごらん。術式はこれだ」

 魔導書の新しいページ。障壁の術式を読む。マナを面状に展開して、硬化させる。理屈は分かる。でも——

「これ、けっこうマナ使いますよね」

「ああ。お前の苦手な分野だね」

「……はい」

「だが、障壁だけは逃げ道がない。他の術式みたいに裏道で補える類のものじゃない。マナを直接、壁にする。ごまかしが利かない術だ」

 先生の声が、少しだけ真剣になった。

「これが使えないと、お前は自分の身を守れない。どれだけ攻めが上手くても、一発もらったら終わりだ。だから覚えろ」

「はい」

 手をかざす。術式を唱える。マナを集めて、面にして——

 薄い光の膜が、手の前に現れた。すぐに揺らいで、消えた。

「……うすい」

「紙よりうすいね。これじゃ石ころも防げない」

 厳しい。でも事実だ。

「もう一回」

 もう一回。今度はちょっとだけ長く持った。でもやっぱり薄い。

「もう一回」

 三回目。四回目。五回目。どれも似たり寄ったり。マナが足りない。集め方を変えても、圧縮を工夫しても、壁が安定しない。

「……先生、これは裏道ないんですか、本当に」

「ない。お前の弱点と正面からぶつかる術だ」

「つらい」

「つらくても覚えろ。命に関わる」

 先生の声に、冗談の色はなかった。

 わたしは黙って、もう一回手をかざした。

 六回目。七回目。八回目。

 十二回目で、先生が「今日はここまで」と言った。結局、まともな障壁は一度も出せなかった。

 悔しい。

 他の術ならなんとかなるのに。風も火も水も土も、工夫すればそれなりの結果を出せる。でも障壁だけは、工夫の余地がない。マナの力がそのまま壁の強さになる。ごまかせない。

「落ち込むな」

 先生が言った。

「一日で出来るようになるとは思ってない。だが、毎日やれ。障壁だけは、毎日練習しろ」

「……はい」

「お前は術式の才がある。それは間違いない。だが、才があるからこそ、弱点から目を逸らすな。得意なことばかりやってると、いざという時に足元を掬われる」

 先生は厳しい。でも、厳しいことを言う時の先生の目は、怒ってるんじゃなくて——心配してるんだと思う。たぶん。

「はい。毎日やります」

「よし」


 鍛錬が終わった後、先生と家に帰る途中で、ルッツに会った。

 山道の途中で木の実を拾ってたらしい。籠を背負って、汗だくになってる。

「おっ、ユノ! カーラさんも。今日も鍛錬?」

「うん。ルッツは木の実拾い?」

「そう。母ちゃんに言われて。秋の保存食用にってさ。ユノも手伝ってくれよ」

「先生、ちょっとだけいいですか」

「好きにしな。ただし暗くなる前に帰るんだよ」

 先生はそう言って、先に帰っていった。

 ルッツと二人で、山道の脇の茂みに入って木の実を拾う。クルミに似た硬い殻の実で、この辺りではよく取れる。

「ユノってさ、いつも鍛錬してるよな」

「うん。毎日」

「すげえよな。おれなんか、親父の鍛冶の手伝いだけでへとへとだぜ」

「ルッツの方がすごいよ。火の前で一日中ハンマー振るの、わたしには無理」

「そうか? まあ、慣れだけどな」

 ルッツは気のいいやつだ。わたしが村の外から来た子だとか、カーラ先生が変わり者だとか、そういうことを気にしない。他の村の子の中には、わたしをちょっと遠巻きにする子もいる。「よそ者」って言葉を直接言われたことはないけど、なんとなく感じることはある。

 でもルッツは最初から普通に話しかけてきた。「お前、剣やるんだって? すげえな」って。それだけ。

「なあ、ユノ。王都って行ったことある?」

「ないよ。先生も連れてってくれないし」

「おれも。でもさ、父ちゃんが昔行ったことあるんだって。王都には魔術院ってでっかい建物があって、すごい魔術師がいっぱいいるんだと」

「魔術院かあ」

「あと、学校もあるんだって。魔術の学校。そこで勉強すると、星がもらえるらしいぜ」

「星?」

「なんか、すごい魔術師には星の数で位がつくんだと。一つ星、二つ星って。七つ星が一番すごいんだって」

 七つ星。先生はそういうことを教えてくれない。魔術の技は教えてくれるけど、魔術師の社会の仕組みみたいなことは、ほとんど話さない。

「ルッツ、詳しいね」

「父ちゃんの受け売りだって。あと、五星ってのもあるだろ? あれは王さまが作ったんだと。帝国との戦争の時に」

「戦争……」

「おれらが生まれるちょっと前の話だけどな。帝国ってのがこの国に攻めてきて、すげえ戦いがあったんだって。五星はその時に活躍した人たちで、めちゃくちゃ強いらしい」

 帝国の戦争。わたしが両親を失った戦争。

 ルッツはたぶん知らない。わたしがその戦争の孤児だってこと。知ってても、こんなに気軽には話さないだろう。

「ユノ? どうした?」

「ん、なんでもない。それより木の実、こっちにいっぱいあるよ」

「おっ、ほんとだ!」

 話を逸らした。ルッツは気づいてない。それでいい。

 木の実を拾いながら、わたしはぼんやり考えてた。

 魔術院。星の位。五星。戦争。

 この谷の外には、そういう世界がある。わたしが知らない、大きな世界。先生はそこを見てきた人で、わたしはまだ、ここにいる。

「——よし、籠いっぱいだ。ありがとな、ユノ」

「うん。また遊ぼう」

「おう! 今度こそ棒で勝負しようぜ!」

「いいよ。手加減するけど」

「するなって! 全力でこいよ!」

 笑いながら手を振って別れた。ルッツの背中が夕日に照らされて、籠を背負った影が長く伸びてる。

 いいなあ、と思った。ルッツは。お父さんがいて、お母さんがいて、鍛冶屋を継ぐ未来がある。この谷で生まれて、この谷で生きていく。それが当たり前で、疑問にも思ってない。

 わたしには、それがない。

 ——いや。あるじゃないか。先生がいる。

 そう思い直して、家に向かって走った。


 それから何日かして、事件が起きた。

 朝の鍛錬を終えて、午後の魔術の時間に入ろうとした時、先生の顔がいつもと違った。

「ユノ。今日は鍛錬場じゃなく、山に入る」

「山に?」

「昨夜、東の斜面で獣が荒らされた跡がある。トーマスが報告に来た」

「獣って……熊とか?」

「熊なら足跡で分かる。足跡がなかった。代わりに、地面にマナの痕跡があった」

 マナの痕跡。

「……魔物、ですか」

「かもしれない。確認に行く。お前も来な」

 魔物。

 言葉は知ってる。先生が教えてくれた。この世界には、マナが異常に集まって生まれる獣——魔物がいる。普通の獣とは違って、マナを操る力を持っていて、危険なやつもいる。

 でも、ルーアの谷にはめったに出ない。山が深くてマナの流れが安定してるから、魔物が発生しにくいんだと先生は言ってた。

 めったに、の「めったに」が、今日なのかもしれない。

「先生、わたしも行って大丈夫ですか」

「大丈夫かどうかは、行ってみないと分からない。だが、いざという時にわたしの後ろで震えてるだけなら、置いていく。来るなら来るで、自分の足で立ちな」

「行きます」

 迷わなかった。怖くないわけじゃない。でも、先生が行くなら、わたしも行く。

 先生は壁の剣を——あの、一度も抜いたことのない長剣を、初めて腰に帯びた。

 息を呑んだ。

 先生がその剣を持つ姿は、いつもの「山の家に住む先生」とはまるで違って見えた。背筋がもっとまっすぐになって、目の色が変わった。なんていうか——先生がずっと仕舞い込んでた別の顔が、ちらっと見えた気がした。

「先生……」

「なんだい」

「……かっこいいです」

「馬鹿なことを言うな。行くよ」


 東の斜面に向かう。

 村から山道を外れて、獣道を辿る。先生が前を歩いて、わたしが後ろについて行く。

 山の中は静かだった。いつもの静かさじゃない。鳥の声が少ない。虫の音もまばら。なんか——空気が違う。重いっていうか、ぴりっとしてるっていうか。

「先生、なんか変じゃないですか。空気が」

「気づいたかい。山の獣が怯えてる。何かがいる証拠だ」

 先生の歩く速さが変わらない。慌てた様子もない。でも、注意してるのは分かる。先生の目が、いつもより広い範囲を見てる。

 しばらく歩くと、先生が足を止めた。

「ここだ」

 地面に、引っかき傷がついていた。木の根が裂かれ、土がえぐれている。普通の獣の爪痕にしては深すぎる。

「マナの痕跡が残ってる。触れるな」

 言われなくても触らない。でも、目で見て分かった。傷の周りに、微かに——青っぽい光が残ってる。マナの残り香みたいなもの。先生が教えてくれた「マナの視認」はまだうまくできないけど、この痕跡は分かりやすいほど濃かった。

「何の魔物ですか」

「爪痕の深さと幅からして、四足の中型。狼型か猪型だろう。マナの質は……荒い。知性は低い」

 先生がしゃがんで地面を観察しながら、淡々と分析する。こういう時の先生は、完全に別人だ。山の家で煮物を作ってる先生とは全然違う。

「知性が低いってことは、単純に暴れるタイプですか」

「そうだ。縄張りに入ったものを攻撃する。逆に言えば、縄張りから離れれば追ってこない。問題は——」

 先生が立ち上がって、東の斜面の上の方を見た。

「このまま村の方に降りてくるかどうかだ」

 村。ルッツたちがいる村。トーマスさんやマリアさんがいる村。

「降りてきたら、どうなりますか」

「村人は魔術を使えない。獣なら追い払えても、魔物は別だ。マナを纏ってる分、通常の武器では傷がつきにくい」

「じゃあ——」

「だから確認に来た。居場所を特定して、必要なら追い払う」

 先生の声は平坦だった。「追い払う」と言ったけど、それが簡単なことじゃないのは分かる。先生は六十を過ぎてる。バレン先生に「無理をするな」と言われてる。

「先生、わたしも——」

「お前は後ろにいな。いざという時は走って村に戻れ」

「でも——」

「ユノ」

 先生の声が、鋭くなった。振り返った先生の目が真剣で、わたしは口を閉じた。

「これは鍛錬じゃない。本物だ。分かるね」

「……はい」

「お前を連れてきたのは、こういう場面を見せるためだ。見ること。感じること。それも勉強のうちだ。だが、前に出るな。約束できるかい」

「約束します」

「よし」

 先生が歩き出す。わたしはその後ろを、少し距離を空けてついていく。

 斜面を登る。木々が密になり、日差しが遮られて薄暗くなる。地面は湿って、足元がぬかるむ。

 不意に——

 感じた。

 何かが、いる。

 目で見たわけじゃない。音が聞こえたわけでもない。ただ、なんていうか——胸の奥がざわっとした。山の中にいる生き物の気配は、いつも感じてる。鹿とか、鳥とか、狐とか。それは穏やかな、温かい感じ。でも今感じてるのは、それとは違う。もっと荒くて、熱くて、とげとげしい。

「先生」

 小さい声で呼んだ。先生が振り返る。

「……右の方。上の方に、何かいる気がします」

「気がする?」

「なんとなく、ですけど……」

 先生がわたしの顔をじっと見た。それから、右上の斜面に目を向けた。

 数秒の沈黙。

「……確かに、マナの気配がある。右上だ。よく気づいたね」

 先生の声に少しだけ驚きが混じってた。

「わたしも今、感じ始めたところだ。お前の方が先に気づいたのか」

「たまたまだと思います」

「たまたま、ね」

 先生は何か言いたそうにしたけど、今はそれどころじゃない。斜面の上に意識を向け直した。

「ここで待ちな。動くな」

 先生が、腰の剣に手をかけた。


 先生が斜面を登っていく。わたしは言われた通り、動かない。

 木の幹に背中をつけて、息を殺す。手の中に、自分の魔導書を握りしめてる。障壁の術式はまだまともに使えない。でも、何かあった時に何もできないのは嫌だ。

 先生の姿が木々の間に消える。足音も聞こえなくなる。

 静かだ。

 怖い。

 認めたくないけど、怖い。心臓がどくどくしてる。手が冷たい。これが「本物」の緊張なのか。鍛錬では感じたことのない、身体の芯が震える感覚。

 あの気配が——まだ感じる。右上の方。前よりちょっと近い。動いてる?

 ぞわっ、とした。

 近づいてきてる。先生の方にじゃなくて——こっちに?

 いや。分からない。わたしの感覚が正しいかどうか、分からない。ただの気のせいかもしれない。怖いから、余計なものを感じてるだけかもしれない。

 でも——

 茂みが、揺れた。

 右上じゃない。右横。すぐ近く。

 心臓が跳ね上がった。

 茂みの中から、二つの目が光った。黄色い、ぎらぎらした目。暗がりの中で、その目だけが浮かんでいる。

 狼だ。普通の狼より一回り大きい。毛並みが黒くて、身体の周りに——青っぽい光が、微かに纏わりついている。マナだ。

 魔物。

 足が動かない。

 走れ、と頭が言ってる。先生が「走って村に戻れ」と言った。でも、足が言うことを聞かない。目が、狼の目から離せない。

 狼が、低く唸った。地面が震えるくらい低い音。

 来る。

 瞬間、身体が動いた。

 考えてない。頭じゃなくて、身体が動いた。先生が言ってた「身体の方が賢い」ってやつ。

 魔導書を握った手を突き出して、術式を——風と火の複合を、叩きつけた。

 ぼう、と熱い風が吹いた。炎混じりの突風が、狼の顔に直撃する。

 大したダメージじゃない。分かってる。でも、一瞬だけ狼がひるんだ。目を閉じて、頭を振った。

 その隙に——

 走った。木の幹の後ろに転がり込む。心臓がうるさい。手が震えてる。

 狼が体勢を立て直して、こっちを向いた。怒ってる。さっきより目がぎらぎらしてる。

 まずい。

「——退きな」

 声が降ってきた。

 先生だった。

 いつの間にか、わたしと狼の間に立っていた。抜き身の長剣が、夕暮れの薄明かりを受けて光ってる。

 先生が剣を抜いている。初めて見る。

 狼が先生に向かって跳んだ。

 先生は、動かなかった。動かないで、ただ剣を振った。一回だけ。

 風を切る音すら聞こえなかった。

 狼が、地面に転がった。切られた——んじゃない。剣の腹で叩かれて、吹き飛ばされた。

 狼は地面を転がって、すぐに起き上がった。でも、もう向かってこなかった。一瞬だけ先生を見て——それから踵を返して、斜面を駆け上がっていった。

 あっという間だった。

 先生が剣を鞘に収める。かちん、と静かな音がした。

「……ケガは」

「ないです」

「そうかい」

 先生は振り返って、わたしの顔を見た。怒ってる——と思った。前に出るなって約束したのに、魔術を使ってしまった。

 でも先生の目は、怒ってなかった。

「風と火の複合を、あの状況で出したのか」

「……考える前に、身体が」

「そうだろうね」

 先生は小さく息を吐いた。

「約束を破ったことは、あとで叱る。だが——」

 言葉が途切れた。先生が、珍しく言葉を選んでいる。

「よく生きてた。それだけだ」

 声が、いつもと違った。硬いけど、奥の方が震えてる気がした。

「……先生、すみません。動くなって言ったのに」

「ああ。言った。言ったが——」

 先生はまた言葉を切って、わたしの頭にぽんと手を置いた。

 ぽん、と。軽く。

 先生がわたしの頭に触れることは、ほとんどない。数えるくらいしかない。だから、手の重さを、すごくはっきり感じた。

「帰るよ」

「はい」


 帰り道、先生はしばらく黙っていた。

 わたしも黙っていた。心臓がまだどきどきしてる。手の震えはおさまったけど、足の裏がじんじんする。

「先生」

「なんだい」

「魔物って、あんな感じなんですか」

「あれは小さい方だ。マナも弱かった。若い個体だろう。本当に危険な魔物は、あの何倍も大きくて、何倍も速い」

「……」

「怖かったかい」

「怖かったです」

「正直でいい。怖くないと言うやつの方が信用できない」

 先生が少しだけ歩く速度を落とした。

「ユノ。一つ聞いていいかい」

「はい」

「あの魔物の位置が分かると言ったね。『右の方、上の方にいる気がする』と」

「……はい」

「あれは、どうやって分かった」

 どうやって。

「分からないです。なんか——ざわっとしたんです。胸の奥が。いつも山にいる獣の気配とは違う感じがして」

「いつも獣の気配を感じてるのかい」

「なんとなく、ですけど。鹿がいるなとか、鳥がいるなとか。先生は感じません?」

「……マナを探知する術式を使えば分かるが、お前のように何もせず感じるということはない」

 先生の声は平坦だった。でも、その平坦さの中に、何かを考え込んでる気配があった。

「変、ですか。わたし」

「変じゃないよ。ただ——」

 先生が言葉を切った。

「今度ゆっくり話そう。今日はまず、無事に帰ることだ」

「はい」

 それ以上は聞かなかった。先生が「今度」と言ったなら、ちゃんと話してくれる。先生はそういう人だ。


 家に着くと、先生がお茶を淹れてくれた。

 いつもの薬草茶。ちょっと苦くて、後味が甘い。

 二人で炉端に座って、黙ってお茶を飲んだ。窓の外はもう暗い。虫の声が遠くに聞こえる。

 先生が口を開いた。

「障壁」

「え?」

「今日、お前は風と火で応戦した。結果的にうまくいったが、あれは運がよかっただけだ」

「……はい」

「もし障壁がまともに張れていたら、あの狼の突進を防げた。その後に反撃するなり、逃げるなり、選択肢が増えた」

「……はい」

「分かったかい。障壁を練習しろと言った意味が」

 分かった。身に染みて分かった。今日のあの一瞬、わたしが障壁を張れなかったから、咄嗟に攻撃するしかなかった。防御があれば、もっと冷静に動けた。

「明日から障壁の練習、増やしてください」

「言われなくても増やすよ」

 先生の口元が、ほんのちょっとだけ上がった。

 わたしはお茶を飲みながら、今日のことを思い返していた。

 怖かった。本当に怖かった。足が動かなくなって、頭が真っ白になって。でも、身体が動いてくれた。先生が毎日叩き込んでくれたことが、頭を飛び越えて、手から出てきた。

 あと——先生が剣を抜いた時の姿。あの一振り。

 あれは、山で暮らすおばあさんの剣じゃなかった。もっと——もっと遠い場所で振られていた剣だ。

 先生は何者なんだろう。

 聞かない。今日は聞かない。でも、いつか——

「先生」

「なんだい。今日は本当によく喋る日だね」

「先生の剣、すごかったです」

「……昔取った杵柄だよ」

「杵柄って何ですか」

「昔の話ってことだ。もう寝な」

「はーい」

 自分の部屋に戻って、寝台に横になる。

 目を閉じると、狼の黄色い目が浮かんだ。心臓がどきっとする。でも、すぐにその上に、先生の背中が重なった。わたしと狼の間に、迷いなく立った先生の背中。

 あの背中があるから、わたしは大丈夫。

 明日から、障壁を頑張ろう。先生に守ってもらうだけじゃなくて、自分の身は自分で守れるように。

 いつか——先生の隣に立てるように。

 目を閉じた。

 今夜は、あの赤い夢を見なかった。