ユノ・フェルティアの物語
第二章「はじめての空」
第2話「クレスの町」
宿の朝ごはんは、パンとスープと茹で卵だった。
スープが温かい。それだけで幸せだ。昨日の冷たい干し肉のことを思い出すと、温かい食事がどれだけありがたいか、骨身に沁みる。
先生のスープには負けるけど、わたしのスープにも負けるけど、温かいってだけで合格。
食べながら、周りを見る。一階の食堂には、他の泊まり客が何人かいた。商人らしい太った男の人。荷物を山ほど持った夫婦。それから、隅の席で静かにパンをかじっている、フードを被った旅人。
みんな、知らない人。知らない人がこんなに近くにいるのに、誰もわたしを気にしてない。山の村では、誰かが通りを歩けばみんな顔を上げて声をかけた。ここでは、誰も何も言わない。
それが寂しいかというと——不思議と、そうでもない。気楽、とも違う。ただ、そういうものなんだなと思った。人が多い場所では、一人一人が見えにくくなる。
宿を出て、町を歩いた。
昨日は疲れていて何も見る余裕がなかったけど、朝の光の中で見るクレスの町は、思ったよりずっと活気があった。
通りの両側に店が並んでいる。八百屋、肉屋、パン屋、布屋。それからよく分からない店もある。看板に金属の歯車みたいな絵が描いてある店。中を覗くと、小さな機械みたいなものが並んでいた。
「何見てんだい、嬢ちゃん」
店の中からおじさんが声をかけてきた。
「あの——これ、何ですか」
「時計だよ。知らないかい」
「時計……」
「時間を測る道具さ。歯車が回って、針が動く。ほら、見てごらん」
おじさんが小さな丸い箱を見せてくれた。蓋を開けると、針が二本あって、かちかちと音を立てて動いてる。
「すごい……。魔術で動いてるんですか」
「いいや。これはぜんまいだ。巻き上げたばねの力で歯車を回す。魔術なんて使ってないよ」
「魔術なしで、こんなことができるんですか」
「はっは! お嬢ちゃん、魔術師かい? 世の中のことは大抵、魔術なしでも動いてるんだよ」
なんだか目から鱗だった。山では、複雑なことは魔術の仕事だと思ってた。でもここでは、魔術を使わない人たちが、自分たちの知恵と技術で色んなものを作ってる。
先生が教えてくれなかったことだ。先生は魔術師だったから、魔術で解決することが多かった。でも世界には、魔術じゃない方法で生きてる人がたくさんいる。
当たり前のことなのに、知らなかった。
市場に行ってみた。
広場に屋台がずらりと並んでいて、野菜、果物、干し魚、調味料、布、革製品、なんでもある。声が飛び交ってる。
「安いよ安いよ、今朝獲れのリンゴ!」
「革ベルト、いいの入ってるよ!」
「奥さん、この塩は南の海から来たやつだ、味が違うよ!」
圧倒された。ルーアの村にはマリアさんの雑貨屋が一軒あるだけだった。ここには何十もの店がある。
歩き回って、必要なものを考えた。旅の道中で足りないもの。
水筒がもう一つ欲しい。保存食も買い足したい。あと——地図。
地図を売ってる店を探した。書物を扱ってる屋台を見つけて、聞いてみる。
「すみません。アーヴェリア王国の地図はありますか」
「地図? あるよ。どのくらいの範囲のが欲しい?」
「えっと——ここから王都までの街道が分かるようなやつ」
「ならこれだね。東部街道の簡易地図。銀貨二枚」
銀貨二枚。路銀がどんどん減っていく。でも、地図がないと道が分からない。必要な出費だ。
地図を買って、広場のすみで広げた。
線が何本も引いてある。街道と、町と、川と、山の印。クレスの町に丸がついていて、ずっと西に行くと——王都。やっぱり遠い。途中にいくつかの町がある。
「ここが今で……次の町は……カルテ?」
クレスの西、二日ほど歩いた場所に「カルテ」と書いてある。そこからさらに三日ほどで「リーデン」。リーデンから王都までは二日くらいに見える。
合計七日か八日。行商のおじさんが言ってた通りだ。
地図を畳んで、鞄にしまった。
市場の屋台で、焼きたてのパンを買った。
チーズを挟んだ丸パン。温かくて、ふかふかで、チーズがとろっと溶けてる。
広場のベンチに座って食べた。おいしい。マリアさんのパンとは全然違う味だけど、おいしい。
食べながら、周りを見る。
市場には色んな人がいる。地元の人、旅人、商人。子供が走り回っていて、犬が屋台の下で残り物を狙ってる。おばさんたちが井戸端で笑いながら話してる。
生きてる、と思った。
町が生きてる。たくさんの人の生活が重なって、ぶつかって、混ざり合って、ひとつの音になってる。ルーアの谷は静かな生だった。ここは騒がしい生だ。でも、どっちも同じ「生きてる」だ。
「……先生。町っておもしろいですよ」
心の中で報告した。先生は黙ってる。当たり前だけど。
午後。宿に戻る途中で、鍛冶屋を見つけた。
ルッツの実家みたいな鍛冶屋。でもルッツのところより大きい。炉が二つあって、職人が三人働いてる。
店先に、剣が何本か立てかけてあった。
つい、足が止まった。
腰の長剣に手を触れる。先生の剣。鞘の中のこの剣が、どのくらいの品なのか、わたしには分からない。先生は「昔のもの」としか言わなかった。
「見てるかい?」
店主らしいおじさんが声をかけてきた。
「あ、いえ。ちょっと見てただけです」
「おや、腰のそれは——ちょっと見せてもらっていいかい」
「え?」
「いや、無理にとは言わないが。鞘の作りが気になってね」
少し迷ったけど、鞘ごと見せた。抜かないで。
おじさんが鞘を手に取って、じっくり眺めた。目つきが変わった。
「……これは、いい仕事だ。鞘の革は上等な牛革で、金具は——」
おじさんが金具を指でなぞった。
「王都の工房の刻印だ。それも、相当腕のいいところの」
「そうなんですか」
「嬢ちゃん、これをどこで手に入れた?」
「……師匠の形見です」
おじさんの表情が変わった。じろじろ見ていた目が、少し柔らかくなった。
「そうか。……大事にしな。これは名のある鍛冶師の作だ。安物じゃない」
「はい」
「中身は見せてもらえないかい。刃の手入れ具合を見てやるよ。無料でいい」
少し迷ったけど——先生の剣のことを知りたかった。鞘から抜いた。
細い刃が、午後の光を受けて白く光った。
おじさんが息を呑んだ。
「……こいつは驚いた。銀鋼だよ。普通の鉄じゃない。マナを通す特殊な合金だ。魔術師が使う剣で——王都でもそうそうお目にかかれないぞ」
「銀鋼……」
「お嬢ちゃんの師匠ってのは、相当な人だったんだな」
「……はい。相当な人でした」
おじさんは丁寧に刃を拭いて、鞘に戻してくれた。
「手入れはよくされてる。錆もない。だが、使うなら定期的に油を差しな。銀鋼は手入れを怠ると鈍るからね。油ならうちで買えるよ」
「いくらですか」
「銅貨五枚でいい。師匠の形見を大事にする子には、おまけだ」
油を買った。銅貨五枚。鍛冶屋のおじさんは、別れ際にこう言った。
「その剣に恥じないようにな、嬢ちゃん」
「——はい」
先生の剣が、思った以上にすごいものだったことを知った。先生は何も言わなかった。「昔のもの」としか。
先生らしい。
夕方。宿に戻る前に、町の外れまで歩いた。
町の西側の丘の上に、小さな鐘楼があった。登ってみると、クレスの町が一望できた。赤い屋根が並んで、通りを人が歩いて、煙突から夕飯の煙が上がってる。
その向こうに、街道が西に伸びている。王都の方角。
地図で見たのと同じ方角。でも、自分の目で見ると、ずっとずっと遠い。
ここで二日目。まだ旅が始まったばかりだ。
「……先生」
心の中で呼ぶ。
「先生の剣、銀鋼っていうすごい素材でした。鍛冶屋のおじさんがびっくりしてました。先生、何も言ってくれなかったですよね。いつもそう。大事なことほど何も言わない」
風が吹いた。丘の上の風は強くて、髪がばさばさ揺れる。
「明日、町を出ます。次の町はカルテってところです。二日くらいかかるみたい。今度は野宿のとき、ちゃんと火を起こします」
報告を終えて、丘を降りた。
宿に戻って、夕飯を食べた。今日は煮込みとパン。温かい。おいしい。
食べながら、今日一日のことを振り返った。
時計の仕組みを知った。地図を買った。先生の剣が銀鋼だと分かった。市場の活気を見た。知らない人と何回も話した。
たった一日で、こんなに知らないことがあった。
世界は広い。先生の言葉が、一日ごとに実感になっていく。
部屋に戻って、寝台に横になった。昨日の東屋と違って、ちゃんとした寝台はありがたい。
天井を見る。木の天井。知らない宿の、知らない部屋の天井。
昨日は寂しかった。今日は——寂しくないわけじゃない。でも、寂しさの隣に、別のものがある。
わくわく、というのとはちょっと違う。もっと静かなもの。知らなかったことを知った時の、あの感覚。世界がちょっとだけ広くなる感じ。魔術の新しい術式がうまくいった時と、似てるかもしれない。
明日は町を出る。また街道を歩いて、知らない場所に向かう。
怖い。ちょっとだけ。
でも、その先に何があるか見たい。ちょっとだけじゃなく。
目を閉じた。
今夜は——温かいスープの夢が見られるといい。