ユノ・フェルティアの物語

第一章「山と師のもとで」

第5話「朝焼けの向こうへ」


 先生が最後に剣を握ったのは、秋の初めだった。

 その日、先生は珍しく自分から庭に出てきた。ここ数ヶ月は寝台にいることが多くて、庭に出る日は片手で数えるほどだった。

「先生、大丈夫ですか」

「大丈夫じゃないから、出てきたんだよ」

 意味が分からなかった。でも先生の目は真剣で、何か言いたいことがあるのは分かった。

「木剣を取りな」

「え——先生、身体が」

「いいから」

 先生の声は静かだった。怒ってない。命令でもない。ただ——頼んでるみたいだった。先生がわたしに何かを頼むのは、本当に珍しいことだ。

 木剣を取った。先生も、壁に立てかけてあった木剣を手に取った。

 構える。先生の構えは、昔と変わらない。背筋がまっすぐで、剣が身体の延長みたいに自然に収まってる。でも、その構えを支える身体が——細くなった。一年前より、ずっと。

「来な」

「……はい」

 打ち込む。

 先生が受ける。軽い。前みたいな重さがない。でも、正確だ。わたしの剣を、最小限の動きでいなす。力がなくても、技がある。

 もう一手。先生が返してくる。遅い。前の先生なら、見えないくらい速かったはず。でも今の一振りには、速さとは別の何かがあった。きれいだった。無駄がひとつもない。

 三手目。四手目。息が聞こえる。先生の息。荒い。苦しそう。

「先生、もう——」

「まだ」

 五手目。先生の剣が、わたしの胴に届いた。

 木剣が軽く当たった。痛くない。力なんてほとんど入ってない。でも、間合いも軌道も完璧だった。全盛期の先生が打ったのと同じ場所に、同じ角度で。

「——これが、最後の一手だ」

 先生が木剣を下ろした。息が荒い。額に汗が浮いてる。

「覚えておきな。今の軌道。今の間合い。力がなくても、ここに届く。身体が動かなくなっても、技は残る」

「……はい」

「お前に教えることは、もう——全部教えた」

 先生が木剣を地面に置いた。

 わたしは木剣を握ったまま、立っていた。

 全部教えた。

 その言葉の意味を、受け止めるのに少し時間がかかった。

「先生」

「なんだい」

「……ありがとうございます」

「礼を言うのは早いよ。お前はまだ、障壁で魔物の一撃を防いでないだろう」

「あ」

「残りの半分、聞かせてもらってないからね。死ぬ前に聞かせてくれよ」

 先生が笑った。ちゃんと笑った。

 わたしも笑った。笑いながら、目が熱くなった。でも泣かなかった。


 冬が来た。

 先生はもう、寝台から出られなくなっていた。

 バレン先生が毎日来るようになった。薬を変えて、身体を診て、わたしに「温かくして、食事を取らせて」と言って帰っていく。バレン先生の顔を見ると、状況がどのくらい悪いかが分かる。最近は、帰り際に一瞬だけ目を伏せるようになった。

 わたしは毎日、先生のそばにいた。

 朝起きて、お茶を淹れて、スープを作って、先生の部屋に持っていく。先生は少し食べて、少し飲んで、それから横になる。

「ユノ、鍛錬はしてるかい」

「してます。毎朝」

「障壁は」

「毎日やってます」

「嘘をつくな。お前、最近わたしの看病ばっかりで——」

「してます。先生が寝てる間に、庭でやってます」

「……そうかい」

 嘘じゃない。ちゃんとやってる。先生が寝ている早朝に、庭で型を流して、障壁を練習して、術式の復習をして。それから朝ごはんを作って、先生を起こす。

 ある夜、先生が急に話し始めた。

「ユノ」

「はい」

「海を見たことがあるかい」

「ないです。この谷は山しかないですから」

「海はいいよ。どこまでも続いてる。空と水の境目が分からなくなるくらい、広い」

「……」

「わたしが初めて海を見たのは、宮廷に上がる前だった。南の港町で。夕方の海を見て——ああ、世界は広いなと思った」

 先生の目が、天井を見てる。でも天井を見てない。もっと遠くの、昔の海を見てる。

「波の音がしてね。ざあ、ざあって。ずっと同じ音なのに、飽きないんだ。谷の朝みたいに」

「先生」

「ん」

「海、見に行きますね。わたし」

「ああ。見てきな」

「見たら、先生に報告します」

 先生がちょっとだけ笑った。弱々しいけど、ちゃんとした笑い。

「楽しみにしてるよ」


 年が明けた。十四の冬。

 ある朝、先生がいつもより元気だった。

 自分で起き上がって、居間まで歩いてきた。ここ数週間、一人では起き上がれなかったのに。顔色もいい。声もしっかりしてる。

「先生、調子いいんですか」

「ああ。今日は身体が軽い」

 嬉しかった。久しぶりに、先生と卓を挟んで朝ごはんを食べた。わたしが作ったスープと、パンと、干し果物。

「スープ、前より上手くなったね」

「先生のにはまだ負けますけど」

「いや。もう勝ってるよ」

「……え?」

「お前のスープの方が、わたしのより美味しい。認めるのは癪だけどね」

 先生がそう言って、スープを飲み干した。

 嬉しくて、ちょっとだけ泣きそうになった。でも我慢した。

 朝ごはんの後、先生が言った。

「外に出たい」

「大丈夫ですか」

「今日は大丈夫だ。岩場まで行こう」

 先生の腕を支えて、ゆっくり歩いた。いつもなら走って登る山道を、ゆっくり、ゆっくり。先生の歩幅に合わせて。昔、先生がわたしに合わせてくれたみたいに。

 岩場に着いた。ルーアの谷が眼下に広がっている。冬の空気は澄んでいて、遠くの山並みまではっきり見える。

「きれいだね」

 先生が言った。

「はい」

「この景色が好きだって、前に言ったろう。だからここにいるって」

「覚えてます」

「あれは——半分嘘だった」

「え?」

「景色だけなら、他にも美しい場所はある。ここにいたのは、景色のためだけじゃない」

 先生がわたしを見た。目が穏やかだった。今まで見たどの先生の目よりも。

「お前と一緒にこの景色を見るのが、好きだったんだよ」

 わたしは何も言えなかった。

 先生は谷を見ていた。金色じゃない、冬の白い谷を。でも先生の目には、きっとすべての季節の谷が映ってる。春の花も、夏の緑も、秋の金色も。そしてわたしが横にいる、すべての日の谷が。

「ユノ」

「はい」

「残りの半分、聞かせてもらおうか」

「……まだ障壁、魔物の一撃は防げてないです」

「いいよ。もう十分だ」

 十分。先生がそう言うなら、そうなんだろう。

 深呼吸した。冷たい空気が肺に入る。

「わたしは——この谷を出て、世界を見に行きます」

「ああ」

「先生が美しいって言った場所を、全部見て回ります。海も、王都も、山の向こうも」

「ああ」

「それで——見たものを、全部覚えて帰ってきます。先生にお土産話ができるように」

 先生が笑った。

 今までで一番、穏やかな笑い方だった。

「お土産話か。楽しみだね」

「期待しててください」

「してるよ。ずっとしてた」

 風が吹いた。冬の、冷たい風。でも日差しはあたたかくて、岩場の上は陽だまりになってた。

 二人でしばらく、谷を見ていた。

 何も言わなかった。言わなくても、全部伝わってる気がした。

「ユノ」

「はい」

「美しいものを、たくさん見ておいで」

 先生の声は静かだった。遺言みたいだとは思わなかった。もっと——自然な言葉だった。朝に「水を汲んできな」と言うのと同じくらい、当たり前に。

「はい」

 それだけ答えた。


 その夜、先生は穏やかに眠った。

 夜中にわたしが様子を見に行った時、先生は静かに息をしていた。顔が——今日の昼間みたいに、穏やかだった。

 翌朝。

 わたしはいつも通り、日の出の前に目を覚ました。水を汲みに行こうとして——先生の部屋の前で、足が止まった。

 音がしなかった。

 いつもなら、板戸の向こうから先生の寝息が聞こえる。微かな、規則正しい息の音。それが——ない。

 板戸を開けた。

 先生は寝台の上で、目を閉じていた。

 毛布がきちんとかかっている。両手が胸の上に重ねてある。顔は——穏やかだった。苦しんだ様子はなかった。

「先生」

 声をかけた。返事はなかった。

「先生」

 もう一度。返事はなかった。

 近づいて、先生の手に触れた。

 冷たかった。

 先生の手は、いつもあったかかった。大きくて、硬くて、でもあったかかった。木剣を受け取る時も、頭に手を置かれた時も。

 今は、冷たい。

 わたしは先生の手を握って、しばらくそこに座っていた。

 泣かなかった。

 先生に「泣くな」って言われたからじゃない。泣こうと思えば泣けた。でも——泣くよりも先に、別のことを感じていた。

 ありがとう。

 ありがとう、先生。

 わたしを拾ってくれて。剣を教えてくれて。魔術を教えてくれて。花の名前を教えてくれて。スープの作り方を教えてくれて。世界が美しいって教えてくれて。

 全部、覚えてます。一つも忘れてない。

 先生の手を、そっと毛布の上に戻した。

 立ち上がって、部屋を出た。


 バレン先生が来て、先生の死を確認した。

「夜のうちだろう。苦しまずに逝ったはずだ」

「……はい」

「ユノ。お前は——」

「大丈夫です」

 大丈夫。大丈夫じゃないかもしれないけど、今はそう言う。

 村の人たちが集まってきた。トーマスさんが棺を用意してくれた。マリアさんが花を摘んできてくれた。ルッツが何も言わないでそばにいてくれた。

 先生のお墓は、あの岩場に作った。谷を見下ろせる場所。先生が好きだった景色が、ずっと見える場所。

 土を被せて、石を置いて、花を供えた。

 村の人たちが一人ずつ手を合わせて、帰っていった。最後にルッツが残った。

「ユノ。おれ——なんて言ったらいいか分かんねえけど」

「うん。分かってる。ありがとう、ルッツ」

「……おれにできることあったら、なんでも言えよ」

「うん」

 ルッツが帰って、わたしは一人になった。

 先生のお墓の前に座って、谷を見下ろした。夕方の谷。金色の谷。

「先生」

 声に出した。

「わたし、行きます」

 風が吹いた。

「先生が見た景色を、全部見てきます。海も、王都も、山の向こうも。きれいなものも、怖いものも、全部」

 風が、髪を揺らした。

「お土産話、いっぱい持って帰りますから」

 立ち上がった。


 家に戻って、準備を始めた。

 先生の長剣。壁から外して、腰に帯びた。重い。でも、持てないほどじゃない。

 魔導書。先生が手作りしてくれた手帖と、自分で書き溜めた術式の帳面。腰の鞄に入れる。

 着替えと、保存食と、薬草。先生に教わった最低限の旅支度。

 それから——先生の短杖。先生が宮廷時代から使っていたという、飾り気のない短い杖。

 家の中を見回した。

 小さな家。三つの部屋。先生と過ごした八年間の家。

 壁に、剣の掛かっていた場所だけ、色が変わっている。日に焼けてない部分が、剣の形に残ってる。

「——行ってきます」

 誰もいない家に、そう言った。


 翌朝。

 村を出る前に、トーマスさんとマリアさんに挨拶をした。

「気をつけてね、ユノちゃん。困ったらいつでも帰っておいで」

「ありがとうございます、マリアさん」

「ほら、これ持ってきな。干し果物」

「……ありがとう」

 トーマスさんが手を差し出した。握手。大きくて、硬い手。先生の手を思い出した。

「カーラ先生の弟子なら、大丈夫だ。行ってこい」

「はい」

 ルッツが村の外れまで来てくれた。

「ユノ。おれ、ここで待ってるからな」

「うん」

「いつか帰ってきたら——鍛冶屋、ちゃんとやってるから。お前の剣でも打ってやるよ」

「……ルッツの鍛冶、まだ見習いでしょ」

「うるせえ。その頃には一人前になってるっつの」

 笑った。ルッツも笑った。

「じゃあね、ルッツ」

「おう。……元気でな」

 手を振って、歩き出した。

 山道を下る。振り返ると、村が小さく見える。その向こうに、あの岩場がある。先生のお墓がある場所。

 もう一度だけ、振り返った。

 朝焼けが、谷を照らしていた。

 毎朝見ていた景色。同じ匂い。同じ音。同じ光。

 でも今日は、わたしはこの景色の中にいるんじゃなくて——この景色を、後ろに置いて歩いていく。

 先生。

 行ってきます。

 世界を、見てきます。

 足を前に出した。山道は谷を離れて、知らない方へ伸びている。

 朝焼けの向こうに、何があるか分からない。

 でも、怖くない。

 先生が教えてくれたものが、全部ここにある。剣の間合いも、術式の引き出しも、花の名前も、スープの味付けも。

 それから——世界は美しいということ。

 歩き出す。

 ルーアの谷の朝焼けが、背中を押していた。