ユノ・フェルティアの物語
第一章「山と師のもとで」
第3話「谷を訪ねた騎士」
十二の夏。
わたしの剣は、先生に届くようになっていた。
届く、というのは大げさかもしれない。正確には、「先生が本気で受けなきゃいけない打ち込みが、たまに出る」ということだ。十回に一回。いや、二十回に一回くらい。でも二年前はゼロだったんだから、進歩だ。
「——っ」
踏み込む。先生の剣が上から来る。半歩——いや、それより小さく。靴半分の幅だけ横にずれる。先生の剣がわたしの耳の横を通り過ぎた。風圧を感じる。
その瞬間に、下から突き上げる。
がっ、と木剣がぶつかった。先生が受けた。受けたけど——ほんの一瞬、足元がずれた。
「もう一手」
先生が言い終わる前に、横に回り込む。先生の右側——剣を持つ手の逆。ここが一番隙が大きい。
振り下ろす。
——止められた。先生が手首だけでくるっと剣を回して、わたしの木剣を弾いた。力を入れた様子もない。
「惜しい」
「惜しいですか。今のは結構いいところまで行ったと思ったんですけど」
「いいところまでは行った。だが、最後の一打に力が入りすぎた。力で押そうとした瞬間に、軌道が読めた」
「うー……」
「だが、その前の流れは良かった。半歩のずらしも、回り込みも。二年前とは別人だ」
先生にそう言ってもらえると、素直に嬉しい。先生は嘘を言わないから。
鍛錬の後、水を飲んで一息つく。朝の空気が気持ちいい。六月の山はもう暑いけど、朝だけはひんやりしてる。
先生が隣に座った。最近、鍛錬の後に先生が息を整える時間が長くなってきた。二年前は気のせいかと思ってたけど、今ははっきり分かる。先生の呼吸がなかなか落ち着かない。
でも、わたしはそれを指摘しない。先生も、わたしが気づいてることを知ってる。お互い知ってて、何も言わない。
「午後は何をやりますか」
「障壁の強化と、水の応用」
「障壁……」
「嫌そうな顔をするな」
「してません」
「してる」
障壁は相変わらず苦手だ。毎日練習して、二年前よりはまともになった。石ころくらいは防げるようになった。でも、魔物の一撃を受け止めるには、まだまだ足りない。
先生は毎日「障壁を練習しろ」と言う。二年間、一日も欠かさず。
それは、午後の鍛錬を終えた夕方のことだった。
わたしと先生が帰り道を歩いていると、村の方から人の声が聞こえた。いつもの村の声じゃない。騒がしいというか——ざわついてる。
「何かあったみたいですね」
「ああ。行ってみよう」
村の広場に出ると、人だかりができていた。
その中心に、見慣れないものがあった。
馬。立派な栗毛の馬が二頭、広場の端に繋がれている。そしてその横に——
鎧を着た人が立っていた。
銀色の胸当てに、青い外套。腰には剣。背が高くて、肩幅が広い。日に焼けた肌に、短く刈り込んだ茶色の髪。年は——先生より若い。ずっと若い。二十代の終わりか、三十くらい。
もう一人、同じような格好をした人が馬の世話をしている。そっちはもう少し若い。
騎士だ。
本物の騎士を見るのは、初めてだった。ルッツの剣ごっこで「おれは五星だ!」って言ってたあの遊びの、本物。
「やれやれ」
隣で先生が呟いた。嫌そうな顔をしている。
「先生、知り合いですか」
「知り合いじゃない。だが、用件は想像がつく」
先生はそう言って、人だかりの中に歩いていった。わたしは後ろについていく。
村人たちが道を開ける。先生の姿を見た騎士が、こちらに向き直った。
「失礼ですが——カーラ・ヴェルト殿でいらっしゃいますか」
声が、よく通る。真面目で、丁寧な声だ。
「……そうだけど。あんた、誰」
先生の声は、いつもの平坦さだった。でも、歓迎してないのは丸分かりだ。
「王都騎士団所属、レイス・ハルトと申します。アレクシア陛下の遣いで参りました」
アレクシア。
わたしでも知ってる名前だ。アーヴェリア王国の女王。ルッツの話にも出てきた。
先生の目が、ほんのわずかに細くなった。
「……場所を変えよう。ここじゃ話しにくい」
先生の家。居間の小さな卓を挟んで、先生と騎士——レイスさんが向かい合っている。
わたしはお茶を出す係だ。先生に「淹れてくれるかい」と言われた。お客さんが来ると先生はお茶をわたしに任せる。自分で淹れるのが面倒なんじゃなくて、わたしにやらせた方がましだと思ってるのかもしれない。先生は人をもてなすのが苦手だから。
お茶を出して、台所の隅に座る。先生は「出ていけ」とは言わなかった。だから、いていいってことだ。
「改めまして。アレクシア陛下より、カーラ殿への親書をお預かりしております」
レイスさんが懐から封書を取り出して、卓の上に置いた。蝋で封がされていて、そこに紋章が押してある。イリディア王家の紋だ。先生の本棚にある歴史書で見たことがある。
先生は封書を見て、手を伸ばさなかった。
「内容は」
「書面に記されておりますが、口頭でもお伝えいたします。近年、南東部の山岳地帯を中心に魔物の出現が増加しており——」
「知ってるよ。この辺りでも出た」
「やはり。陛下は、この事態を深刻に受け止めておられます。各地で対応に追われておりますが、経験ある魔術師が不足しているのが現状です」
「それで、わたしを呼び戻したいと」
「はい。カーラ殿のご経験とお力を、ぜひお借りしたい——というのが、陛下のご意向です」
先生は封書を見たまま、黙っていた。
レイスさんも黙って待っている。真面目な人だなと思った。急かさない。先生の沈黙を、ちゃんと受け止めてる。
「……レイスと言ったね」
「はい」
「あんた、いくつだ」
「二十八になります」
「若いね。わたしが宮廷にいた頃は、まだ生まれてなかったか」
「はい。ですが、カーラ殿のことは宮廷で幾度も耳にしておりました。先王陛下に仕えた宮廷魔術師にして、宮廷剣術の達人であったと」
「大袈裟な話だ」
「事実をお伝えしているつもりです。銀盾星のヘルガ殿も、カーラ殿のことを『わたしの先達にして手本』と仰っておられました」
先生の眉が、ぴくっと動いた。
「……ヘルガが。あの子がねえ」
「ご存知でいらっしゃいますか」
「知ってるも何も。わたしが宮廷を去る時、騎士団に入りたてのひよっこだった子だよ。銀盾星とはね。立派になったもんだ」
先生の声が、ほんのちょっとだけ柔らかくなった。すぐに元に戻ったけど。
「で、アレクシア陛下は——わたしが、戻ると思うかい」
「陛下はご判断をお任せになりました。無理強いはなさらないと」
「あの子らしいね」
あの子。先生が女王陛下を「あの子」と呼んだ。レイスさんが一瞬だけ目を丸くした。でもすぐに真面目な顔に戻った。
「……正直に言うよ、レイス」
先生がお茶を一口飲んで、卓に置いた。
「わたしはもう、戦える身体じゃない」
「……」
「歳だ。脈は乱れるし、剣を振れば息が切れる。宮廷に戻ったところで、役には立たないよ」
レイスさんの顔が曇った。でも、驚いてはいないように見えた。先生の姿を見て、察していたのかもしれない。
「そうですか……」
「長旅ご苦労だったね。すまないが、陛下にはそう伝えてくれ。わたしは、もうここでしか生きられない老いぼれだと」
「老いぼれなどと——」
「事実だよ。さっきそっちが事実を伝えたように、わたしも事実を伝えてる」
先生の声は淡々としていた。自分を卑下してるんじゃない。本当に、ただの事実として言ってる。
レイスさんは背筋を正して、深く頭を下げた。
「……承知いたしました。ご意向は、確かに陛下にお伝えします」
「ああ。ありがとう」
先生が「少し休む」と言って奥の部屋に引っ込んだ後、わたしはレイスさんにお茶のお代わりを出した。
「ありがとう。……君は、カーラ殿のお弟子さんかな」
「はい。ユノです。ユノ・フェルティア」
「フェルティア」
レイスさんがちょっと首を傾げた。
「聞いたことのない家名だね。この辺りの出身?」
「いえ、わたしは——先生に拾われた子です。もとの村は、戦争で」
「そうか。……すまない、無神経だった」
「いえ。全然」
気にしてない、と言ったらちょっと嘘になる。でも、レイスさんに悪気がないのは分かる。
「ユノ、だったね。カーラ殿に師事してるということは、剣と魔術を?」
「はい。両方教わってます」
「両方か。カーラ殿らしいね。あの方は宮廷でもそうだったと聞いてる。剣と魔術を両方極めた、稀有な方だと」
「先生が宮廷にいた頃の話、もっと聞いてもいいですか」
わたしの言葉に、レイスさんがちょっと驚いた顔をした。
「カーラ殿から聞いてないのかい」
「先生、昔の話はしてくれないんです」
「そうか……」
レイスさんはお茶を一口飲んで、少し考えるような顔をした。
「わたし自身が直接知っているわけではないが——宮廷で語られていることなら」
「お願いします」
「カーラ・ヴェルト殿は、先王——アレクシア陛下のお父上に仕えた宮廷魔術師だった。当時、宮廷魔術師は数名いたそうだが、カーラ殿はその中でも別格だったと聞いている」
「別格」
「剣術においては騎士団の誰よりも強く、魔術においても一線級。しかも、それを誇ることなく、ただ淡々と務めを果たしていたそうだ。先王はカーラ殿を深く信頼していた」
淡々と務めを果たす。先生らしい。
「……先王が亡くなった時、カーラ殿は宮廷を去った。引き止める声は多かったと聞いているが、誰の言葉にも応じなかったそうだ」
「そうなんですか」
「以来、行方は知られていなかった。今回、陛下の命で各地の記録を辿り、ようやくこの谷に辿り着いた次第だ」
先生は、消えたかったんだろう。宮廷から、王都から、全部から。先王がいなくなって、先生が仕える理由がなくなって。
なんとなく——分かる気がした。先生が、人ではなく場所に忠誠を誓うような人じゃないことは、一緒に暮らしていれば分かる。先生が守りたいのはいつも、目の前にいる「人」だ。
「レイスさん」
「ん?」
「王都って、どんなところですか」
「王都?」
「わたし、この谷から出たことがなくて。外の世界のこと、全然知らないんです」
レイスさんは少し目を瞬いて、それから笑った。堅い顔をしてたのに、笑うとずいぶん若く見えた。
「そうだな……王都は、大きな街だよ。この谷が丸ごと何十個も入るくらい」
「何十個も」
「中心に王宮があって、その周りに貴族の屋敷が並んでいる。商業区には市場があって、朝から晩まで人と物が行き交っている。それから——魔術院がある」
「魔術院」
「王国の魔術師たちが研究をする場所だ。大きな石造りの建物で、中には図書館や工房がある。優秀な魔術師は星の位を授かって、院の中で研究を続ける」
「星の位……ルッツから聞いたことあります。七つ星が一番すごいって」
「そうだ。七つ星は国でも数えるほどしかいない。だが、位が高ければ偉いというわけでもない。位は学術的な評価であって、実戦の強さとは必ずしも一致しないからね」
「そうなんですか」
「ああ。例えば、五星のリゼ・ヴァレイン殿は魔術院では二つ星だが、実戦では王国最強と名高い。逆に、七つ星でも戦場に出たことのない学者もいる」
面白い。位と強さが一致しないって、なんか——変だけど、分かる気がする。先生も、位なんて持ってないけど、あの剣は本物だ。
「他には? 王都の外は、どんな感じですか」
「王都の外か。南に行けばカドレイユ公爵家の領地が広がっていて、農地と牧場が多い。西には街道が延びていて、バルナスティア帝国との国境に繋がっている。北と東は森林と山岳地帯で——ここも、その一部だ」
「帝国との国境……」
「今は平和だよ。第二次侵攻の後、帝国も立て直しに忙しい。当分は大きな戦にはならないだろう」
「そうですか」
ちょっとだけ、ほっとした。
「東のさらに向こうには大森林地帯があって、その先はあまり人が住んでいない。魔物が多い地域だと言われている」
「魔物が多い……」
「ああ。最近は、この辺りの山でも出没が増えていると聞いている。だからこそ、陛下はカーラ殿のお力をお借りしたかったのだが……」
レイスさんの声が少しだけ沈んだ。先生に断られたことが残念なのだろう。
「レイスさん、一つ聞いてもいいですか」
「もちろん」
「魔物が増えてるのは、なんでなんですか」
「正確な原因は分かっていない。魔術院でも調査中だと聞いている。ただ——」
レイスさんが声を落とした。
「大陸の中央、バルナスティア帝国の奥に、魔障域と呼ばれる地帯がある。マナが異常に集まっていて、人が近づけない場所だ。その影響が広がっているのではないか、という説がある」
「魔障域……」
「帝国の皇帝が解決を試みているらしいが、詳しいことは分からない。わたしも騎士であって学者ではないからね」
レイスさんは苦笑した。
わたしは話を聞きながら、頭の中に地図を広げていた。先生の本棚にある大陸全図。アーヴェリア王国は大陸の東の方にあって、西にバルナスティア帝国がある。その帝国の中央に、マナが異常に集まった場所がある。そしてその影響が、こんな山奥にまで——
二年前の魔物。あの黄色い目の狼。あれも、その影響だったのかもしれない。
「ユノ」
「はい」
「君は、いい弟子だね」
「え?」
「話を聞く姿勢がいい。ちゃんと考えながら聞いてる。カーラ殿の教え方がいいんだろう」
「……先生は厳しいだけですよ」
「厳しいだけで、あの腕にはならないさ」
レイスさんが立ち上がった。
「そろそろ発たなければならない。暗くなる前に麓まで降りたい」
「もう行くんですか」
「ああ。王都への帰路は長い。だが——」
レイスさんがわたしに向き直った。
「ユノ。もし君がいつか王都に来ることがあれば、騎士団の駐屯所を訪ねてくれ。レイス・ハルトの名前を出せば、分かるようにしておく」
「え——いいんですか」
「この谷の外にも世界はある。君のような子が、ここだけで終わるのはもったいない」
先生と同じことを言う、と思った。
先生は「お前はもっと広い場所で生きる人間だ」と言った。レイスさんは「ここだけで終わるのはもったいない」と言った。
二人とも、外の世界を知ってる人だ。わたしが知らない世界を歩いてきた人たち。
「……ありがとうございます」
「礼には及ばないよ。カーラ殿によろしく伝えてくれ」
レイスさんと従者が馬に乗って去っていくのを、わたしは村の外れまで見送った。
二頭の馬が山道を下っていく。銀色の鎧が夕日を受けて光る。その姿がだんだん小さくなって、山道の向こうに消えた。
しばらく立ち尽くしていた。
風が吹いた。山の、いつもの風。杉の匂いと、土の匂い。ルーアの谷の匂い。
でも、今日は——その風の向こうに、もっと広い場所がある気がした。王都。魔術院。五星。帝国。魔障域。知らない言葉が、たくさん増えた。知らない世界が、ほんの少しだけ、近くなった。
家に戻ると、先生が炉端に座っていた。封書は卓の上に置かれたまま。開けた形跡はない。
「見送ったのかい」
「はい」
「律儀だね」
「レイスさん、いい人でした」
「……そうかい」
「先生によろしくって」
「ああ」
先生はお茶を飲んでいた。表情はいつも通り。でも、どこかちょっとだけ——疲れてる気がした。身体の疲れじゃなくて、もっと奥の方の疲れ。
「先生」
「なんだい」
「レイスさんが教えてくれました。先生が先王に仕えた宮廷魔術師だったって」
先生の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……あの男、余計なことを」
「余計じゃないです。わたし、知りたかったから」
「知ったところで、何が変わる」
「変わらないかもしれないけど——先生がどんな人だったか知ってる方が、なんか、いいなって」
先生はしばらく黙っていた。
「……昔の話だよ。全部」
「うん。分かってます」
「わたしは先王に仕えた。先王が亡くなって、仕える理由がなくなった。それだけだ」
「それだけ、ですか」
「それだけだ」
また、「それだけ」。先生のいつもの言い方。でも今日は、その「それだけ」の中に、もっとたくさんのものが詰まってる気がした。
聞かないでおこう。先生が話したくなったら、話してくれる。それまでは待つ。
「先生」
「まだあるのかい」
「封書、読まないんですか」
先生が卓の上の封書を見た。王家の紋章が押された蝋封。
「……読むよ。あとでね」
「あとで、ですか」
「今は疲れた。明日でいい」
先生はそう言って、お茶を飲み干した。
わたしはそれ以上何も言わないで、術式の書き写しを始めた。
翌朝。
いつも通り、水を汲みに行って、戻って、鍛錬を始める。先生はいつも通り木剣を構えている。昨日の騎士の訪問なんて何もなかったみたいに。
でもひとつだけ違ったのは、壁に掛けてあった長剣が、少しだけ位置がずれていたこと。
夜のうちに、手に取ったのだろう。
わたしはそれに気づかないふりをして、型を始めた。
その日の午後、鍛錬のあとに岩場で並んで座っている時、先生がぽつりと言った。
「あの騎士は、良い目をしていた」
「レイスさんですか。はい、真面目でいい人でした」
「わたしが言ってるのは、目の話だ。曇りがない。嘘をつかない目をしていた」
「……」
「ああいう人間が騎士をやってるなら、まだこの国も捨てたもんじゃないかもしれないね」
先生にしては珍しい言い方だった。
「あの男、お前に何か言ったかい」
「王都に来たら騎士団を訪ねろって。名前を出せば分かるようにしておくって」
「……お節介な男だ」
「先生もそういうこと言いますよね。わたしは広い場所で生きる人間だって」
先生が横目でわたしを見た。
「言ったかい」
「言いました。二年前」
「お前は記憶がいいね」
「先生に教わったことは全部覚えてるって言ったじゃないですか」
先生はふん、と鼻を鳴らした。いつもの「ふん」。怒ってない「ふん」。
谷を見下ろした。金色の夕暮れ。いつもの景色。
でも今日は、その景色の向こうに何があるか、ほんの少しだけ知ってる。王都がある。魔術院がある。騎士がいる。女王がいる。そして、もっと遠くには帝国があって、魔障域があって、まだ誰にも解決できない問題がある。
世界は広い。先生が言った通り。
「先生」
「なんだい」
「封書、読みましたか」
「……読んだよ」
「何て書いてあったんですか」
「あの子——アレクシアの字で、こう書いてあった」
先生がちょっとだけ間を置いた。
「『お元気ですか。無理はなさらないでください。ただ、あなたがどこにいても、王家はあなたの功績を忘れていません』」
「……いいお手紙ですね」
「ああ。あの子は昔から、こういう手紙を書く子だった」
先生の声が、ほんの一瞬だけ、柔らかくなった。
その柔らかさを、わたしはちゃんと聞いた。
「もう一行あった」
「なんて?」
「『あなたのお弟子さんに、いつか会えることを楽しみにしています』」
わたしは目を丸くした。
「……わたしのこと、知ってるんですか」
「さあね。騎士団が調査した時に、わたしに弟子がいることくらいは分かっただろう。あの子のことだ、ちゃんと調べてから手紙を書いたんだろうよ」
女王が、わたしのことを。
なんだか不思議な気持ちだった。この小さな谷の、小さな家で暮らしてるわたしのことを、王都の偉い人が知ってる。会いたいと言ってくれてる。
「先生。わたし、いつか——」
言いかけて、やめた。
いつか、何だ。王都に行きたい? 女王に会いたい? 外の世界を見たい?
全部、ちょっとずつ本当だ。でも、今はまだ——
「いつか、障壁がちゃんと張れるようになったら、聞いてもらいたい話があります」
「なんだいそれ。障壁と話に何の関係があるんだ」
「先生が『障壁が使えないと身を守れない』って言ったから。ちゃんと身を守れるようになってから、言います」
先生はわたしの顔を見て、ふっと——笑った。口の端だけじゃなくて、ちゃんと笑った。初めて見る顔だった。
「……好きにしな」
好きにしな。先生のいつもの言葉。でも今日のは、いつもよりちょっとだけ、あったかかった。
金色の谷を、二人で見ていた。
風が吹いて、先生の髪と、わたしの髪を揺らした。同じ風が、山を越えて、谷を越えて、もっと遠くまで吹いていく。
いつか、あの風の行く先を、追いかける日が来る。
たぶん。