ユノ・フェルティアの物語

第二章「はじめての空」

第4話「少年の一行と旅をする」


 カルテの町を出たのは、翌朝の早い時間だった。

 昨夜はよく眠れた。久しぶりにちゃんとしたベッドで、雨音を聞きながら安心して眠ることができた。一人旅の時は、どうしても神経が張り詰めてしまって熟睡できないことが多かったけれど、隣の部屋にベルクさんとフィンがいると思うだけで、心が落ち着いた。

 朝食も豪華だった。焼きたてのパン、ベーコン、目玉焼き、それに温かいスープ。一人分の料金でこんなにいいものが食べられるなんて、ノルデン家の財力を実感する。

 宿を出る時、宿の主人が深々と頭を下げた。「ノルデン家のお客様をお迎えできて光栄でした」と。フィンは少し恥ずかしそうにしていたけれど、ベルクさんは慣れた様子で応対していた。

 救助隊が昨夜のうちに出発していて、朝方には結果が判明した。御者のダモンさんは意識を失っていたけれど命に別状はなく、町の治療師の手で手当てを受けているとのことだった。

「よかった」

 フィンが安堵の表情を浮かべた。

「ダモンさんには長い間お世話になってるんです。もし何かあったらと思うと——」

「大丈夫でしたよ」ベルクさんが優しい声で言った。「あの人は頑丈ですから」

 そうして三人の旅が始まった。


 カルテから王都への街道は、よく整備されていた。

 石畳ではないけれど、土がしっかりと踏み固められていて歩きやすい。道幅も広く、馬車が何台でもすれ違えるほど。街道の両側には背の低い石の標識が定期的に置かれていて、距離や方角が刻まれている。

「立派な道ですね」

 わたしがそう言うと、フィンが頷いた。

「アーヴェリア王国の街道は、どれも王都を中心にして放射状に伸びているんです。『全ての道は王都に通ず』って言葉があるくらい」

「へえ。山の方にはこんな道はなかったなあ」

「山間部は地形的に難しいでしょうね。でも、主要な街道だけは王国の威信にかけて整備されてるんです。商業や軍事にとって道路は生命線ですから」

 フィンは物知りだった。歩きながら、色々なことを教えてくれる。王国の歴史、地理、政治制度。本で読んだ知識を、実際に目にする風景と照らし合わせながら説明してくれるので、とても分かりやすい。

 昨日あれだけ悔しそうにしていたのに、今朝は普通に話しかけてくれる。ただ、時々こちらに説明する口調に力が入ることがあった。知識なら負けない、と言うように。

 ベルクさんも時々口を挟んだ。

「理論はその通りだが、実際はもう少し複雑だぞ、坊ちゃん」

「どういう意味ですか?」

「例えば、道路の維持管理は各領主の責任になってる。だが、領主によって熱心さが違う。財政が厳しい領地だと、道路が荒れていることもある」

「ああ、なるほど」

 フィンが納得したような顔をした。本の知識と現実の差を知ることが、この子にとっては新鮮な体験なのかもしれない。


 昼過ぎに小さな村を通りかかった。

 村の名前は「ミドル村」。街道沿いにある典型的な宿場村で、旅人相手の商売をしている店が何軒か並んでいる。

「休憩していきませんか」フィンが提案した。「喉が渇きました」

 ベルクさんも同意して、村の茶屋に立ち寄ることになった。

 茶屋の店主は人の良さそうなおばさんで、わたしたちを温かく迎えてくれた。冷たい井戸水と、手作りのクッキーを出してくれる。

「お若い方々ですねえ。王都にお出かけで?」

「はい」フィンが答えた。「僕は魔術学校の入学試験を受けに」

「まあ、魔術学校!」おばさんの目が輝いた。「それはすごい。うちの村からも昔、一人だけ魔術学校に入った子がいたんですよ」

「そうなんですか?」

「ええ。今では立派な魔術師になって、王都で働いてるそうです。村の誇りです」

 おばさんが嬉しそうに話してくれる。魔術師という職業が、どれだけ特別視されているかがよく分かる。

 フィンも嬉しそうだったけれど、どこか緊張した表情も見せていた。きっと、期待に応えなければというプレッシャーを感じているのだろう。


 茶屋を出てから、しばらく歩いていると、フィンが口を開いた。

「ユノさん、昨日約束した魔術の話なんですけど——」

「ああ、はい」

「複合術式について、詳しく教えていただけませんか? 理論は分かるんですけど、実際にどうやって組み立てるのか想像がつかないんです」

 フィンの口調は丁寧だったけれど、昨日とは少し違う真剣さがあった。聞きたいのではなく、知らなければならない、という切迫感。

「うーん」わたしは考えた。「理論的な説明はできないかもしれません。師匠に教わった通りにやってるだけなので」

「……教わった通りに、で、あれができるんですか」

 フィンの声に、微かな棘があった。すぐに「すみません」と付け加えたけれど。

「実際の感覚を聞かせてください」

 歩きながら、わたしは昨日の戦闘を思い出した。

「まず、二つの属性のマナを同時に感じ取るんです。風のマナと火のマナ。それぞれ性質が違うから、最初は混ざろうとしません」

「性質が違う、というのは? マナの波長特性のことですか? 理論的には、各属性マナには固有の振動周期があって——」

「波長? 振動?」

「……知らないんですか?」

 フィンの目が一瞬見開かれた。信じられない、という顔。

「風のマナは軽くて、動きが速い。火のマナは重くて、熱を持ってる。全然違うものなんです。わたしにはそれくらいしか分からないけど」

「でも——それは、つまり振動周期の違いを直感的に感じ取っているということです。ユノさんは理論を知らないだけで、理論が記述しているものと同じことを感覚でやっている」

 フィンが早口で言った。何かを確かめるように、あるいは、自分に言い聞かせるように。理論を知っている自分にだって意味がある、と言いたげに。

「それを無理に混ぜようとするとうまくいかないんです。だから——」

「だから?」

「一緒に踊ってもらうんです」

「……踊る?」

 フィンが足を止めた。ベルクさんも興味深そうにこちらを見ている。

「師匠がよく言ってました。『マナは生き物だ。命令するんじゃなくて、お願いしろ』って。だから、風さんと火さんに『一緒に踊ってください』ってお願いするんです」

 長い沈黙があった。フィンの表情が複雑に変わっていく。困惑、苛立ち、そして——悔しさ。

「理論書には」フィンがゆっくりと言った。「『属性間の親和性を利用して術式構造を統合する』と書いてあります。術式の設計図を正確に組み上げて、マナの流路を制御して、段階的に統合する。そう書いてあるんです」

「そうなんですね」

「そう書いてあるのに——踊ってもらう、で、できてしまうんですか」

 フィンの声が震えていた。怒りではない。もっと複雑な何か。何年も理論を積み上げてきた自分と、感覚だけで同じことをやってのける同い年の少女。その差が、この子にとってどれだけ大きいか——わたしには想像しかできなかった。

「……試してみてもいいですか」

「もちろん。でも——」

「でも?」

「危険もあるから、慎重にやってください。最初は小さな術式から」

「分かっています」

 フィンの返事は短かった。嬉しそうではなかった。決意に満ちていた。


 その日の夜は、街道沿いの東屋で野宿することになった。

 東屋といっても、ちゃんとした建物だった。石造りの壁に木の屋根、中央に炉が切ってある。旅人が安全に夜を過ごせるように、王国が整備したものだという。

「すごいですね」わたしが感心すると、ベルクさんが説明してくれた。

「王都周辺の街道にはだいたい一日歩きの距離ごとに東屋がある。宿に泊まれない旅人のためのものだ」

「便利ですね」

「ああ。だが、時には好ましくない連中が使うこともある。盗賊とか、密輸業者とか」

 ベルクさんが周囲を警戒するように見回した。護衛としての職業意識が常に働いているのだろう。

「でも今夜は大丈夫そうですね」フィンが言った。「他に誰もいないし」

 確かに、東屋には私たちだけだった。

 薪を集めて火を起こし、携行食を温めて食べた。ベルクさんが持っていた携行食は上等なもので、干し肉や乾燥野菜、パンなど、一人旅の時に食べていたものよりもずっと美味しかった。

 火を囲んで座りながら、三人で色々な話をした。

 フィンは自分の家のことを話してくれた。ノルデン男爵家は新興の貴族で、フィンの父親が商売で成功して爵位を得たのは数年前のこと。古い貴族の家と違って魔術の伝統がないから、フィンが魔術学校に入れれば家で初めての魔術師になる。

「父は僕に期待してるんです」フィンが火を見つめながら言った。「魔術院での地位が貴族の力に直結するから、ノルデン家が生き残るためには魔術師が必要だって」

「大変ですね」

「でも、僕自身も魔術に興味があるんです。だから苦痛じゃありません。ただ——」

 フィンが自分の手を見た。今朝の練習で赤くなったままの手のひら。

「ただ、足りないんです。何年も勉強して、理論では誰にも負けないと思ってた。でも——」

 フィンがちらりとわたしを見て、すぐに火に視線を戻した。

「実際の魔術は、理論だけじゃどうにもならないことがあるって、この二日で思い知りました」

「落ちるわけにはいかないんです」フィンの声に、硬い決意がにじんでいた。「家の将来がかかってるだけじゃなくて——僕自身が、このままじゃ嫌なんです」

 その言葉には、重い責任感だけじゃない何かがあった。悔しさを燃料にして前に進もうとする、十四歳の意地。

 ベルクさんも自分のことを少し話してくれた。元は王都の衛兵隊にいたけれど、怪我が原因で退役。その後、ノルデン家に雇われて護衛をしている。フィンの父親とは古い知り合いで、フィンが小さい頃から面倒を見ているという。

「坊ちゃんにとっては、わしは父親代わりでもあるんです」

 ベルクさんがフィンを見る目は、確かに父親のように優しかった。

 わたしも、少しだけ自分のことを話した。山の村で師匠と暮らしていたこと。師匠がいなくなったこと。一人で王都を目指していること。

 詳しいことは話さなかったけれど、二人とも無理に聞こうとはしなかった。そういう配慮が嬉しかった。


 翌朝、フィンが魔術の練習をしたいと言い出した。

「昨日聞いた話を参考にして、複合術式に挑戦してみたいんです」

 その目には昨日の悔しさが形を変えた決意が宿っていた。

「分かりました」ベルクさんが頷いた。「だが、安全な場所でやりましょう」

 東屋から少し離れた開けた場所で、フィンが練習を始めた。わたしとベルクさんは少し距離を置いて見守った。

 フィンが手を前に出して、集中する。マナを感じ取ろうとしているのだろう。

 しばらく何も起こらなかった。それから——

 小さな風が起こった。フィンの手のひらの上で、空気がくるくると回っている。

「できました。風のマナです」

 フィンの声は抑えめだった。喜ぶ前に、次を見据えている。

「じゃあ次は火を——」

「はい」

 フィンが再び集中した。数分経って、手のひらに小さな炎が灯った。

「火も大丈夫です」

「すごいですね」わたしが感心した。「じゃあ今度は——」

「一緒に、ですね」

 フィンが両手を出した。右手に風、左手に火。深く息を吸って——

「踊って——ください」

 小さな声で呟いた。わたしが昨日言った通りに。

 何も起こらなかった。

 風は風のまま、火は火のまま。それぞれが頑なに自分の領域を守っている。

「もう一度」

 フィンが歯を食いしばって、集中し直した。手のひらの上のマナが揺らぐ。風と火が少しだけ近づいて——反発した。ぱちん、と小さな音がして、両方の術式が弾け飛んだ。

「……もう一度」

 三度目。今度はもっと慎重に。フィンの額に汗が滲んでいる。風を起こし、火を灯し、二つを近づけようとする。

 また弾けた。今度はさっきより強く。フィンの手のひらが赤くなっている。

「坊ちゃん、無理をしなくても——」

「もう一度」

 四度目。五度目。六度目。どれも同じ結果だった。風と火は決して混ざろうとしない。

 七度目の失敗の後、フィンの腕がだらりと落ちた。

「……どうして」

 小さな声だった。

「理論は分かるんです。属性間の親和性、マナの流路設計、統合のタイミング——全部、頭では分かってる。なのに——」

「フィンさん——」

「ユノさんは戦闘中にやったんですよね」

 フィンがこちらを振り返った。その目は赤くなっていた。

「命がけの戦いの最中に、当たり前みたいに。僕が何回やってもできないことを」

 言葉が刺さった。フィンもそれが分かっているのだろう、すぐに目を逸らした。

「……すみません。八つ当たりです。分かってます」

 沈黙が痛かった。ベルクさんが何か言おうとしたが、わたしが先に口を開いた。

「わたしも最初はできなかったですよ」

「……」

「炎が暴発して、師匠の眉毛を焦がしました。二回目は自分の前髪を燃やしました。三回目は——三回目のことは忘れました。あんまりひどくて」

 フィンがこちらを見た。

「何回やったか覚えてないくらい失敗しました。でも先生は毎回、『もう一回やれ』としか言わなかった」

「……何回で、できるようになったんですか」

「三ヶ月くらいかかったと思います」

「三ヶ月」

 フィンが目を見開いた。

「ユノさんでも三ヶ月——」

「しかも師匠にずっと横で見てもらいながらです。一人でやるなら、もっとかかったと思う」

 フィンが自分の手のひらを見下ろした。赤くなった手のひらを。

「……もう一回、やっていいですか」

「もちろん」

 八度目。フィンが目を閉じた。今度は力まず、静かに。風を起こして、火を灯して——

「踊ってください」

 ほとんど聞こえないくらいの囁き。

 何かが違った。風と火が、ほんの一瞬だけ——互いに触れた。触れて、すぐに離れた。でも確かに、一瞬だけ、二つのマナが同じ場所に存在した。

「——今の」

「見えました」わたしが頷いた。「一瞬だけ、触れ合いました」

 フィンの目が濡れていた。嬉しさなのか、悔しさなのか、たぶん両方。

「一瞬だけ、か」

「でも、ゼロと一は全然違います。一ができたなら、次は二ができる。師匠がそう言ってました」

 フィンは何も言わなかった。ただ、赤くなった自分の手のひらをじっと見つめていた。その横顔には、さっきまでの苛立ちとは違う表情が浮かんでいた。

 悔しい。でも、やめない。

 その顔を見て、わたしは思った。この子は強い、と。才能とかではなく——折れない、という意味で。


 その日は一日中歩いて、夕方に「リーデン」という町に着いた。

 王都まで残り二日の距離にある町で、カルテよりもさらに大きかった。人口も多く、商店も活気がある。王都が近づいているのを実感する。

 今夜は宿に泊まることになった。「王冠亭」という、名前からして格式の高そうな宿だ。

 部屋は個室で、ベッドも立派。夕食も豪華で、肉料理に魚料理、野菜の煮込みまであった。

「明日の夜は王都ですね」夕食を食べながらフィンが言った。

「ついに王都か」ベルクさんも感慨深そうだった。「坊ちゃんにとっては初めてですね」

「はい。ちょっと緊張します」

「ユノさんも初めてですか?」

「はい。どんな場所なんでしょうね」

「大きいですよ」ベルクさんが教えてくれた。「人口は十万人を超える。城壁の内側だけでも、普通の町が十個入るくらいの広さがある」

「十万人……」

 想像もつかない数だった。ルーアの村は百人もいなかった。クレスやカルテでも千人程度だろう。その百倍の人が住んでいる場所。

「魔術学校も王都の中にあるんですか?」

「はい。王宮のすぐ近くです」フィンが答えた。「王立魔術学校は王国で最高の魔術教育機関ですから、立地も最高の場所にあるんです」

「すごいですね」

「でも——だからこそ、競争も激しいんです。全王国から優秀な子供たちが集まってきますから」

 フィンの表情がまた少し不安そうになった。

「大丈夫ですよ」わたしが言った。「今朝だって、確実に前に進んでいたじゃないですか」

「一瞬だけ、触れただけです」フィンが小さく言った。「ユノさんの基準で言えば、何もできていないのと同じでしょう」

「そんなことありません。ゼロと一は——」

「ゼロと一は全然違う、でしょう?」

 フィンがわたしの言葉を先取りした。少しだけ笑って——でもその笑みには、悔しさが混じっていた。

「覚えてますよ。ユノさんの言葉は、全部」

 きっと明日の夜、王都に着いたら、フィンの人生が大きく変わるのだろう。合格すれば魔術師への道が開ける。でも失敗すれば——

 考えないようにした。フィンなら、きっと大丈夫だ。


 その夜、部屋で一人になってから、わたしは窓の外を見た。

 リーデンの町の明かりが、夜空に浮かんでいる。明日の夜には、王都の明かりを見ることになる。

 長い旅だった。山の村を出てから、もう何日経ったろう。一人で歩いた道、出会った人たち、見た風景。全部が、わたしを少しずつ変えてきた。

 師匠がいなくなった時は、これからどうすればいいのか全く分からなかった。でも今は——まだはっきりとした目標があるわけじゃないけれど、前に進んでいる実感がある。

 王都で何をするのかは分からない。でも、きっと何か見つかるだろう。

 師匠が言ってたように、世界は広い。そして——一人じゃない。フィンやベルクさんみたいに、助け合える人たちもいる。

 明日は、新しい世界への扉が開く日だ。

 楽しみでもあり、不安でもある。

 でも——大丈夫だ。今のわたしなら、きっと大丈夫。


 翌朝、三人は早めに宿を出発した。

 今日が王都までの最後の道のりだ。街道はより広く、より整備されていて、通行する人や馬車の数も多い。王都が近いことを実感する。

 昼頃に峠を越えると、眼下に巨大な平原が広がった。そして、その平原の中央に——

「あれが王都です」

 ベルクさんが指差した。

 遠くに見える巨大な城壁。その内側に立ち並ぶ無数の建物。中央には高い塔がそびえ立っている。王宮だろう。

「すごい……」

 フィンが息を呑んだ。わたしも同じ気持ちだった。

 今まで見たどの町とも比べものにならない大きさ。人類の作り出した最大の建造物が、そこにあった。

「ついに着いたんですね」

「ええ。今夜には城壁の中です」

 ベルクさんが頷いた。

 三人で坂道を下りながら、王都に向かって歩き続けた。巨大な城壁がだんだん大きくなり、細かい部分まで見えてくる。

 城門が見えた時、わたしは思った。

 新しい人生が、始まろうとしている。


第4話 了