ユノ・フェルティアの物語

第二章「はじめての空」

第1話「知らない道」


 山を降りるのに、丸一日かかった。

 ルーアの谷から麓の街道に出るまで、獣道と山道を繋いで歩く。先生と何度か村への買い出しで降りたことはあるけど、それは途中の集落までだ。街道まで降りたことは一度もない。

 山道は知ってる。匂いも、音も、木々の並びも。でも、降りれば降りるほど、知らないものが増えていく。木の種類が変わる。鳥の声が変わる。空気の湿り気が変わる。

 午後を過ぎた頃、ようやく山の裾野に出た。

 目の前に、道があった。

 土を踏み固めた、広い道。馬車が二台すれ違えるくらいの幅がある。ルーアの谷の獣道とは全然違う。

 街道だ。

 右に行けば東。左に行けば西——王都の方角。

 レイスさんが言ってた。「王都からは馬で五日」。歩きなら、もっとかかるだろう。十日か、それ以上か。

 左に曲がった。


 街道を歩くのは、山道とは全然違った。

 まず、平らだ。当たり前だけど、山育ちの足にはそれが新鮮で、最初のうちは楽に感じた。でも、ずっと同じ平坦な道を歩き続けると、別の疲れ方をする。山道は上り下りがあるから足の使い方が変わるけど、街道はずっと同じ動きの繰り返しで、じわじわと足の裏が痛くなってくる。

 それに、景色が変わらない。

 山では一歩ごとに木の向きが変わって、光の入り方が変わって、見えるものが変わった。街道は、畑と草原と、遠くに山。それがずっと続く。

 退屈、とは思わなかった。知らない景色だから。でも、一人で歩いていると、頭の中が静かになる。静かになると、考えなくていいことを考え始める。

 先生のこと。

 あの朝。冷たい手。穏やかな顔。

 ——やめよう。

 考えるなら、先のことを考える。王都までどのくらいかかるか。今日はどこで寝るか。水はあとどれくらい持つか。

 先生なら、こういう時なんて言うだろう。

 ——考えるな。足を動かせ。

 足を動かした。


 日が傾いてきた。

 街道沿いに、休憩所みたいな場所があった。石を積んだ簡素な囲いと、屋根だけの東屋。旅人が一時的に休む場所らしい。先客はいない。

 ここで夜を明かすことにした。

 荷物を降ろして、まず水を確認する。水筒はまだ半分ある。でも明日のことを考えると、節約した方がいい。街道沿いに井戸や川があるかどうか、分からない。

 保存食を出す。干し肉と、マリアさんがくれた干し果物と、硬いパン。火を起こせば温かいものが食べられるけど——

 周りを見る。薪になりそうな枝はある。火は起こせる。

 でも、火を起こしていいのか分からなかった。

 山では好きな場所で火を焚けた。でもここは街道だ。他の人の土地かもしれない。勝手に火を焚いたら怒られるんだろうか。

 こういうこと、先生に聞いたことがなかった。山の暮らしでは必要なかった知識だ。

 結局、火は起こさなかった。干し肉をかじって、水を飲んで、それで夕飯にした。

 冷たい食事。先生のスープが恋しい。自分で作ったスープでもいい。温かいものが食べたい。


 夜が来た。

 東屋の屋根の下で、外套にくるまって横になる。地面は硬い。寝台が懐かしい。

 空を見上げると、星がたくさん出ていた。山でも星は見えたけど、木々に遮られることが多かった。ここは遮るものがないから、空の端から端まで星が広がってる。

 きれいだな、と思った。

 思ったら、泣きそうになった。

 先生と一緒に見たかった。この星空を。先生なら、なんて言うだろう。「ああ、きれいだね」って、あの平坦な声で言うんだろうか。それとも、星の名前を教えてくれるだろうか。

 ——泣くな。

 先生の声が聞こえた気がした。もちろん、聞こえるわけがない。頭の中で鳴ってるだけだ。

 泣かない。泣いてる暇があったら、寝る。明日も歩くんだから。

 目を閉じた。

 虫の声が聞こえる。遠くで、何かの鳥が鳴いてる。風が草を揺らす音。

 山と違う音。知らない音。でも——怖くはない。

 ただ、寂しい。

 すごく、寂しい。

 先生。

 わたし、ちゃんと歩いてますよ。今日は街道に出て、たぶん半日くらい進みました。火の起こし方は分かるけど、起こしていい場所かどうかが分からなくて、冷たいご飯でした。明日はもうちょっとうまくやります。

 心の中で、報告した。先生はもういないのに。でも、報告すると、ちょっとだけ楽になった。

 そのまま、眠りに落ちた。


 夜中に目が覚めた。

 いつものやつだ。理由もなく、ふっと目が開く。

 あの夢は——見なかった。赤い空の夢。最近は見ない日の方が多い。代わりに、別の夢を見た気がする。何の夢だったか、もう覚えてない。ただ、暖かかった気がする。

 暗い空を見上げる。星が少し移動してる。真夜中だろう。

 目が覚めた時の感覚が、山にいた頃と違う。前は、自分の部屋の天井が見えて、先生の寝息が聞こえて、ああここだ、って安心できた。

 今は、空が見える。知らない場所の、知らない空。

 でも、星は同じだ。ルーアの谷から見えてた星と、たぶん同じ星。

 それだけで、ちょっとだけ安心した。

 寝返りを打って、もう一度目を閉じた。


 翌朝。

 日の出の前に起きた。身体が覚えてる。山の生活のリズム。先生に叩き込まれた早起きの習慣。

 立ち上がって、身体を伸ばす。背中が痛い。地面で寝たせいだ。慣れるまで何日かかるだろう。

 荷物をまとめて、歩き出す前に、型を一通り流した。木剣じゃなくて、先生の長剣で。

 重い。木剣と全然違う。でも、型そのものは身体が覚えてる。足、腰、剣。三つが揃う感覚を確かめながら、ゆっくり動く。

 先生がいなくても、型は変わらない。先生が教えてくれた動きが、わたしの身体に刻まれてる。

「——よし」

 小さく言って、剣を収めた。

 歩き出す。今日は水を補給できる場所を見つけないといけない。あと、火を起こしていい場所がどこか、誰かに聞きたい。

 誰かに——聞く。

 考えてみたら、知らない人に話しかけるのも初めてだ。村の人は全員顔見知りだったし、レイスさんは向こうから来てくれた。自分から知らない人に声をかけたことがない。

 ちょっと緊張する。でも、このまま冷たい干し肉だけで旅を続けるのは嫌だ。

「……なんとかなる」

 自分に言い聞かせて、歩いた。


 昼前に、人に会った。

 街道を向こうから歩いてくる人影。荷車を引いた、中年の男の人。商人か、行商人か。

 近づいてくる。心臓がどきどきする。たかが道で人に会うだけなのに。

「——こんにちは」

 声が出た。ちょっと裏返った。恥ずかしい。

 男の人が足を止めて、わたしを見た。

「おう。一人かい、嬢ちゃん」

「はい。王都の方に向かってます」

「王都か。ここからだと、まだ八日ってとこだな。歩きだろ?」

「はい」

「一人で? 若い娘が一人旅たあ珍しいな」

「あの——一つ聞いていいですか」

「なんだ」

「街道沿いで火を起こしてもいい場所って、どうやって分かるんですか」

 男の人がきょとんとした。それから、声を出して笑った。

「はっは! 初めての旅かい」

「……はい」

「いいよ、教えてやる。街道沿いの東屋には、石囲いがあるだろ。あそこで火を起こすのは問題ない。旅人のための場所だからな。あと、川沿いの開けた場所も大抵大丈夫だ。ただし森の中はやめとけ。山火事のもとだ」

「ありがとうございます」

「この先、半日も歩けばクレスの町がある。小さいが宿屋もある。そこで一泊した方がいいぞ」

「クレスの町……」

「ああ。まっすぐ行けば着く。迷いようがない道だ」

 男の人は手を振って、荷車を引いて去っていった。

 クレスの町。初めて聞く名前。初めて行く場所。

 知らない人に話しかけるのは、思ったより怖くなかった。あの人は親切だった。世の中の人が全員親切とは限らないだろうけど、少なくとも今日会った最初の人は親切だった。

 それだけで、足が軽くなった。


 歩く。ひたすら歩く。

 街道の景色は相変わらず平坦だけど、少しずつ変化が出てきた。畑の作物が違う。家の形が違う。遠くに見える山の稜線が、ルーアの谷とは全然違う形をしてる。

 世界は広い。先生が言った通り。

 歩きながら、術式の復習を頭の中でやる。風の構造。火の構造。二つの接続点。先生が教えてくれた理論。歩いてる間は暇だから、頭の中で術式をばらして組み立て直す。

 あと、障壁の練習もした。歩きながら、手の前に薄い障壁を張ってみる。すぐ消えるけど、展開の速さだけは上がってきてる。

 先生が「毎日やれ」と言った。だから毎日やる。歩きながらでも。


 夕方。

 行商人が言った通り、町が見えてきた。

 クレスの町。

 遠くから見ただけで、ルーアの谷の村とは全然違うと分かった。

 まず、大きい。家の数が、数えられないくらいある。五十? 百? もっと? それに、建物が石造りだ。ルーアの村は木の家ばかりだったけど、ここは壁が石で、屋根が赤い瓦。

 それから——人が多い。

 町の入り口の門をくぐると、通りに人が行き交っていた。商人、職人、子供、老人。こんなにたくさんの人を一度に見たのは初めてだ。ルーアの村は二十軒で、顔を合わせる人は毎日同じだった。ここは、すれ違う人の顔が全部知らない。

 音も違う。ルーアの谷は、風と鳥と川の音だった。ここは、人の声と、馬車の車輪と、鍛冶屋の槌の音と、どこかから聞こえる歌と。全部が混ざって、ざわざわしてる。

 すごい。

 すごいけど——ちょっと、くらくらする。

 情報が多すぎる。目も耳も、処理が追いつかない。山では必要なかった感覚の忙しさ。

「……落ち着け」

 自分に言い聞かせて、深呼吸した。先生なら「考えるな」って言う。考えないで、まず必要なことをする。

 必要なこと。宿を探す。それだけ。

 通りを歩いて、宿屋を探した。看板を見る。文字は読める。先生に教わった。

「旅人の灯り亭」と書かれた看板が目に入った。小さいけど、きれいにしてある宿屋。

 扉を開ける。中は薄暗くて、カウンターの向こうにおかみさんらしい女の人がいた。

「いらっしゃい。お一人?」

「はい。一晩泊まりたいんですけど——いくらですか」

「一泊、食事付きで銀貨三枚。食事なしなら二枚」

 銀貨三枚。先生が持たせてくれた路銀を確認する。革の袋に入った硬貨。足りる。ぎりぎりだけど。

「食事付きでお願いします」

「はいよ。部屋は二階の奥ね。夕飯は暗くなったら一階で出すから」

「ありがとうございます」

 階段を上がって、部屋に入った。小さい部屋。寝台が一つと、窓が一つ。

 寝台に座ったら、力が抜けた。

 一日半。たった一日半歩いただけなのに、すごく疲れた。足が痛い。肩が痛い。でも、それ以上に——頭が疲れた。知らないことだらけで、一つ一つ判断していくのが、こんなに疲れるとは思わなかった。

 山では、何も考えなくてよかった。毎日同じことをしていれば、それでよかった。先生が全部整えてくれていたから。

 先生がいかに多くのことをしてくれていたか、離れて初めて分かる。

「……先生」

 窓の外に、夕焼けが見えた。山じゃなくて、建物の屋根の向こうの夕焼け。

「今日、初めて知らない人に話しかけました。行商のおじさんで、親切な人でした。火を起こしていい場所を教えてくれました。それから、町に着きました。クレスっていう町です。人がいっぱいいて、ちょっとびっくりしました」

 心の中で、報告する。

「明日もたぶん、びっくりすることがいっぱいあると思います。でも大丈夫です。たぶん」

 たぶん、が抜けない。でも、今はまだ「たぶん」でいい。

 階下から、食事の匂いが漂ってきた。温かい匂い。スープの匂い。

「——ご飯だ」

 立ち上がって、階段を降りた。

 温かいご飯が食べられる。今日はそれだけで、十分だ。