ユノ・フェルティアの物語
第三章「門をくぐる」
第3話「最初の授業」
制服は、思ったより動きにくかった。
白い詰め襟に青いラインが入った上着。膝丈のスカート。黒い革靴。レイスが着ているのを見た時はかっこいいと思ったけど、自分で着てみると首元がきつくて、腕を上げると肩が引っ張られる。
谷では毎日同じ麻の服を着ていた。動きやすくて、汚れても気にならなくて、剣を振っても邪魔にならない服。制服はその正反対だった。
鏡を見た。知らない子がいた。——いや、わたしだ。でも制服を着たわたしは、なんだか別人みたいだった。
「似合ってるじゃない」
声がした方を振り向くと、同室の女の子——ミレーヌ・ハウゼンが、自分のベッドに腰かけてこちらを見ていた。
ミレーヌは、入寮初日に名前だけ交わした相手だった。わたしと同い年。栗色の髪を短く切り揃えていて、姿勢がいい。服の畳み方も荷物の並べ方もきっちりしていて、貴族の家で育った人なんだなと一目で分かった。
「……ありがとう」
「首元、きつい?」
「ちょっと」
「慣れるわよ。最初はみんなそう言うの」
ミレーヌは入学初日の朝だというのに落ち着いていた。貴族の子弟が多い学校だから、こういう環境には慣れているのかもしれない。
わたしたちの間には、目に見えない距離があった。敵意ではない。ただ——違う世界から来た人同士の、慎重さ。ミレーヌはわたしが特別枠で入ったことを知っているだろうし、師匠の名前のことも噂で聞いているかもしれない。でも、何も聞いてこなかった。
それが、ちょっとありがたかった。
朝食は寮の食堂で食べた。
長い木のテーブルに、新入生が並んで座る。パンとチーズと果物とスープ。谷の朝ご飯より品数が多くて、でもどれも量は少なめだった。
周りを見渡した。同学年の新入生は三十人ほどで、大半が貴族か裕福な商家の子弟に見えた。話し方が上品で、お互いの家の名前を確認し合っている。「ハウマン家の……」「フレンツェル家とは……」。知らない名前がいっぱい飛び交っていた。
わたしの隣には誰も座らなかった。
いや、正確には、一人だけ座ろうとした子がいたけど、別の子に「あの子、特別枠だって」と小声で言われて、少し離れた席に移っていった。
聞こえちゃったんだけど。
気にしない、と自分に言い聞かせた。先生は言っていた。「他人の目を気にするな。自分の足で立て」と。
パンをちぎってスープに浸して食べた。スープはかぶのスープで、あったかくて、ちょっとだけ谷のスープに似た味がした。
一時間目。座学。魔術理論。
教室に入ると、木の机が四列に並んでいた。黒板の前に、背の高い女性の教官が立っている。鋭い目と、きっちり結い上げた黒髪。声が通る人だった。
「わたしはヘルダ・ベーレンス。一年生の魔術理論を担当する。座れ」
席についた。フィンは通常枠なので同じ教室にいる。三列目の端に座っているのが見えた。フィンの横の席は空いていたので、休み時間に移ろうかと思ったけど、席順が決まっているかもしれないのでやめておいた。
ベーレンス先生が黒板に大きく書いた。
「一般魔術体系——マナの基礎」
「今日は初回なので、基礎の基礎から始める。まず、マナとは何か」
ベーレンス先生がこちらを見た——わけではないと思う。でも教室全体を見渡す視線が、一瞬だけわたしのところで止まった気がした。
「マナとは、秩序の神ティモテの力が世界に満ちたものである。我々はマナを術式によって操作し、様々な現象を引き起こす。これが魔術だ」
知ってる。先生が教えてくれた。「マナってのは、世界に流れてる力のことだ」と。
「マナは人体においてマナ経路を通じて流れ、術式の発動に使用される。マナ経路は個人によって太さや分岐のパターンが異なり、これが魔術の適性に影響する」
マナ経路。先生は「マナの道」と呼んでいた。同じものだ。知ってる。でも「マナ経路」という言葉は、この教室で初めて聞いた。
「次に、属性について。一般魔術体系では、マナの性質を六つの属性に分類する。火、水、風、土、光、闇。この六属性は互いに干渉し合い、その関係を属性間相互作用と呼ぶ」
属性間相互作用。先生は「属性の相性」としか言わなかった。「火と風は仲がいい。火と水は喧嘩する」。それだけ。でも同じことだ。
黒板に六角形の図が描かれた。六つの属性が頂点に配置されて、線でつながっている。促進関係が赤い線、抑制関係が青い線。
あ、これ。試験で「図示せよ」と書かれたやつだ。こう描くのか。
ノートに写した。先生の教えと教科書の言葉が、一つずつ対応していく。
「属性間相互作用は単純な二項関係だけではない。三つ以上の属性が同時に影響し合う場合、相乗効果あるいは相殺効果が生じる。これを多重属性干渉と呼ぶ」
多重属性干渉。先生はこの言葉を使ったことがない。でも——複合術式を使う時に、二つの属性のバランスを取る感覚は知っている。先生は「二つの力に同じ踊りを踊らせる」と言った。それを理論的に説明すると、こうなるのか。
「ここまでで質問がある者は?」
フィンがすっと手を挙げた。
「多重属性干渉の効果は、属性の組み合わせだけでなくマナの波長特性にも依存すると聞いたことがあります。その理解で正しいでしょうか」
ベーレンス先生の眉がぴくりと上がった。
「正しい。だが、それは二年生の範囲だ。名前は?」
「フィン・ノルデンです」
「……よろしい。理論に明るいようだな。授業の後半で、その話にも触れる」
フィンの目が少し光った。得意分野で認められた嬉しさが見えた。
すごいな、と素直に思った。わたしが知らない言葉をフィンは知っていて、フィンが聞いたこともない技術をわたしは使える。本当に鏡みたいだ。
二時間目。属性学。
こちらは別の教官——年配の男性で、ゆっくりした口調で話す穏やかな先生だった。名前はヴァイデル。
「属性魔術学は、六属性それぞれの性質と応用を体系的に学ぶ学問です。今日はまず、火属性から始めましょう」
火。一番得意な属性だ。先生が最初に教えてくれた。
「火属性のマナは、活性化エネルギーとしての側面を持ちます。術式構造としては、マナの振動数を上昇させることで熱エネルギーを生成し——」
——分からない。
いや、「火が熱を出す」ことは分かる。当たり前だ。でも「マナの振動数を上昇させる」って何だ。先生はそんな説明をしなかった。先生は「火はマナを速く動かすと出る。ゆっくり動かすと消える」と言った。
言ってることは同じ——なのかもしれない。でも言葉が違うと、まるで知らないことを聞いてるみたいに感じる。
ノートにペンを走らせた。分からない言葉に印をつけた。振動数。共鳴点。熱量変換効率。印だらけになった。
隣の席の子がこちらをちらりと見た。ノートの印の多さに驚いたのかもしれない。視線を戻されたけど、ちょっと恥ずかしかった。
「さて、火属性の基本術式について。教科書の十二ページを開いてください」
教科書を開いた。火の術式の構造図が載っていた。術式記号が整然と並んでいて、矢印でマナの流れが示されている。
——あ。
これ、知ってる。先生がノートに描いてくれた図と、形は違うけど、中身は同じだ。先生の図はもっと荒っぽくて、矢印の代わりに波線が描いてあって、横に「ここが大事」と走り書きがしてあった。
教科書の図は綺麗で整っているけど、先生の図の方が——なんて言うんだろう、「動いてる」感じがした。先生の図を見ると、マナがどう流れるかが身体で分かる。教科書の図は頭では分かるけど、身体に来ない。
不思議な感覚だった。同じことを二つの言葉で言われている。片方は身体で分かる。もう片方は頭で分かる。でも二つがまだ繋がらない。
昼食。食堂に戻って、パンと肉と煮込みを食べた。
フィンが向かいに座った。
「午前の授業、どうでしたか?」
「半分分かって半分分からなかった。先生が教えてくれたことと同じことを言ってるのに、言葉が違うから混乱する」
「やっぱり」
「フィンは?」
「座学は問題ありませんでした。むしろ——少し簡単すぎるくらいです。基礎はもう独学で終わっているので」
フィンの表情が少し曇った。
「でも午後の実技が心配です」
「大丈夫だよ。基本術式なんでしょ?」
「それが——」フィンが声を落とした。「基本術式すら安定しないんです。理論は分かるのに、手が言うことを聞かない」
フィンの手を見た。テーブルの上で、かすかに握られている。複合術式の練習で何度も赤くなった、あの手。
「午後、一緒に頑張ろう」
「……はい」
午後。実技の授業。
訓練場に出た。試験の時と同じ場所だけど、今日は新入生全員が並んでいるので雰囲気が違った。三十人が横一列に並ぶと、訓練場がちょっと狭く感じる。
実技の教官は、がっしりした体格の男性だった。日焼けした肌と、短く刈り込んだ白髪。声が大きくて、訓練場の端まで響く。
「俺はギュンター・ブラント。実技を担当する。まず言っておくが、座学の成績がどんなに良くても、実技ができなければこの学校では半人前だ。逆もまた然り」
ギュンター先生の目が、一瞬だけわたしの方を向いた。気のせいかもしれない。
「今日は基本に立ち返る。火、水、風、土の基本術式を、正しい型で繰り返す。型は全員統一だ。どんな流派の経験があろうと、ここではこの学校の型を基本とする」
型の統一。つまり、先生に教わった型とは違う型で魔術を使えということだ。
嫌な予感がした。
「まず火から。全員、短杖を構えて。——構えの基本姿勢は、利き手を前に出し、杖先を上に向ける。肘は直角。肩の力を抜け」
短杖を構えた。先生に教わった構えは、杖先を斜め前に向けて、肘は軽く曲げる程度。学校の型とは角度が違う。
言われた通りに構え直した。肘を直角に。杖先を上に。
——ぎこちない。
身体が覚えている構えと違うから、手首の角度が定まらない。こうじゃなくて、こう——いや、こうしろと言われているんだから、こう。
「よし。そこから火球の基本型。マナを杖先に集中させ、属性を付与し、放出。一動作で行え」
やった。
火球は出た。でも小さくて、ぶれていた。試験の時に出したような安定した球じゃない。
おかしい。この術式は何百回もやってきた。先生に教わって、毎日練習して。なのに、構えが変わっただけで、こんなに不安定になる。
身体が混乱している。「いつもの構え」でやりたいのに、「学校の構え」でやらなきゃいけない。頭と身体が別のことを言っている。
「次。水」
水球。これも微妙だった。形が歪んで、ぷるぷる揺れて、三秒で崩れた。先生の構えなら問題ないのに。
「風」
風は比較的うまくいった。でもそれは、風の術式が構えにあまり依存しないからだと思う。
「土」
土は——苦手な上に構えが変わったから、石を持ち上げるのに時間がかかった。
ギュンター先生が巡回しながら一人一人を見ていた。わたしの前で足を止めた。
「お前、構えがぎこちないな」
「はい。——以前の構えと違うので」
「カーラ先生の構えか」
この先生も知っているのか。先生の名前を。
「カーラ先生の型は理に適っている。否定はしない。だが、この学校では統一された型を基礎とする。それを身につけた上で、自分の型を磨いていけばいい。——焦るな。最初は誰でもぎこちない」
「はい」
焦るな、と言われたけど、正直、焦った。
できるはずのことができない。知ってるはずのことが、手の中で滑っていく感じ。応用は先に知っているのに、基本の「型」に戻ると身体が迷う。
フィンの番が回ってきた。
フィンは構えの姿勢は正確だった。教科書通りの角度、教科書通りの力の入れ方。理論を完全に理解しているから、形だけは完璧に近い。
でも——火球が出ない。
杖先に火花が散って、すぐに消えた。
もう一回。今度は小さな火が一瞬だけ灯って、消えた。
三回目。ようやく拳の半分くらいの火球が出たけど、一秒で消えた。
フィンの顔がこわばっていた。唇をきゅっと引き結んで、何も言わない。でも目の奥に、あの悔しさが見えた。旅の途中で複合術式を何度も失敗した時と同じ。
「ノルデン。マナの流し方が硬い。もっと力を抜け」
「はい」
四回目。火球が出た。でもやっぱり小さくて、不安定だった。
理論は完璧に分かっている。構えも正しい。でもマナが思うように流れない。頭と身体の間に壁がある。
——わたしと、本当に鏡だ。
わたしは身体では分かるのに言葉が違う。フィンは言葉では分かるのに身体が追いつかない。
同じ問題の、反対側にいる。
実技の授業が終わって、訓練場から教室に戻る途中、フィンが黙って歩いていた。
いつもなら何か話すのに、今日は口を閉じている。悔しいんだと思う。座学ではあんなに堂々と質問していたのに、実技では基本の火球すら安定しない。
「フィン」
「……はい」
「さっき、ギュンター先生が言ってたこと。『マナの流し方が硬い』って」
「分かってるんです」フィンの声が低かった。「理論的には分かってるんです。マナを緩やかに流して、属性変換の効率を上げればいい。でも、やろうとすると手が——」
「先生がわたしに教えてくれた時のこと、話してもいい?」
フィンが足を止めた。
「先生は、マナを流す時に『水を注ぐように』って言ってた。コップに水を注ぐ時、一気にどばっと入れたらこぼれるでしょ。ゆっくり、細く、途切れないように。そういう感じ」
「水を注ぐように……」
「理論じゃなくてイメージの話なんだけど。先生はいつも、身体の感覚で教えてくれたから」
フィンが黙って聞いていた。それから、右手を開いて、じっと見た。
「やってみてもいいですか」
「ここで?」
「授業の後なら、訓練場を使えるはずです」
でもその前に、午後の残りの座学があった。
午後の二コマ目は魔術言語学の基礎だった。
位階言語の仕組みを学ぶ授業で、フィンは水を得た魚のように生き生きしていた。教官の質問にすらすら答えて、周りの生徒たちが感心した目で見ていた。
「位階言語は原初言語の翻訳体系です。人が扱いやすい形に置き換えられた術式言語であり、魔導書がその翻訳を担う」
フィンの説明は、教科書より分かりやすかった。
わたしはノートに書き取りながら、フィンの言葉と先生の言葉を頭の中で並べていた。
先生は「お前が呟いた言葉を、世界が分かる言葉に直してくれる翻訳家みたいなもんだ」と言った。フィンは「位階言語を原初言語に変換する翻訳プロセスを魔導書が自動化している」と言う。
同じことだ。同じことを、全然違う言い方で言っている。
先生の言葉は、身体にすとんと落ちる。フィンの言葉は、頭の棚に整理される。どっちも必要なんだと思った。
放課後。
寮に戻る前に、フィンが「少しだけ訓練場を使いたい」と言った。在校生は放課後に訓練場を自由に使えるということだったので、二人で行った。
夕方の訓練場は空いていた。西日が壁の上を照らしていて、砂地にオレンジ色の影が伸びている。空気が冷えてきて、吐く息がうっすら白い。
フィンが短杖を構えた。
「水を注ぐように、ですよね」
「うん。ゆっくり、細く」
フィンが目を閉じた。集中している。杖先にマナが集まるのが——見えるわけじゃないけど、空気の揺らぎで分かる。
火花が散った。一瞬だけ。
「もうちょっと。最初に力を入れすぎてる。最初は細く、だんだん太くする感じ」
「……だんだん」
もう一回。今度はゆっくりとマナが流れて——
ぽっ、と小さな火球が灯った。拳の半分くらい。授業の時より安定している。三秒、五秒——八秒。消えた。
「八秒」フィンが言った。目が光っていた。「授業の時は一秒でした」
「ね。水を注ぐ感覚、分かった?」
「少しだけ。でも、少しだけ分かるのと全く分からないのでは、全然違う」
わたしもそう思った。ゼロと一は全然違う。旅の途中で、複合術式の時にも同じことを言った気がする。
「ユノさん」
「うん?」
「お願いがあるんですけど」
フィンがまっすぐな目でこちらを見た。暖炉の前で「もし受かったら」と言った時と同じ目。でも今度は「もし」がつかない。
「お互いに教え合いませんか。放課後、毎日じゃなくてもいい。週に何回か。僕がユノさんに理論と用語を教えて、ユノさんが僕に実技の感覚を教えてくれたら——」
「いいよ」
迷わなかった。
「本当ですか?」
「だって、わたしも困ってるもん。今日の授業、半分は意味が分からなかった。フィンが教科書の言葉を先生の言葉に翻訳してくれたら、すごく助かる」
「翻訳」フィンが少し笑った。「僕が魔導書みたいな役割をするわけですね」
「そう。フィンがわたしの魔導書で、わたしがフィンの——なんだろう」
「練習相手?」
「木剣」
「木剣」フィンが吹き出した。「僕は魔導書で、ユノさんは木剣。なんですかそれ」
「先生がいつも木剣で教えてくれたから。実際に打って、受けて、身体で覚えるの。教科書じゃなくて」
「なるほど」フィンが頷いた。「では明日の放課後から——図書室の隅で始めましょう」
「図書室?」
「理論を教えるなら教科書が要ります。それに図書室なら静かで集中できる」
実技は訓練場で、理論は図書室で。いい組み合わせだと思った。
寮に戻ったのは日が暮れてからだった。
部屋に入ると、ミレーヌがベッドの上で教科書を読んでいた。ランプの柔らかい光が部屋を照らしている。
「遅かったのね」
「ちょっと訓練場で練習してた」
「初日から? 熱心ね」
ミレーヌの声には皮肉がなかった。ただの感想。でも、そこから会話が続かない。
わたしは自分のベッドに座って、ノートを開いた。今日の授業で分からなかった言葉を整理しようと思って。マナ経路、属性間相互作用、多重属性干渉、振動数、共鳴点、熱量変換効率——
「……たくさんあるのね」
ミレーヌがこちらのノートを覗き込んでいた。いつの間に。
「全部知らない言葉。先生が教えてくれた言葉と違うから」
「先生?」
「師匠。カーラ先生」
カーラの名前を出した瞬間、ミレーヌの表情がわずかに変わった。知っている顔だった。
「……カーラ・ヴェルト先生の弟子って、あなただったの」
「うん」
「そう」
それだけだった。ミレーヌはそれ以上何も聞かなかった。教科書に目を戻して、黙って読み始めた。
でも——なんとなく、さっきまでより空気が柔らかくなった気がした。ほんのすこし。
ランプを消して、ベッドに横になった。
窓から差し込む月明かりが、天井に薄い四角を描いている。
長い一日だった。
座学は半分分かって半分分からなかった。実技は、できるはずのことが構えの違いでできなかった。周りの子たちとは距離がある。ミレーヌとは——少しだけ、距離が縮まったかもしれない。
フィンと教え合うことにした。それはよかった。一人で抱え込むより、ずっといい。
——先生、授業の半分は「もう知ってる」でした。でも残りの半分が全然分からないんです。先生の教え方がどれだけ特殊だったか、ここに来て初めて分かりました。
天井を見つめた。
——でも、先生の教えは間違ってなかった。ギュンター先生も「理に適っている」って言ってくれました。ただ、言葉が違うだけです。同じことを、違う言葉で言ってるだけ。
目を閉じた。明日も授業がある。明日は、少しでも「分からない」を減らしたい。フィンと一緒に。
——先生の言葉と教科書の言葉、両方覚えます。全部。一文字も逃さない。
その決意は、谷で先生の教えを一文字も逃すまいと思った時と、同じ温度をしていた。
第3話 了