ユノ・フェルティアの物語

第三章「門をくぐる」

第1話「入学試験」


 試験の朝は、やけに静かだった。

 いつもなら窓の外から馬車の車輪の音や商人たちの声が聞こえてくるのに、今朝はそれがずっと遠い。金鷲亭の部屋で目を覚まして、しばらく天井の木目を見つめていた。木目の筋が川みたいに枝分かれしているのを、ぼんやり目で追った。

 今日は、試験の日だ。

 特別枠の入学試験。筆記と実技を、一日でまとめてやる。受付で渡された案内書にそう書いてあった。通常枠は三日かけるらしい。特別枠は受験者が少ないから、一日で全部。

 申し込みから三日。その間にフィンは通常枠の三日間の試験をすべて終えて、今は結果待ちだった。筆記は「手応えがありました」、実技は「正直に言うと、厳しかったかもしれません」。面接では研究テーマの話で試験官と盛り上がったらしい。でも、それで実技の不足を補えるかは分からない、とフィンは言っていた。

 布団から出て、窓を開けた。冷たい空気がすうっと頬を撫でて、布団に残っていた温もりが一気に消えた。薄い雲が一面に広がっていて、太陽がぼんやりとした白い光を落としている。初春の王都は、朝だけは谷に似た冷え込みがある。吐く息がかすかに白い。どこか遠くで鐘が鳴っていた。低くて、ごおんと響く音。朝の六時を告げる鐘だ。

 洗面台で顔を洗って、髪を結んだ。先生の短杖を腰に差して、銀鋼の長剣を背に負う。鞘の革紐を肩に通した時、かちんと鍔が鳴った。いつもの装備。いつもの自分。

 でも、指先がじんと冷たかった。緊張なのか、朝の冷え込みなのか、よく分からない。


 廊下に出ると、フィンとベルクさんがもう待っていた。

「おはようございます」

「おはようございます、ユノさん」フィンが微笑んだ。「今日ですね」

「うん。今日」

 自分の声がちょっと硬いのが分かった。

「朝ごはん、食べられますか?」ベルクさんが聞いた。

「……食べます」

 先生なら言うだろう。「腹が減ってはまともに動けん」と。だから食べる。先生の言葉は、こういう時にふと出てくる。

 食堂で朝食を済ませた。パンと卵とスープ。焼きたてのパンのいい匂いがしたけど、味はあんまり覚えていない。緊張で舌がぼんやりしていた。

「ユノさん」フィンが、食事の途中で声をかけてきた。「筆記試験なんですけど、一つだけ」

「なに?」

「用語です。学校の試験は一般魔術体系の用語で出題されます。ユノさんの師匠の教え方が独自のものだとすると、同じことを言っていても言葉が違う可能性がある」

 あ、と思った。そうかもしれない。先生はいつも自分の言葉で教えてくれた。「教科書なんかどうでもいい。身体で分かれ」と。

「でも、内容が分かっていれば大丈夫です。自分の言葉で書いても、意味が通じれば評価されるはずですから」

「ありがとう、フィン」

「頑張ってください」フィンがまっすぐな目で言った。「ユノさんなら、大丈夫です」

 嬉しかった。でも——試験って、こんなに緊張するものなんだ。剣を振る時も緊張はする。でもあれは身体ごと動く緊張で、動いているうちに消える。紙に文字を書いて、誰かに点数をつけてもらう。それは全然違う。じっと座って、頭の中だけがぐるぐる回る。この緊張は、初めてだった。


 三人で宿を出て、王都の朝の道を歩いた。

 王都魔術学校は、王宮区の東側にある。金鷲亭からは歩いて二十分ほど。大通りを東に進んで、途中で一本南に折れる道順だった。

 朝の王都は活気があった。パン屋の窓から焼きたての匂いが漂って、八百屋のおじさんが通りに箱を並べている。馬車が石畳をがらがら鳴らして通り過ぎて、角の噴水のところで犬が水を飲んでいた。

 人が多い。谷では考えられないくらい多い。でも三日過ごしただけで、もうすこし慣れてきた。匂いも音も、最初ほど圧迫感がない。

「あ、あそこです」ベルクさんが指差した。

 通りの突き当たりに、石造りの大きな門が見えた。門柱には蔦が絡まっていて、その奥に青い屋根の校舎がそびえている。窓がたくさんあって、建物の上に小さな尖塔がいくつか立っていた。塔の先端に旗が翻っている。アーヴェリア王国の紋章だ。

 王都魔術学校。

 先生が「宮廷最強」と呼ばれていた場所の、すぐ隣にある世界。

 門の前に「入学試験・特別枠受験者はこちら」と書かれた案内板があった。

「ここから先は受験者しか入れないみたいです」ベルクさんが門の前で足を止めた。

「じゃあ、ここで」

「行ってらっしゃい」フィンが言った。「終わったら門の前で待ってます」

 うん、と頷いて、一人で門をくぐった。

 振り返ると、フィンが小さく手を振っていた。


 校庭は広かった。石畳の道が真っ直ぐに校舎まで伸びていて、その両側に手入れされた植え込みが並んでいる。木々にはまだ葉が少ないけど、つぼみが膨らみ始めていた。風がふわりと吹いて、湿った土と若い草の匂いがした。陽射しがほんのすこし暖かい。春が近い。

 生徒の姿は見えない。試験日だから、在校生は別の場所にいるのかもしれない。自分の足音だけが石畳にこつこつ響く。しんとした校庭を一人で歩くのは、なんだか奇妙な感じがした。

 校舎に入って、受付で名前を告げた。

「ユノ・フェルティアさんですね。特別枠の受験者は本日五名です。まず午前に筆記試験、昼食をはさんで午後に実技試験となります」

 五名。思ったより少ない。

「こちらの教室へどうぞ」

 案内された教室は、木の机と椅子が並んだ普通の部屋だった。窓から差し込む光が柔らかくて、黒板の粉っぽい匂いと、古い木の匂いがした。椅子に座ると、木の座面がひんやり冷たかった。

 もう四人の受験者が席についていた。

 全員、わたしより年上に見えた。たぶん十六か十七か。体つきも大人びていて、鎧や武器を身につけた人もいる。冒険者か、あるいは騎士団の見習いか。傷のある手をした男の人や、目つきの鋭い女の人。

 わたしだけが明らかに小さかった。一人だけ、子供だった。

 四人の視線がこちらに向いた。一人の男性が眉を上げた。別の女性が少し不思議そうな顔をした。「子供が来たぞ」という空気が、言葉にはならなかったけど伝わってきた。

 気にしない。先生は言っていた。「体の大きさと強さは別だ。小さいなら小さいなりの間合いがある」

 空いている席に座って、筆記試験の開始を待った。机の上に、ペンとインク壺と答案用紙が用意されていた。インクの匂いが鼻をくすぐる。ペンを手に取ってみると、先生が作ってくれた木のペンとは違う、金属の冷たい感触がした。


 試験監督が入ってきて、問題用紙が配られた。

 裏返しのまま「始め」の合図を待つ。心臓がどくどく鳴っている。こういう緊張は本当に慣れない。剣を構えている時の方がずっと落ち着く。

「始めてください」

 用紙をめくった。全部で十二問。時間は二時間。

 字が読める。当たり前のことだけど、先生が読み書きをちゃんと教えてくれたことに感謝した。

 でも——その安心は、最初の数問で消えた。

 第一問。「マナの属性分類について、一般魔術体系における六大属性とその相互関係を図示し、それぞれの特性を簡潔に説明せよ」

 六大属性。火、水、風、土、光、闇。それは知っている。先生に教わった。

 でも「一般魔術体系における」という言葉が引っかかった。先生は「属性ってのは大きく六つある」とは言ったけど、「一般魔術体系」という枠組みの名前は一度も使わなかった。

 相互関係も、身体では分かっている。火と水は打ち消し合う。風は火を強め、水を散らす。土は風を阻む。闇と光は対になる。先生は実技の中で教えてくれた——「風を送れば火は喜ぶ。水を近づければ火は怒る。それが相性だ」

 でも問題が求めているのは「図示」だった。円を描いて矢印でつなぐようなもの? 先生はそんなもの見せてくれなかった。先生の教え方は、いつも手と身体で見せるものだった。

 とりあえず、知っていることを自分なりに書いた。図は下手だったけど、関係性は合っているはずだ。

 第二問。「魔術史における精霊大戦の影響と、それが現在の魔術体系にどのような変化をもたらしたかを述べよ」

 精霊大戦。聞いたことはある。先生が一度だけ話してくれた。精霊族と他の種族が争って、世界が大きく変わった出来事。でもそれ以上の詳しいことは——知らない。先生は歴史をほとんど教えなかった。

 書けることだけ書いて、次へ進んだ。

 第三問。「位階言語の定義と、原初言語との関係を述べよ。また、魔導書が果たす役割を説明せよ」

 位階言語。フィンが旅の途中で使った言葉だ。人が使う魔術言語のこと。原初言語は——先生が「世界の言葉」と呼んでいたもの。石碑に刻まれた、世界の秩序そのものを記した言語。

 魔導書の役割は知っている。先生の魔導書——あの革綴じの手帖——は、わたしの言葉を「世界の言葉」に翻訳してくれるものだった。先生は「お前が呟いた言葉を、世界が分かる言葉に直してくれる翻訳家みたいなもんだ」と説明してくれた。

 でも「位階言語の定義」と言われると、途端に手が止まる。定義って何だ。先生の教え方に「定義」なんてなかった。全部「こうやるんだ」だった。

 知っていることを、自分の言葉で書いた。正式な用語じゃないかもしれないけど。

 第四問は養成制度と資格認定の歴史。第五問はマナの変換過程。第六問は位階制度。第七問は魔障域の定義と形成原因。第八問は結界術式の理論的基盤。

 制度、歴史、定義——そういうものは先生の世界にはなかった。谷には学校もなければ試験もなかった。

 身体で知っていることはある。マナの変換過程なんて毎日やっていることだ。吸って、通して、出す。先生はそう言った。障壁と結界の違いも、手のひらでは分かる。障壁は目の前に立てる盾。結界はもっと広い範囲を包むもの。魔障域も、レイス・ハルトが谷に来た時に話していた。

 でも「定義を述べよ」と言われると、途端にペンが止まる。先生の「それだけだ」を紙の上に書こうとすると、何百文字も必要な気がした。

 知らないものは、知らない。先生が教えなかったことを、ないところから絞り出すことはできない。ペンを置いて、ふうっと息を吐いた。書けるところだけ書いて、空白を残して、次の問題に目を移した。

 第九問。「実戦における複合術式の利点と危険性について、具体例を挙げて論じよ」

 ——これは書ける。

 ペンが急に軽くなった。

 複合術式のことなら、身体が知っている。風と火を重ねた時の感触。二つの属性のマナが触れ合う瞬間の、ぱちっとした手応え。成功した時の爆発的な威力と、失敗した時に術式が暴走する恐怖。

 先生の言葉が、どんどん出てきた。ペンを握る指に力がこもる。「複合は、二つの力に同じ踊りを踊らせることだ。片方が崩れたら両方崩れる。だから危ない。でもだからこそ強い」

 森で魔物と戦った時のこと。風を送って火を煽り、灼熱の突風を叩きつけたこと。マナが足りなくなりかけて、術式を組み替えて少ないマナで維持したこと。旅の途中でフィンに複合の感覚を教えた時のこと。

 正式な用語ではなかったかもしれない。でも全部、自分の手と身体で知っていること。教科書の言葉ではなく、自分の経験と自分の言葉で書いた。

 ペンが止まらなかった。

 第十問。「属性適性の個人差が術式構築に与える影響を論じよ」

 これも——書ける。身体が知っていることだ。わたしは風と火が得意で、土が苦手。得意な属性はマナが素直に流れるけど、苦手な属性は押し込むように力がいる。同じ術式でも、人によって得意不得意でまるで手応えが違う。フィンに複合術式を教えた時にそれがよく分かった。フィンは水の感覚が良くて、わたしとは全然違う「通りやすい道」を持っていた。

 先生の言葉で書いた。「属性適性とは、マナの通り道の太さだ。太い道は流れやすい。細い道は詰まる。だから得意な属性で術式を組んで、苦手は補うやり方を覚えろ」

 第十一問。「戦闘時にマナを効率的に運用するための基本原則を述べよ」

 これも書ける。先生が叩き込んでくれたことだ。「マナは有限だ。一発で決める術式より、少ないマナで長く戦える工夫を考えろ」。風歩で消耗を抑える方法。術式を最小限の構成で組んで余計なマナを使わない技術。属性の相性を利用して少ない力で大きな効果を出す考え方。

 全部、先生の言葉で書いた。


 二時間が過ぎて、試験が終わった。

 ペンを置いた時、不思議な気持ちだった。

 半分は書けた。残りの半分は、ほとんど書けなかった。

 くっきり分かれている。先生が教えてくれたこと——実戦の知恵、術式の感覚、属性の手触り——は自分の言葉でいくらでも書けた。ペンが追いつかないくらいだった。でも教科書の体系に沿った知識——魔術史、制度、用語の正式な定義——はほとんど空白だった。

 先生の教えが間違っていたんじゃない。先生は、わたしに必要なものを選んで教えてくれたのだ。山で生きて、魔物と戦って、生き延びるための知恵を。教科書の用語体系は、谷の暮らしには必要なかったのだ。

 ——先生、筆記試験ってすごく疲れます。剣を振る方がずっと楽です。

 心の中でそう報告した。先生が「当たり前だろう」と言う声が聞こえた気がした。


 昼食は、校舎の中庭に面した小さな部屋で出された。

 パンとチーズと干し肉、それに温かいスープ。湯気がふわりと立ち上って、じゃがいもと玉ねぎの匂いがした。受験者はそれぞれ別の控え室に通されたらしく、一人だった。

 スープを一口すすって、ほっとした。温かいものが喉を通って胃に落ちると、午前中の緊張がすこしだけほぐれる。

 窓の外に中庭が見えた。石畳の小道と、まだ枯れ枝ばかりの木々。その向こうに、広い訓練場がある。石の壁に囲まれた長方形の空間で、地面は平らな砂地だった。的が並んでいるところもあれば、何もない広い地面だけの場所もある。

 午後はあそこで実技試験をやるんだろう。

 パンをちぎって口に入れた。噛むと、小麦の素朴な甘さが広がる。手のひらを見ると、ペンだこが少しだけ赤くなっていた。剣だこの隣に、ペンだこ。なんだかおかしかった。

 身体を動かすことなら、自信がある。こっちの方が、ずっと気が楽だった。

 胸の前で拳を握って、開いた。指は震えていない。

 大丈夫。


 午後。実技試験。

 五人の受験者が、一人ずつ順番に訓練場に出て試験を受ける形式だった。

 試験官は三人。訓練場の端に設けられた壇上に座っている。一人は白髪の年配の男性で、背筋が真っ直ぐで、厳しい目をしていた。もう一人は三十代くらいの女性で、膝の上に板を載せてずっとペンを走らせている。三人目は四十代くらいのがっしりした男性で、腕を組んで椅子の背もたれに体を預けていた。

 わたしは三番目だった。

 控え室で待っている間、壁の向こうから音が聞こえた。魔術が炸裂する低い音。何かが地面を叩く音。風が渦巻く音。壁が微かに震えるのが、背中越しに伝わってくる。椅子の座面が硬くて、じっとしていると腰が痛い。膝の上に置いた手を、握ったり開いたりした。

 二番目の受験者が終わって、わたしの名前が呼ばれた。

「ユノ・フェルティアさん、どうぞ」

 訓練場に出た。

 広い。岩場よりずっと広い。頭上は空が開けていて、薄い雲の向こうに太陽がぼんやり白く光っていた。風がすうっと吹き抜けて、首筋が冷えた。足元の砂地は、前の受験者が使った後で少し荒れている。焦げた砂の匂いがかすかに残っていた。

 空気の匂いが、校舎の中とは違う。石と砂と、かすかにマナの残り香。ここは魔術を使う場所だ。

「ユノ・フェルティアさん」白髪の試験官が名前を読み上げた。声が低くて、よく通る。「十四歳、特別枠。師事歴——」

 手元の書類に目を落として、一瞬、間が空いた。

「——カーラ・ヴェルト」

 女性の試験官がペンを止めた。三人目の男性が、初めて姿勢を正した。

 やっぱり、先生の名前は重いんだ。

「はい」

「……まず、基本術式の実演をお願いします。火、水、風、土の順に」

 短杖を腰から抜いて、構えた。先生にもらった飾り気のない短杖。木肌がすべすべに磨り減って、手のひらに吸いつくような手触り。これを持つと、指先がすっと落ち着く。

 火。

 マナを集中させて、空中に火球を作った。拳よりすこし大きいくらいの、安定した球。先生が「火は最初に覚える属性だ」と言って、最初に教えてくれた術式。赤い光が砂地に影を落とした。

 三秒ほど維持して、消した。

 水。

 空気中の水分を集めて、手のひらの上に水の球を作った。透明で、ぷるぷる揺れている。ひんやりした空気がすぐそばを漂う。球の中に曇り空が映り込んで、ゆらゆら歪んだ。これは少しコツがいる。力を入れすぎると球が崩れるから、包むように優しくマナを流す。

 風。

 足元から風を巻き上げた。砂がさらさらと舞い上がって、小さなつむじ風が訓練場をぐるりと回った。——ちょっとやりすぎたかもしれない。砂が試験官の方に流れそうになって、慌てて方向を変えた。

 白髪の試験官が眉を動かした。怒ったのか、それとも別の反応か。分からない。

 土。

 地面に手を向けて、砂の下の石を三つ、持ち上げた。握りこぶし大の石が、ゆっくりと浮かんで、ゆっくりと地面に戻った。砂がぱらぱらとこぼれ落ちる音がした。土は得意じゃない。マナを通す時に、他の属性より力がいる。でも基本くらいならできる。

「結構」白髪の試験官が言った。「次に、障壁を」

 障壁。

 一番苦手な術式。

 深く息を吸った。マナを両手に集める。壁を作るイメージ。身体の前に薄い板を立てるように——

 ぼんやりとした光の膜が現れた。半透明で、ちらちらと揺れている。

 弱い。自分でもはっきり分かる。光の膜の向こう側が透けて見える。石くらいは弾けるけど、魔物の爪が来たら、たぶん破られる。旅の途中で少しは厚くなったけど、まだ全然足りない。手のひらがじわっと汗ばんだ。

 女性の試験官がペンで何か書いた。白髪の試験官は表情を変えずに頷いた。

「よろしい。では、自由演技に移ります」

 自由演技。

「得意とする術式、あるいは戦闘技術を、自由に見せてください。時間制限はありません」

 先生の教えを、全部出していい場面。

 胸の中で、何かがすとんと落ち着いた。ここからは、わたしの場所だ。

 銀鋼の長剣を、背中の鞘からゆっくり抜いた。

 かちん、と鍔鳴りが響いた。銀鋼の刀身に、曇り空の白い光が流れた。

 三人目の試験官が、身じろぎした。

「それは——銀鋼か?」

 低い声だった。腕を組んだまま、目だけがこちらに向いている。

「はい。師の形見です」

 試験官がわたしの顔を見た。それから剣を見た。十四歳の小柄な子供と、王都の名工房が鍛えた銀鋼の名剣。不釣り合いに見えるだろう。

 でも構わない。この剣はわたしの剣だ。先生がくれた剣だ。

 構えた。

 宮廷式。右半身を前にした低い姿勢。剣先は前方、見えない相手の喉元を指す。間合いを測る構え。先生が一番最初に教えてくれた形。

 まず、剣だけで動いた。

 一歩踏み込んで、袈裟斬り。返す刀で横薙ぎ。さらに一歩、深く踏み込んで突き。三連撃の型を、一息で流した。

 銀鋼が空を切る音がきぃんと甲高く響いた。先生の剣は速く振ると歌うような音がする。この音が好きだ。谷の岩場で、毎朝聞いていた音。

 型を三つ続けた。基本の型、応用の型、実戦の型。先生に教わった順番で、速度を上げていった。

 足元の砂が弾けた。最後の一撃で、風圧が砂を巻き上げた。

 剣を止めた。構え直して、今度は——魔術を重ねる。

 短杖を左手に持ち替えた。右手に銀鋼の剣、左手に短杖。先生がやっていた二刀流。剣と魔術の同時使用。先生は片手に剣、もう片手に短い杖を持って戦う人だった。わたしもそれを真似して練習してきた。まだ先生ほどには上手くないけど。

 風歩。

 足元に風の術式を纏わせて、瞬間的に横に跳んだ。訓練場の端から端まで、一瞬で。着地の衝撃を風で殺して、砂煙だけが残った。

 すぐに複合術式に移った。

 左手の短杖から火を出す。小さな火の塊。それを保ったまま、右手の剣に纏わせた風でそっと包み込む。

 火が風に乗って、ふわりと膨らんだ。

 二つのマナが触れ合う瞬間、ぱちっと音がした。いつもの、あの感触。マナが踊り始める合図。

 風が火を煽って、灼熱の突風が渦を巻いた。螺旋を描きながら、訓練場の上空に吹き上がっていく。空気がぶわっと膨らんで、頬がひりっと熱い。でもコントロールは効いている。先生に何百回も練習させられたから。

 三秒維持して——ゆっくり収束させた。火を消して、風を凪がせて。

 訓練場に静寂が戻った。

 砂地に焦げた匂いがかすかに残っている。

 剣を鞘に収めた。鍔鳴りが、かちん、と小さく響いた。

「——以上です」

 試験官席がしんとしていた。

 白髪の試験官が、口を開きかけて、閉じた。手元の書類を見下ろして、それからわたしの顔を見た。

 女性の試験官のペンが止まっていた。何か書こうとして、やめたみたいだった。

 三人目の試験官が、ゆっくり腕を組み直した。目が細くなっていた。

「……ご苦労でした」

 白髪の試験官が言った。

 それだけだった。


 控え室に戻って、残りの二人の試験が終わるのを待った。

 椅子に座った瞬間、さっきまでの緊張が一気にほどけて、手がじんわり震えた。服の下に汗が冷えていくのが分かった。

 複合術式を人前で見せたのは初めてだった。森で魔物と戦った時はフィンとベルクさんがいたけど、あれは「戦う」ためであって「見せる」ためじゃなかった。

 今日のは違う。見てもらうために術を使って、評価される。点数がつく。

 先生とやっていた時は、点数なんてなかった。先生は「いい」か「だめ」か「もう一回」しか言わなかった。それでよかった。先生の「いい」は、どんな点数より嬉しかった。

 でも——剣を振って、術を放った瞬間は、迷わなかった。身体が勝手に動いた。「考えるな。身体の方が賢い」と先生に言われた通りに。

 先生に教わったことは、ここでも通じた。少なくとも、実技の間は。

 ——先生、実技は上手くいったと思います。でも障壁は、やっぱりだめでした。もうちょっとなんですけど。


 全員の試験が終わった後、受験者が訓練場に集められた。

 三人の試験官が壇上に並んでいる。白髪の試験官が立ち上がって、短く言った。

「本日の試験は以上です。結果は明日の朝、校門前の掲示板に貼り出します」

 あっさりしていた。

 一礼して、訓練場を出ようとした時——声が聞こえた。

 三人の試験官が壇を降りながら話している。小声で、ほとんど囁くように。

 この距離で聞こえるはずがない。でもわたしの耳は、時々こうなる。森の中で遠くの枝が折れる音を拾うように、意識しなくても届いてしまう。先生が「お前は耳がいい」と言っていた、あの力だ。

「——あの子、規格外だろう。複合術式に剣術に風歩、あの年齢であれだけできるなら推薦に値する」

 三人目の試験官だった。

「しかし基礎の型がない。障壁は不十分、筆記もおそらく半分程度だろう。このまま受け入れれば、通常の教育課程に乗せるのが難しい」

 白髪の試験官が冷静に返した。

「だがカーラ・ヴェルト門下だ。あの構え——宮廷式の本流だよ。最後に使った者を見たのはもう十年以上前だ」

「カーラ先生の名前だけで判定はできません」

「名前で判定しろとは言っていない。あの子の技で言っている」

 女性の試験官が口を挟んだ。

「筆記の答案、ざっと見ました。体系的な知識はほとんど白紙です。ただ——実戦関連の論述は、正式な用語ではないにしろ、他のどの受験者よりも具体的で深い。基礎課程の補習を前提に合格させるという判断は、あり得ると思います」

 白髪の試験官が黙った。

 それ以上は聞こえなかった。声が遠ざかって、普通の距離に戻った。

 わたしは足を速めて、校門に向かった。心臓がどくどく鳴っていた。聞いてしまった、という後ろめたさと——「基礎の型がない」という言葉の重さが、胸に残った。


 校門を出ると、フィンとベルクさんが待っていた。

「お疲れさまです!」フィンが駆け寄ってきた。「どうでしたか?」

「うーん」わたしは正直に答えた。「半分」

「半分?」

「筆記は半分くらいしか書けなかった。知ってることと知らないことが、きれいに分かれてた。実技は——たぶん、大丈夫だったと思う」

「ユノさんらしい」フィンが小さく笑った。

 ベルクさんが「よく頑張りましたね」と言って、肩にぽんと手を置いてくれた。ごつくて、あったかい手だった。

 三人で宿への道を歩き始めた。

 夕暮れの王都は、オレンジ色の光が石の建物の壁を染めていた。石畳に長い影が伸びて、市場の店じまいの声が通りに響いている。どこからかパンの焼ける匂いがして、子供たちが路地を走り抜けていった。

「フィンは、手応えどうだった?」

「筆記はほぼ満点を狙えたと思います」フィンが答えた。声に確かな自信があった。「理論問題は全問解答しましたし、論述も十分な量を書けました」

「すごい」

「でも実技は正直——ぎりぎりだったと思います。基本術式は何とかできましたが、自由演技で複合術式を見せようとして、マナが一瞬触れ合ったところで——維持できなくて崩れました」

 フィンの表情が少し曇った。でもすぐに、いつもの真っ直ぐな目に戻った。

「やれることはやりました。あとは結果を待つだけです」

 二人で並んで歩きながら、考えていた。

 フィンは筆記がほぼ満点で、実技がぎりぎり。

 わたしは実技が手応えありで、筆記が半分。

 完全に逆だ。鏡みたいに、綺麗に反対。なんだかおかしくて、ちょっとだけ笑ってしまった。


 宿に戻って夕食を食べた後、ベルクさんは「若い二人のお邪魔はしません」と言って自室に引き上げた。

 フィンとわたしはラウンジに残った。

 暖炉の火がぱちぱちと小さく弾けていた。薪の燃える匂いが甘くて、谷の家の暖炉を思い出す。紅茶のカップを両手で包むと、陶器の温もりが指先にじんわり染みた。長い一日だった。頭も身体も疲れている。でも、眠くはなかった。

「緊張しますね」フィンが言った。「明日の朝まで、何もできないのが一番つらい」

「うん」

 わたしもそうだった。剣の練習をすればいいんだけど、今夜はそんな気分じゃない。

「筆記試験で」わたしはぽつりと言った。「用語が全然分からなかった」

「やっぱり」

「先生が教えてくれたことと、同じことを聞いてるんだと思う。でも言葉が違うの。先生は『マナの道』って言ってたけど、教科書では別の言い方があるんでしょ?」

「マナ経路ですね。一般魔術体系では、体内のマナの流れる道筋のことを『マナ経路』と呼びます」

「それ。たぶんそれ。あと先生は属性の相性を『踊り』って言ってたけど——」

「『属性間相互作用』、もしくは略して『属性干渉』です」

「……全部そんな感じだった。答えは知ってるのに、名前を知らない」

 なんだか悔しくて、でもちょっとおかしかった。知ってるのに書けない。分かってるのに伝わらない。

「ユノさんの師匠は、身体で覚えるタイプの教え方をされたんですね」

「うん。先生はいつも『難しい言葉なんか覚えなくていい。身体で分かれ』って言ってた」

「正反対ですね」フィンが小さく笑った。「僕は言葉ばかり覚えて、身体が追いつかない」

「……お互い、半分ずつだね」

 フィンがきょとんとした。それから、ゆっくり笑った。

「半分ずつ、か。本当にそうですね」

 暖炉の火が、ぱちっと弾けた。

「僕の半分を、ユノさんが持っていて。ユノさんの半分を、僕が持っている」

「そう言うとなんか——ちょっと心強い」

「もし二人とも受かったら」フィンが紅茶のカップを両手で包んだまま言った。「一緒に勉強しませんか」

「勉強?」

「僕がユノさんに理論や用語を教えて、ユノさんが僕に実技の感覚を教えてくれたら——お互いの半分が、もう少し埋まるかもしれない」

 フィンの目が、暖炉の光を映して琥珀色に光っていた。真剣な目。でもどこかわくわくしている。旅の途中で見た目と同じだった。複合術式を何度も失敗して、それでも「もう一回」と言い続けた時の、あの目。

「……いいね。もし受かったら」

「はい。もし受かったら」

 二人で、小さく笑い合った。約束、というほど大げさなものじゃない。でも、あったかい。

 暖炉の火を見ながら、紅茶を飲んだ。ぬるくなりかけた紅茶が、じんわり身体にしみた。

 結果はまだ分からない。でも、今夜はこれでいい。

 窓の外が暗くなっていた。暖炉の火が、二人の影を壁に揺らしている。

 ——先生、試験が終わりました。筆記は半分しか書けなかったけど、剣を振った時は迷いませんでした。先生に教わったことは、ちゃんと出せました。それと、点数で測られるって変な感じです。先生の「いい」と「だめ」の方が、ずっと分かりやすかったです。

 ——あと、障壁はまだだめです。でも、もうちょっとな気がします。

 ……結果が出たら、また報告しますね。


第1話 了