ユノ・フェルティアの物語

第三章「門をくぐる」

第2話「合格」


 目が覚めた時、まだ外は暗かった。

 窓の向こうに星がちらちら残っている。夜明け前の、一番暗い時間。谷にいた頃ならこの時間に起きるのは普通だったけど、王都の宿では早すぎた。

 今日は、合格発表の日だ。

 布団の中で手を握ったり開いたりした。指先が冷たい。緊張なのか、朝の冷えなのか、よく分からない。

 昨日の試験のことを思い出した。筆記は半分。実技は——たぶん大丈夫だったと思う。「たぶん」がつくのが怖い。

 先生なら何と言うだろう。「結果は出てから考えろ。出る前に悩んでも何も変わらん」。たぶんそう言う。

 そうだ。その通りだ。

 起き上がって、顔を洗った。冷たい水が目を覚ましてくれた。


 朝食の時間に食堂に降りると、フィンがもう席についていた。

 テーブルの上にパンとスープが並んでいるけど、フィンは何も手をつけていなかった。スープの湯気をぼんやり眺めていた。

「おはよう」

「おはようございます」フィンが顔を上げた。いつもと同じ丁寧な声。でも目の下にうっすら隈がある。

「……眠れなかった?」

「少しだけ」フィンが小さく笑った。「三時頃に目が覚めて、そのまま」

「わたしも」

 二人で苦笑した。

 ベルクさんがコーヒーを持ってやって来た。

「二人とも、食べてから行きなさい。空腹で合格発表を見に行ったら、結果がどうあれ頭が回りませんよ」

「はい」

 パンをちぎって口に入れた。昨日よりは味が分かる。パンはちょっと硬くて、バターの塩気が口の中に広がった。スープはかぶと豆のスープで、あったかくて、身体にじんわり染みた。

 食べ終わる頃には、窓の外が少し明るくなっていた。


 三人で金鷲亭を出て、王都魔術学校に向かった。

 朝の空気は冷たくて、吐く息が白い。大通りはまだ人が少なくて、パン屋の窓だけが温かいオレンジ色の光を漏らしていた。焼きたてのパンの匂い。犬が一匹、通りの端をとことこ歩いていた。

 昨日と同じ道。学校まで二十分。でも今日の方がずっと長く感じた。

「フィン、もし」

「はい?」

「もし片方だけ受かったら——」

「その時はその時です」フィンがまっすぐ前を見たまま答えた。「でも、二人とも受かってる気がします」

「根拠は?」

「ありません。でも、なんとなく」

 フィンが「なんとなく」を使うのは珍しかった。この人は何でも理論で説明したがる人なのに。

 ちょっとだけ、笑ってしまった。


 学校の門前に、もう人だかりができていた。

 通常枠の受験者と、その家族だろうか。何十人もの人が掲示板の前に群がっている。歓声を上げる人、泣いている人、呆然と立ち尽くす人。

 人混みの隙間から、大きな紙が二枚貼り出されているのが見えた。一枚は「通常枠合格者」、もう一枚は「特別枠合格者」。

「行きましょう」フィンが言った。

 人の波をかき分けて、掲示板に近づいた。

 まず特別枠から見た。受験者五名のうち、合格者は——

 二名。

 名前が二つ並んでいる。一つ目は知らない名前。二つ目——

 ユノ・フェルティア。

 その横に、小さな字で書いてあった。「特記:基礎課程の補習を推奨」

 受かった。

 受かった——?

 足がふわっと軽くなった。現実感がない。自分の名前がそこにあるのに、まだ信じられない。

「ユノさん!」フィンの声が後ろから聞こえた。「おめでとうございます!」

「——うん。うん。受かった」

 声がちょっと震えた。

 すぐに向き直った。フィンの方。通常枠の掲示板。

「フィンは?」

 フィンが掲示板に目を走らせていた。名前がずらりと並んでいる。三十人ほどの合格者の名前。

「……ありました」

 フィンの声が、かすかに揺れた。

「フィン・ノルデン。合格です」

「おめでとう!」

 わたしは思わずフィンの方を向いた。フィンは掲示板を見つめたまま、唇をきゅっと引き結んでいた。目が潤んでいるのが分かった。でもこの人は泣かない。泣くのを我慢する人だ。

「……ありがとうございます」

 しばらくして、フィンがゆっくり振り返った。目は赤くなっていたけど、顔は笑っていた。

「二人とも、ですね」

「うん。二人とも」

 ベルクさんが後ろから近づいてきて、フィンの頭にぽんと手を置いた。何も言わなかった。でもその手が、全部を言っていた。

 ——先生、受かりました。魔術学校に。先生のおかげです。


 合格発表の後、校舎の中で入学手続きが行われた。

 通常枠と特別枠は別の教室に案内された。フィンとは「手続きが終わったら門の前で」と約束して、別れた。

 特別枠の合格者は二名だけなので、手続きはすぐに始まった。教室に入ると、机の上に書類の束が用意されていた。もう一人の合格者——二十歳前後の大柄な男性——が隣の机に座っている。こちらをちらりと見たけど、何も言わなかった。

 書類を一枚ずつ埋めていった。名前、年齢、出身地。「ルーアの谷」と書いた。住所は——レイスに寮の申請ができると聞いていたから、「王都魔術学校寮を希望」と書いた。

 次の欄。

 「師事歴(師の名前を記入してください)」

 ペンが止まった。

 一瞬だけ。でも確かに止まった。

 先生の名前を、公的な書類に書く。それが、なぜかとても大きなことに思えた。

 カーラ・ヴェルト。

 丁寧に書いた。先生に教わった字で、一画ずつ。

 書き終えて顔を上げると、書類を確認しに来た職員の女性が、わたしの手元を覗き込んで——固まった。

「カーラ・ヴェルト……先生?」

「はい」

 職員の女性がわたしの顔を見た。それから書類を見た。また、わたしの顔を見た。

「少々お待ちください」

 女性が書類を持って教室を出て行った。足音が早い。

 何だろう。変なことを書いただろうか。先生の名前は「カーラ・ヴェルト」で合っているはずだけど。

 五分ほどして、女性が戻ってきた。後ろに、もう一人。

 背の高い男性だった。五十代くらい。灰色がかった茶色の髪を後ろに流していて、眼鏡をかけている。服装は教官のものとは違う、もう少し格式の高い装い。胸元に学校の紋章のブローチをつけていた。

「君がユノ・フェルティアさんかね」

 声は穏やかだった。でも目は鋭い。

「はい」

「わたしはエドムント・ゲルハルト。学校長補佐を務めている。——少し話をさせてもらえるかな」


 別室に通された。

 小さな応接室で、窓から中庭が見えた。机の上に紅茶が用意された。温かい湯気が立ち上っていて、少し甘い匂いがした。

 エドムント先生——と呼んでいいのかどうか分からないけど——が向かいの椅子に座った。

「まず、合格おめでとう」

「ありがとうございます」

「入学手続きの書類を見せてもらった。師事歴のところに、カーラ・ヴェルト先生のお名前があった」

「はい」

「どのくらいの間、カーラ先生に師事していた?」

「六つの時からです。八年間」

 エドムントさんが眼鏡を直した。何かを考え込むように。

「カーラ先生は、今はどちらに?」

「……先生は、亡くなりました。今年の冬に」

 声に出すと、まだ少し胸が痛かった。でもちゃんと言えた。前よりも。

「そうか」エドムントさんが目を伏せた。「それは——惜しい方を亡くした」

 しばらく沈黙があった。窓の外で鳥が鳴いている。

「カーラ・ヴェルト先生は」エドムントさんが口を開いた。「この学校にとっても、特別な名前なんだ」

「……特別、ですか?」

「わたしが若い教官だった頃——もう三十年以上前になるが——カーラ先生はまだ宮廷にいらした。学校にも時折足を運んでくださって、上級生に剣術の特別講義をされることがあった。わたしも何度か見学させてもらった」

 先生が、この学校に来ていた。

「あの剣さばきは——見た者は誰も忘れない。それと同時に、気さくなお人柄でもあった。『理論ばかりやるな、身体を動かせ』と、学生たちに直接手を取って教えていらした」

 先生らしい、と思った。先生はいつもそうだった。

「昨日の実技試験の報告を聞いた時、試験官の一人が言ったよ。『宮廷式の本流を使う受験者がいた』と。もしやと思って確認したら——やはり、カーラ先生の弟子だった」

「あの……先生のことを知っている方が、この学校にも多いんですか?」

「多い、というより」エドムントさんが少し微笑んだ。「知らない者の方が少ないだろうね。少なくとも、ある程度の年齢の教官や魔術師であれば」

 え、と思った。

「カーラ・ヴェルト先生は、先王陛下に仕えた宮廷魔術師であり、宮廷剣術の最高位の使い手だった。王国の歴史に名を残す方だ。——知らなかったかね?」

「……先生は、何も」

 何も言わなかった。自分のことを。谷ではただの「先生」だった。スープを作って、木剣を振って、たまに口のはじっこだけ笑う、ただの先生。

「カーラ先生らしい」エドムントさんが静かに言った。「あの方は、いつも自分の過去を語りたがらなかった」

 紅茶のカップに手を伸ばした。温かかった。その温もりが、少しだけ胸のざわつきを和らげた。

「ユノさん」

「はい」

「君の実技試験の評価だが——正直に言うと、試験官の間で意見が分かれた」

「……聞こえていました」

「聞こえていた?」

 しまった、と思った。遠くの声が聞こえたなんて、言わない方がよかったかもしれない。

「いや、いい」エドムントさんは不思議そうな顔をしたけど、深くは追及しなかった。「結論として、君は合格だ。ただし、基礎課程の補習を受けることが条件になる。座学の基礎理論と、術式の型の基本を、他の学生より多く学んでもらう」

「はい」

「カーラ先生の教えが悪かったわけではない。むしろ、あの方の教えは極めて実戦的で、本質を衝いている。ただ——学校には学校の体系がある。カーラ先生の言葉と、教科書の言葉を橋渡しする作業が必要になる。それを補習で行う」

 先生の言葉と、教科書の言葉の橋渡し。フィンが言っていたことと同じだ。

「分かりました。よろしくお願いします」

「入寮は来週の月曜日から。それまでに必要なものを揃えてきなさい。——教科書と制服は学校から支給される」

 エドムントさんが立ち上がった。部屋を出ようとして、ふと足を止めた。

「ユノさん」

「はい」

「カーラ先生の弟子が、この学校に来てくれたこと——嬉しく思うよ」

 その言葉は、思ったよりずっと温かかった。


 手続きを終えて校門の前に出ると、フィンが待っていた。

「ユノさん! 遅かったですね。何かあったんですか?」

「ちょっと面談があって。学校長補佐の先生と」

「学校長補佐? 入学手続きで?」

「うん。なんか——先生の名前を書いたら、すぐに来て」

「先生の名前?」

「カーラ・ヴェルト」

 フィンの目が大きくなった。

 ぱちっと、何かが繋がったような顔をした。

「ユノさん、それは——」

「フィンは知ってるの? 先生のこと」

「知ってるも何も——カーラ・ヴェルト先生は、宮廷最強と呼ばれた人ですよ」

 宮廷最強。

 その四文字が、ずしんと来た。

「先王に仕えた最も優れた魔術師であり剣士。帝国との戦争でも活躍されて、先王からは『戦友』と呼ばれたという記録もあります。魔術史の教科書にも載っているんです」

「教科書に?」

「はい。少なくとも僕の持っている参考書には載っています。『カーラ・ヴェルト——宮廷魔術の完成者にして、宮廷式剣術の最後の継承者』と」

 フィンの言葉が、一つ一つ頭の中に落ちてきた。重い石が水に沈むみたいに、ゆっくりと。

 宮廷魔術の完成者。宮廷式剣術の最後の継承者。教科書に名前が載っている人。

 それが——わたしの先生。

「……知らなかった」

「知らなかったんですか?」

「先生は何も言わなかった。自分のことを聞いても『昔のことだ』って。剣のことも『昔のものだよ』って。——ずっと」

 ずっと何も言わなかった。八年間一緒にいて。毎日ご飯を作って、毎朝一緒に剣を振って、魔術を教えてくれて、花の名前を教えてくれて。あの人が「宮廷最強」だったなんて、一度も。

「……だからか」

「え?」

「だから試験官があんな反応をしたのか。わたしの名前じゃなくて、先生の名前に反応してたんだ。学校長補佐の先生も、先生のことをよく知ってた」

 フィンが黙って聞いていた。何か言おうとして、やめた。わたしの表情を見て、今は黙っている方がいいと判断したのかもしれない。この人はそういうところが賢い。

 ——先生、すごい人だったんですね。教科書に載ってるって。みんな先生の名前を知ってるって。わたしだけが知らなかった。

 でも、悲しいわけじゃなかった。

 先生は先生だった。スープを作る先生。木剣を振る先生。たまに口のはじっこだけ笑う先生。わたしにとっては、それが先生の全部だった。

 「宮廷最強」は、みんなが知っている先生の顔。でもわたしが知っている先生は、もっと——近い。

「ユノさん」

「うん?」

「僕は、カーラ先生のことを教科書でしか知りません。でも、ユノさんは八年間一緒にいた。それは——すごいことだと思います」

「……ありがとう、フィン」

 嬉しかった。フィンの言葉が、ちょうどいい温度だった。慰めでもお世辞でもなく、ただ事実を言ってくれた。


「ユノ! フィンさん!」

 声がした方を見ると、校門の向こうからレイスが走ってきた。学校の制服を着ている。白い詰め襟に青いラインが入った、きっちりした服。レイスが着ると、谷にいた頃とは全然違って見えた。

「合格したんだって? おめでとう!」

「ありがとう、レイス」

「レイスさん、ありがとうございます」

「両方とも受かるなんて、すごいな」レイスが嬉しそうに笑った。「僕の後輩になるのか。なんか変な感じだ」

「後輩……そっか。レイスが先輩になるんだ」

「先輩っていうのも変な感じだけどな」レイスが頭をかいた。「ユノに勉強教えるなんて想像もしなかったよ」

「勉強って言っても、座学だけだけどね」

「え? ユノが座学苦手なの?」

「苦手っていうか、先生が教えてくれたのと教科書の言葉が違うみたいで」

「ああ……カーラ先生の教え方は独特だったからなぁ。バレン先生も言ってたよ、『あの人は天才だから教え方も天才流だ』って」

 バレン先生がそんなことを言っていたのか。みんな、先生のことを知っていた。わたし以外のみんなが。

「ところで」レイスが胸を張った。「今日は僕が校内を案内しようと思って来たんだ。せっかく入学するなら、先に見ておいた方がいい場所がある」

「いいの? 授業は?」

「今日は午後から自習の日だから大丈夫。——行こう」


 レイスに連れられて、学校の中を歩いた。

 王都魔術学校は、思っていたより広かった。

 まず校舎。三階建ての石造りの建物で、一階が座学の教室、二階が実技の小教室と研究室、三階が図書室と教官の部屋。廊下は天井が高くて、石の壁に等間隔で燭台が並んでいる。窓から差し込む光で、廊下が白っぽく光っていた。

「座学の教室は一階に五つ。学年ごとに分かれてる」レイスが説明した。「一年生は最初の半年くらい、ほとんど一階から出ないよ」

「ここで授業を受けるんだ」

「うん。朝から昼まで座学、昼食後に実技、夕方は自習。毎日そのリズム」

 教室の一つを覗いた。木の机と椅子が四列に並んでいて、前方に大きな黒板がある。黒板には、昨日の授業の板書が残っていた。術式の構造図と、知らない用語がずらりと。

 フィンが板書に目を凝らした。「これ、二年生の講義ですね。術式構造論の応用課題だ」

「分かるの?」レイスが驚いた。

「用語は分かります。でも、実際にやれと言われたら——」

「座学はフィンさんの方が進んでるかもしれないな。僕が一年生で習った内容より難しいことを知ってそうだ」

 次に訓練場。昨日の実技試験をやった場所だ。

「ここが屋外訓練場。実技の授業はだいたいここでやる。天気が悪い日は屋内訓練場を使う」

 砂地の広場が昼の光に照らされていた。昨日は緊張で景色を見る余裕がなかったけど、改めて見ると、壁の石組みが立派だった。壁の一部に焦げ跡がある。魔術の練習で何度も焼かれてきたのだろう。

「あの焦げ跡、僕の先輩がやったやつ」レイスが苦笑した。「火の制御を失敗して壁ごと焼いたんだ。大目玉だったよ」

「すごいな」

「すごくないよ。直すの大変だったんだ」

 それから寮。校舎の裏手にある二階建ての建物。男子寮と女子寮に分かれていて、部屋は二人部屋が基本だという。

「ユノは女子寮の方だな。部屋割りは入寮日に発表される。同室の相手は——たぶん同学年の誰かだろうけど」

「同室……」

 誰かと一緒に暮らすのは、先生以来だ。ちょっと緊張する。

「フィンさんは?」

「僕は寮ではなく、宿を取ります」フィンが答えた。「ベルクも王都にしばらくいてくれるので」

「そっか」

 最後に図書室。三階の広い部屋で、天井まで届く本棚が壁一面に並んでいた。王立図書館ほどではないけれど、魔術に特化した蔵書は負けないとレイスが言った。

「調べものはだいたいここでできる。足りなければ王立図書館まで行くけど、学校の図書室で十分なことが多い」

 本棚の背表紙を眺めた。『一般魔術体系概論』『属性魔術学入門』『位階言語の基礎』——全部、筆記試験で出てきた言葉だ。

「この辺りの本、読んだ方がいい?」

「一年生の必読書はまた別にリストがあるから、入学式の日に渡されるよ。でも、予習したいならここにある本は自由に読んでいい」

 一冊手に取ってみた。『属性魔術学入門』。ぱらぱらとめくると、属性の相互関係を示す図が載っていた。六つの属性が円形に配置されて、矢印でつながっている。

 これだ。昨日の筆記試験で「図示せよ」と言われたやつ。

 先生は「火と風は友達、火と水は喧嘩する」くらいのことしか言わなかった。教科書ではこうやって図にするのか。

「ユノさん、それ借りていきますか?」

「いいの?」

「在校生なら自由に貸し出しできる。まだ在校生じゃないけど——合格はしてるから、大丈夫でしょう」レイスが笑った。

 一冊借りることにした。来週の入寮までに、少しでも読んでおきたかった。


 校内見学を終えて、校門の前でレイスと別れた。

「来週、楽しみにしてるよ」レイスが手を振った。「何か分からないことがあったらいつでも聞いて」

「ありがとう、レイス」

「フィンさんも、一緒に頑張りましょう」

「はい。よろしくお願いします」

 レイスが校舎の方に戻っていった。制服姿のレイスが角を曲がるまで見送った。

 ——あの子と同じ制服を、来週からわたしも着るんだ。

 不思議な気持ちだった。


 帰り道、三人で大通りを歩いた。

 昼を過ぎて、王都の通りは賑やかだった。商人の掛け声、馬車の音、どこかの店から漂う肉の焼ける匂い。朝は緊張で何も感じなかったのに、今は全部がくっきり聞こえた。合格したから、心に余裕ができたのかもしれない。

「今日はお祝いですな」ベルクさんが言った。「どこかで食事でもしましょう」

「ベルクさん、いつもすみません」

「何を言ってるんですか。フィンの試験も終わった。二人とも合格した。祝わない理由がない」

 ベルクさんが連れて行ってくれたのは、大通りから一本入った路地にある小さな食堂だった。地元の人が通うような、飾り気のない店。でも料理は美味しかった。焼いた鶏肉にハーブの塩をかけたものと、蒸した野菜と、厚切りのパン。

 食べながら、今日のことを話した。

「学校長補佐の先生が、先生のことをよく知ってたんです」

「カーラ先生のことを?」

「うん。昔、先生が学校に来て特別講義をしたことがあるって。剣術を教えに」

「すごい方だったんですね」ベルクさんが感心したように言った。

「フィンが教えてくれた。教科書にも載ってるって」

「載ってますよ」フィンが頷いた。「宮廷魔術の完成者にして——」

「それ、さっき聞いた」

「あ、すみません」

 思わず笑ってしまった。フィンも笑った。

「でも本当に、ユノさんの師匠がそんなに有名な方だとは、旅の時は知りませんでした。銀鋼の剣を見た時に只者じゃないとは思いましたが」

「わたしだけが知らなかったんだよ。レイスも知ってた。バレン先生も。谷の人たちもみんな知ってたのかもしれない。わたしだけが——先生のことを『ただの先生』だと思ってた」

 言葉にすると、ちょっと不思議だった。悲しくはない。寂しくもない。ただ、不思議。

「でも」わたしは言った。「わたしにとっては、やっぱり『ただの先生』なんです。スープを作って、木剣を振って、口のはじっこだけで笑う人。それが、わたしの先生」

 フィンが静かに頷いた。

「それは——とても贅沢なことだと思います」

 贅沢。

 そうかもしれない。教科書に載るような人の隣で、八年間、毎日ご飯を食べて、毎朝剣を振った。あの時間が、どれだけ特別だったか。

 先生は知っていたのかな。わたしがいつか、先生の本当のすごさを知る日が来るって。

 たぶん、知っていた。知っていて、何も言わなかった。

 先生らしい。


 宿に戻って、部屋で一人になった。

 ベッドに座って、今日借りてきた『属性魔術学入門』を膝の上に置いた。まだ開いてない。

 窓の外は夕暮れで、オレンジ色の光が部屋に差し込んでいた。

 先生の名前が、こんなに重いものだったとは。

 明日からこの学校に入る。「カーラ・ヴェルトの弟子」として。学校長補佐が知っていた。試験官が知っていた。たぶん教官の多くも知ることになるだろう。

 「カーラの弟子」。

 嬉しいと思う。先生の名前を受け継いで、この場所にいること。先生が教えてくれたことで、ここに辿り着いたこと。

 でも同時に、ちょっとだけ息が詰まる。先生の名前が大きすぎて、わたしが小さく見える。

 ——先生、わたし、先生がどんなにすごい人だったか、今日知りました。宮廷最強だったんですね。教科書に載ってるんですね。全然知らなかったです。先生、何も言わなかったから。

 窓の外を見た。夕空がオレンジから紫に変わりつつあった。

 ——でもわたしにとっては、先生は先生です。スープの味と、朝焼けの谷と、木剣の音。それがわたしの先生です。それだけで、十分です。

 膝の上の本を開いた。第一章、「マナの基礎概念」。

 先生の言葉と、教科書の言葉の橋渡し。フィンと一緒に、少しずつやっていこう。

 来週から、新しい日々が始まる。


第2話 了