ユノ・フェルティアの物語
第一章「山と師のもとで」
第4話「冬の陽だまり」
十三の冬。
先生が、朝の鍛錬に出てこなくなった。
正確に言うと、出てこない日がある、ということだ。毎日じゃない。三日に一回くらい。寝台から起きてきた先生が「今日は休みにしよう」と言う。それだけ。理由は言わない。わたしも聞かない。
最初の頃は、先生が「休み」と言った日は一人で型の練習をしていた。でも最近は、一人で鍛錬しながら、耳が先生の方に向いてしまう。板戸の向こうで、先生がゆっくり起き上がる音。咳をする音。水を飲む音。
昼前には先生が出てきて、「午後は魔術をやるよ」と言う。その声はいつも通りで、顔色もそこまで悪くはない。でも、朝の鍛錬に出てこなかったということは、朝は辛かったということだ。
バレン先生が週に二回来るようになった。前は月に一度だったのに。
「カーラ。薬を変えるよ」
「また?」
「前のが効かなくなってきてる。身体が慣れてしまったんだ」
「薬漬けにする気かい」
「薬漬けでも生きてりゃいいだろう」
いつものやりとり。でも、バレン先生の目がちょっと違う。前より——真剣だ。
鍛錬ができる日は、前と同じように剣を交える。
でも、変わったことがある。
先生が、わたしに打ち負ける日が出てきた。
最初にそれが起きた時、わたしは自分が何をしたのか分からなかった。いつも通り打ち込んで、いつも通り崩しにかかって——先生の木剣が、弾かれた。わたしの剣が、先生の胴に届いた。
木剣が当たった感触が、手に残った。
先生は一歩下がって、わたしを見た。
「……いい一撃だった」
「先生——」
「もう一本」
もう一本。三本目。五本目。その日は、五本のうち二本、わたしが取った。
嬉しくなかった。
嬉しいはずなのに、嬉しくなかった。先生に剣が届くようになったのは、わたしが強くなったからだけじゃない。先生が——
「ユノ。変な顔をするな」
「してません」
「してる。わたしが弱くなったから勝てたと思ってるだろう」
図星だった。
「半分はそうだ。わたしの身体はもう全盛期の半分も動かない。だが、もう半分はお前が強くなったからだ。それは事実だ。事実を認めな」
「……はい」
「お前は、わたしが全力だった頃のわたしと戦ったことがない。だから比較のしようがないだろう。今のわたしに勝ったことを、恥じる必要はない」
先生の声は淡々としていた。自分の衰えを、まるで天気の話みたいに語る。
「先生は——悔しくないですか」
「何がだい」
「身体が動かなくなること」
先生はちょっとだけ間を置いた。
「……悔しいよ」
短い言葉だった。でも、その「悔しい」には、長い時間の重さがあった。
「悔しいが、仕方のないことだ。人は老いる。身体は衰える。それは剣でも魔術でも変えられない」
「魔術でも、ですか」
「魔術で身体を癒すことはできる。だが、老いを止めることはできないよ。老いは病気じゃない。命の——流れそのものだ」
命の流れ。
なんとなく、分かる気がした。先生の中にある温かいものが、少しずつ——ゆっくりと、静かに、小さくなっていってる。それは壊れてるんじゃなくて、流れていってるんだ。
「でも、悔しいだけでもない」
「え?」
「お前がいるからね」
先生が、木剣を肩に担いだ。
「わたしが教えたことが、お前の中で育ってる。それを見るのは、悔しさより——嬉しいよ」
先生が「嬉しい」と言った。
初めて聞いた。先生の口から「嬉しい」なんて言葉が出たのは、七年一緒にいて、初めてだった。
「……先生」
「泣くな」
「泣いてません」
「目が赤い」
「風のせいです」
「冬に風は吹いてないよ。今日は無風だ」
「……ちょっとだけです」
先生はふん、と鼻を鳴らして、歩き出した。わたしは袖で顔を拭いて、後を追った。
鍛錬ができない日は、先生が魔術の理論を教えてくれるようになった。
これは新しいことだった。先生はこれまで、魔術は実技中心で教えてきた。術式を見せて、やらせて、できるまで繰り返す。理屈は最低限。「身体で覚えろ」が先生の方針だった。
でも最近は、炉端に座って、わたしの魔導書を開いて、術式の奥にある理屈を語るようになった。
「いいかい。一般魔術言語で『火』を表す術式は、実は三つの命令が重なってる。マナの収束。属性の指定。出力の制御。この三つが同時に走ることで、火が出る」
「三つ……」
「お前が複合をやる時、風と火の術式をくっつけてるだろう。あれがうまくいくのは、二つの術式の中に共通する命令があるからだ。マナの収束の部分が同じ構造をしてるから、そこを共有できる」
「あ——だから二つ同時にやっても、マナの消費が倍にならないんですか」
「そうだ。お前は感覚でそれをやっていたが、理屈を知っておけば、もっと安全に、もっと多くの組み合わせを試せる」
面白い。先生が実技で教えてくれたことの、裏側が見える。パズルの裏を覗くみたいで、わくわくする。
「先生、他の属性の組み合わせは? 水と土とか」
「水と土の複合は泥の操作に近くなる。ただし、属性の親和性が低いから、接続の部分にマナの損失が生じる」
「損失……」
「風と火は親和性が高い。だから損失が少ない。水と火は逆で、親和性が最も低い。普通は組み合わせない」
「普通は。じゃあ、普通じゃないやり方なら?」
先生がちょっとだけ笑った。口の端だけ。
「お前らしい質問だね。——やり方はある。だが、それは相当な術式構築の技術がいる。今のお前にはまだ早い」
「いつか教えてくれますか」
「いつか、ね」
先生が目を伏せた。一瞬だけ。すぐに顔を上げて、次の説明に移った。
わたしはその「いつか」の言い方が、前と違うことに気づいた。前の「いつか」は「そのうちね」って意味だった。今の「いつか」は——もっと、遠い響きがした。
でも、聞かない。聞いても先生は「大したことじゃない」って言うだけだ。
冬が深まると、先生が外に出られない日が増えた。
わたしは一人で鍛錬をして、一人で村に買い出しに行って、一人で夕飯を作る。先生が作るより味は落ちるけど、焦がすことはなくなった。
「だいぶましになったね」
「先生のおかげですよ」
「わたしは最近、寝てるだけだ」
「寝てるだけの先生が作るスープより、わたしのは不味いです。だから先生のおかげです」
「どういう理屈だ」
「先生の味を目標にしてるっていう意味です」
「……ふん」
口の端が上がった。
こういうやりとりが、最近増えた。先生が動けない分、言葉が増えた。前より話すようになった。昔の話も、ほんの少しだけ。
「先王は——穏やかな人だった」
ある夜、炉端で先生がぽつりと言った。
「戦を好まず、民のことを第一に考える人だった。わたしが仕えたいと思ったのは、あの人の、そういうところだ」
「……」
「あの人がいなくなって、わたしは宮廷にいる理由がなくなった。アレクシアは——あの人の娘だ。立派な子だと思う。でも、あの子に仕えたいと思ったわけじゃない。仕えたかったのは、先王だけだ」
「それで、ここに来たんですか」
「ああ。どこか静かな場所で、のんびり死のうと思ってた」
「のんびり死のう、って……」
「だが、焼け跡の中に、泣いてない子供がいた」
先生がわたしを見た。
「のんびり死ぬのは、もうちょっと先になった」
「先生」
「なんだい」
「……わたし、先生に拾ってもらえて、よかったです」
「知ってるよ。毎日顔に書いてある」
「書いてませんよ」
「書いてる」
先生が笑った。口の端だけじゃなくて、ちゃんと。最近、先生がちゃんと笑うことが増えた。前は何年かに一回だったのに。
年が明けて、春が近づいてきた。
山の雪が少しずつ溶けて、日差しがあたたかくなってくる。先生の体調は、冬よりは少しましになった。朝の鍛錬にも、たまに出てくるようになった。
でも、剣を交えることはなくなった。
代わりに、先生は見ている。わたしが型を流すのを、岩に座って、じっと見ている。時々「右肩が上がってる」「足の運びが遅い」と声をかける。
ある日の午後。暖かい日だった。
わたしが岩場で障壁の練習をしている横で、先生が日向ぼっこをしていた。先生の周りに、猫が一匹寝ている。村の野良猫で、先生になついてる。先生は猫が嫌いだって言うけど、追い払わない。
「先生、見てください」
「ん」
手をかざす。障壁の術式。マナを集めて、面にして、固くする。
光の壁が現れた。
前より厚い。前よりしっかりしてる。まだ完璧じゃないけど——
「石を投げてもらっていいですか」
先生が小さな石を拾って、こっちに投げた。手加減なしの、いい球。
石が障壁に当たった。
ぱん、と弾けて、石が跳ね返った。障壁はひびが入ったけど、割れなかった。
「……おお」
「どうですか」
「石は防げるようになったね」
「前は紙より薄かったですからね」
「まだ魔物の一撃は防げない。だが——進歩だ」
「先生」
「なんだい」
「前に言いましたよね。障壁がちゃんと張れるようになったら、聞いてほしい話があるって」
「ああ。覚えてるよ」
「まだちゃんと、じゃないですけど——石は防げるようになったから、半分だけ言ってもいいですか」
「半分?」
「半分」
先生がちょっと呆れた顔をした。でも、目は笑ってた。
「……聞こうか」
深呼吸する。
「わたし——いつか、外の世界を見に行きたいです」
言った。
ずっと胸の中にあった言葉。レイスさんが来た日から、ずっと。もしかしたら、もっと前から。先生が「世界は広い」って言った夜から。
「先生が見た景色を、わたしも見たい。王都も、海も、山の向こうも。先生が美しいって言った場所を、全部」
先生は黙って聞いていた。
「でも、今はまだ行きません。先生がここにいるから。先生がいる間は、ここにいます。だから——半分」
「半分、ね」
「残りの半分は、障壁が魔物の一撃を防げるようになったら言います」
先生はしばらく黙っていた。猫が先生の膝の上で寝返りを打った。
「……ユノ」
「はい」
「お前は、わたしの最高の弟子だよ」
先生が、わたしの頭にぽんと手を置いた。二年前、魔物の日以来の。
あったかい。先生の手は、前より少しだけ——力が弱い。でも、あったかい。
「わたしがいなくなっても、泣くんじゃないよ」
「……先生」
「泣くなって言ってるだろう」
「まだ泣いてません」
「目が赤いよ」
「風のせいです」
「今日は風が吹いてるから、半分は信じてやる」
ふたりで笑った。
春の風が吹いていた。雪解けの水の匂いがした。猫が先生の膝で丸まって、ごろごろ言ってた。
穏やかな午後だった。
こういう午後が、いつまでも続けばいいと思った。
続かないことは、知ってる。
でも今は、この陽だまりの中にいる。先生と、猫と、わたしと。それだけで十分。
その夜。
先生が寝てから、わたしは炉端で術式の書き写しをしていた。先生が最近教えてくれた理論の部分。術式の構造、属性の親和性、複合の法則。全部、手帖に書き留めてある。
先生がわたしに理論を教え始めたのは、たぶん——先生が、自分の時間がどれくらい残ってるか、分かってるからだ。
実技なら時間がかかる。だけど理論なら、言葉で伝えられる。先生は、残りの時間で伝えられることを、全部伝えようとしてる。
分かってる。全部分かってる。
でも、泣かない。先生に泣くなって言われたから——じゃなくて、泣いてる暇があったら、一文字でも多く書き写す方がいいから。
先生が教えてくれたことは、全部覚える。剣の型も、術式の構造も、花の名前も、スープの味付けも。全部。
一文字も逃さない。
ペンを走らせる手が、ちょっとだけ震えた。
——大丈夫。
明日も先生はいる。明後日も。まだ、時間はある。
まだ。