ユノ・フェルティアの物語
第三章「門をくぐる」
第4話「王都を歩く」
休日の朝は、いつもと違う匂いがした。
目覚めた時、寮の窓からぬるい風が入ってきていた。春が近づいているのだと思う。谷では、この風が吹き始めると山の雪が溶けて、川の水かさが増し始める。王都にはそんなことは関係ないけど、風の温度で季節が分かるのは、先生に教わった感覚だ。
横を見ると、ミレーヌはもう起きていて、ベッドの上で本を読んでいた。
「おはよう」
「おはよう。今日は休みよ。どこか行くの?」
「うん。街を歩いてみようと思って」
「そう」
ミレーヌはそれ以上聞かなかった。この人はいつもそうだ。必要以上に踏み込まない。最初は冷たいと思ったけど、一週間一緒にいて分かった。これがミレーヌのやり方なのだ。距離を保つことで、お互いを楽にしている。
制服じゃなくて、自分の服を着た。谷から持ってきた麻の上着と、王都で買った動きやすいズボン。革のブーツ。先生の短杖は置いていこうかと思ったけど、やっぱり腰に差した。これがないと落ち着かない。
銀鋼の長剣は、さすがに置いていった。街を歩くのに長剣は目立ちすぎる。
学校の門を出ると、空気が変わった。
校舎の中は石と木と古い本の匂いがする。門の外は——人の匂いがする。朝ごはんの煙、馬の匂い、どこかで焼いている肉の脂の匂い。音も違う。校舎の中は足音と声が石壁に反響するけど、外は全部が空に抜けていく。
大通りに出た。
王都に来た最初の日にも、この通りを歩いた。あの時は圧倒された。人の多さ、建物の高さ、すべてが大きくて速くて、ついていくのがやっとだった。
でも今日は違った。
一週間ここにいた。毎日同じ道を通って学校に行き、同じ食堂でご飯を食べ、同じ寮で寝た。それだけのことなのに、足取りが軽い。大通りの角を曲がるとパン屋があることも、その先の噴水のところに犬がいることも、もう知っている。
知っている道を歩くのは、知らない道を歩くのとは全然違う。
大通りから南に折れた。
この道は、学校への通学路とは反対方向だった。まだ歩いたことがない。
建物が少しずつ変わっていった。大通り沿いの立派な石造りの商店が、だんだんと小ぶりな木造の家に変わっていく。道幅も狭くなって、石畳の隙間から草が生えている。
庶民の通りだ。
角を曲がったら、いきなり市場が広がっていた。
露店がずらりと並んでいる。木の台の上に野菜や果物が山盛りになっていて、布を広げて小物を売っている人もいる。干し肉をぶら下げた屋台、香辛料の壺が並んだ棚、籠いっぱいの卵。
匂いがすごかった。野菜の青い匂い、香辛料のつんとした匂い、焼き立てのパンの甘い匂い、魚の塩の匂い。全部が混ざって、鼻の奥がくすぐったくなる。
声もすごかった。
「いらっしゃい! 今日は蕪が安いよ!」
「おい、そこの奥さん、この干し肉は絶品だよ、味見してきな!」
「卵、卵、新鮮な卵!」
売り子たちの声が重なって、ごちゃごちゃした音の壁になっている。でもうるさくはなかった。——谷の市場を思い出したから。
ルーアの谷にも、月に一度の市場があった。規模はもっと小さくて、出店も十件くらいしかなかったけど、あの賑やかさはここと同じだった。マリアの雑貨屋が一番声が大きくて、隣の八百屋が負けじと叫んでいた。先生はいつも人混みの端っこを歩いて、必要なものだけ買って帰った。
わたしは先生の横で、目をきらきらさせていた。市場は、谷で一番にぎやかな日だったから。
市場の中を歩いた。
誰もわたしのことを見なかった。
いや、正確には見ているけど、「ああ、また一人客が来た」くらいの目で見ているだけだった。学校では「特別枠の子」「カーラの弟子」「変わった子」。でもここでは——ただの女の子。
それが、すごく心地よかった。
「お嬢ちゃん、蕪いる? 今朝採れたてだよ」
八百屋のおじさんに声をかけられた。日焼けした顔に人懐っこい笑み。
「あ、見てるだけです」
「見てるだけでもいいよ。でもこの蕪、本当にうまいんだ。煮込みにすると最高」
「蕪の煮込み……」
先生のスープを思い出した。先生は蕪とじゃが芋のスープをよく作ってくれた。塩と少しだけ香草を入れて、ことこと煮込む。冬の朝に食べると、身体の芯からあったまる。
「一つください」
「毎度!」
蕪を一つ買った。小さな蕪で、手のひらに収まるくらい。白くて丸くて、葉っぱが元気にぴんと立っている。
蕪を持って歩いているのが、なんだかおかしかった。魔術学校の生徒が、市場で蕪を一つ買って歩いている。先生が見たら笑うだろうか。笑わないだろうか。——たぶん、口のはじっこだけ上げる。
市場を抜けて、さらに南に歩くと、職人街に入った。
鍛冶屋、革細工屋、木工所、仕立て屋。小さな店が軒を連ねていて、それぞれの店先から違う音がする。鍛冶屋からは金属を叩く甲高い音。革細工屋からは皮を裁つぱちぱちした音。木工所からはかんなを引く、しゅっしゅっという音。
ルッツの鍛冶場を思い出した。ルッツのお父さんは大きな人で、朝から晩まで鉄を叩いていた。ルッツはその横で火の番をしながら、わたしに「今日は何の剣を鍛えてるんだ」と話してくれた。
鍛冶屋の前で足が止まった。
中を覗くと、大きな男の人が炉の前で金属を叩いていた。赤く焼けた鉄片を、トンカントンカンと一定のリズムで。火花が散って、炉の熱気がむわっと漂ってくる。
「何か用かい?」
鍛冶屋が手を止めて、こちらを見た。
「いえ、見てただけです。すみません」
「見てるだけなら構わんよ。珍しいかい?」
「いえ、故郷に鍛冶屋の友達がいたので。——懐かしくて」
「へえ。田舎の子かい」
「はい。山の方の」
「そうか」鍛冶屋が笑った。「王都は騒がしいだろう。でも慣れると、悪くないところだぞ」
「はい。——なんとなく、分かります」
鍛冶屋が仕事に戻った。トンカントンカン。リズムのいい音。ルッツの家の前で聞いていた音と、同じリズム。
場所が違っても、同じ音がする。同じ匂いがする。人が何かを作っている場所には、どこでも同じ温度がある。
職人街を歩いていると、路地から子供たちの声が聞こえてきた。
覗いてみると、五、六人の子供たちが路地裏で遊んでいた。布のボールを蹴り合っている。壁に跳ね返ったボールを奪い合って、笑い声が路地に響いていた。
一人の男の子がボールを蹴り損ねて、わたしの足元に転がってきた。
「あ、ごめんなさい!」
「大丈夫」
ボールを拾って投げ返した。男の子が「ありがとう!」と叫んで走っていった。
見ていると、子供たちの服はあちこち継ぎが当たっていた。靴を履いていない子もいる。裕福な家の子ではないのだろう。でも、笑い声は元気だった。路地裏が遊び場で、壁と壁の間が世界で、それで十分楽しそうだった。
わたしも似たようなものだったな、と思った。谷にいた頃、遊び場は岩場と川辺と森の端っこだった。おもちゃなんてなくて、棒切れを剣に見立てて振り回していた。ルッツと追いかけっこをして、転んで膝を擦りむいて、先生に叱られた。
場所が違っても、子供は子供だ。
路地を抜けて、もう少し南に歩くと、小さな広場に出た。
広場の真ん中に古い井戸があって、その周りにベンチが三つ置いてある。木の根元に猫が一匹寝ていた。日当たりが良くて、穏やかな場所だった。
ベンチに座った。
さっき買った蕪を膝の上に置いて、広場を眺めた。
洗濯物を抱えたおばさんが通り過ぎた。犬を連れたおじいさんが井戸端で一休みしていた。路地の向こうから、また子供の声が聞こえてくる。
ここは学校から歩いて二十分くらいの場所なのに、学校とは全然違う世界だった。
学校には学校の空気がある。試験の緊張、授業の堅さ、「カーラの弟子」という視線。それは悪いことじゃない。でも、ずっとそこにいると息が詰まる。
ここにはそれがない。誰もわたしのことを知らない。特別枠でも規格外でもない。蕪を一つ買った、ただの女の子。
それが、こんなに楽だと思わなかった。
広場のベンチで、しばらくぼうっとしていた。
猫がわたしの足元に寄ってきた。灰色の猫で、痩せている。野良猫だろう。
手を出したら、匂いを嗅いで、するりと擦り寄ってきた。ごろごろと喉を鳴らしている。あったかい。
「お前、人懐っこいね」
猫は返事をしない。当たり前だ。でも、頭を撫でると目を細めて、もっと寄ってきた。
谷にも野良猫がいた。先生の家の裏に一匹住み着いていて、先生は「勝手に住んでるだけだ」と言いながら、毎晩こっそり魚の骨を置いていた。わたしは知っていた。先生は優しい人だった。口では冷たいことを言うけど、やることは優しい。
猫を撫でながら、ふと思った。
先生が宮廷を去って谷に住んだのは、もしかしてこういう気持ちだったのかもしれない。宮廷には宮廷の空気がある。誰もが先生の名前を知っていて、「宮廷最強」と呼ばれて、常に見られていた。
谷には、それがなかった。先生はただのカーラだった。スープを作って、剣を振って、たまに口のはじっこだけ笑う人。誰の目も気にせず、自分のやり方で暮らせる場所。
先生がここにいたら、きっとこの広場みたいな場所を好んだだろう。人の生活の匂いがして、誰にも注目されなくて、猫がごろごろ言ってて。
——先生、わたし、王都で好きな場所を見つけました。市場と、鍛冶屋の前と、この広場です。谷と似た匂いがするんです。
お昼が近くなって、お腹が空いてきた。
広場の近くに、小さなパン屋があった。窓から焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。ドアを開けると、釜の熱気とパンの甘い匂いが一気に押し寄せてきた。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうに、ふくよかなおかみさんが立っていた。エプロンに粉がついていて、手も粉だらけ。笑顔がまぶしい。
「丸パンを二つください」
「はいよ。——あら、あなた、初めて見る顔ね。この辺の子?」
「ちょっと北の方から来ました。最近、王都に引っ越してきたんです」
「そう! 歓迎するわ。この辺はいいところよ。うるさいけど」
おかみさんがパンを紙に包んでくれた。まだほんのりあったかい。
「ありがとうございます」
「またおいで。常連になったらおまけしてあげるからね」
おかみさんの笑顔が、マリアの笑顔に似ていた。谷の雑貨屋のおかみさん。いつも大きな声で「今日は何がいるんだい」と聞いてくれた人。
同じだ、と思った。場所が違っても、パンを焼く人の笑顔は同じ。店先で声をかけてくれる温度は同じ。谷にあったものが、ここにもある。
パンを持って広場に戻り、ベンチで食べた。
丸パンの皮がぱりっとしていて、中はふわふわだった。噛むと小麦の甘い味が口に広がった。谷のパンより少し柔らかくて、少し白い。先生が焼いてくれたパンは、もっと硬くて、色が濃かった。でもどちらも美味しい。
猫がまた寄ってきたので、パンの欠片をちぎってあげた。猫はぱくっと食べて、もっとくれという顔をした。
「一個だけだよ」
パンを食べ終わる頃、広場に人が増えてきた。昼時だからだろう。近くの店の人が休憩に出てきたり、買い物帰りのおばさんたちがベンチで話し込んだり。
ある老人が隣のベンチに座って、新聞のようなものを広げて読み始めた。
「今日はいい天気だね」
老人がわたしに話しかけてきた。
「はい」
「君、見かけない顔だね。この辺の子かい?」
「いえ、学校の方から来ました」
「ほう、魔術学校の学生かい。珍しいね、この辺まで来るのは」
「市場が楽しかったので、つい」
「そうかい」老人が新聞を膝の上に置いた。「この辺は庶民の町だからね。学生が来ることは滅多にない。でも、いいところだろう?」
「はい。とても」
「市場に行ったなら、東通りの干し肉屋に行ってみるといい。あそこの燻製肉は王都一だよ」
「行ってみます」
「それと、ここの井戸水は美味いよ。冷たくて甘い。飲んでみな」
井戸から水を汲んで飲んだ。冷たかった。ひんやりとして、ちょっとだけ甘い。谷の泉の水に似ていた。
「……美味しい」
「だろう?」老人が嬉しそうに笑った。「王都にも、いい水はあるんだよ」
午後は、もう少し歩いた。
東通りの干し肉屋に行ってみた。確かに美味しかった。小さな肉の塊を一つ買って、歩きながら食べた。塩気が強くて、噛むほどに肉の味がじわっと出てくる。
それから、古い時計台がある広場を通り抜けて、川沿いの道に出た。王都の東側を流れる小さな川で、水面がきらきら光っていた。川辺に洗濯をしている人がいて、子供が川に足を入れて遊んでいる。
川の水は谷の川ほど澄んではいなかったけど、水の流れる音は同じだった。さらさらと、途切れない音。
川辺の石に座って、水を見ていた。
一週間前、わたしはこの街で何も知らなかった。門をくぐった時は、十万人の都市の大きさに圧倒されて、自分が小さく感じた。
でも今日、歩いてみて思った。
王都は大きい。でも、その中には小さな場所がたくさんある。市場も、鍛冶屋も、パン屋も、広場も、川辺も——一つ一つは、谷の景色と変わらない大きさだった。人が暮らして、働いて、笑って、話して。それが集まって王都になっている。
学校には学校の世界がある。でも、ここにも世界がある。先生と暮らした谷みたいに、生活の匂いがする場所。
ここも好きだ、と思った。
夕方近くになって、学校に戻ることにした。
帰り道は来た道と違うルートを通った。路地を一つ間違えて、知らない通りに出てしまったけど、大通りの塔が遠くに見えたから方角は分かった。先生に教わった方角の読み方が、こんなところで役に立った。
途中で、朝の市場の前を通った。もう片付けが始まっていて、売り子たちが台を畳んでいた。
「お、蕪の嬢ちゃんじゃないか。また来たのかい」
朝の八百屋のおじさんが声をかけてくれた。覚えていてくれたのか。
「帰るところです」
「そうかい。また来いよ。明日はいい大根が入る予定だ」
「ありがとうございます」
手を振って、歩き出した。
市場の売り子に「また来いよ」と言われたことが、じんわり嬉しかった。学校の外で、わたしのことを覚えてくれている人がいる。蕪を買った、それだけのことで。
学校の門をくぐると、空気が変わった。石と木と古い本の匂い。朝出ていった時と同じ匂い。
でも、今朝とは感じ方が違った。
学校の空気が嫌なわけじゃない。ここにはここの居心地がある。フィンがいて、レイスがいて、授業があって、図書室がある。
でも、門の外にも居心地のいい場所があると知った。市場の声と匂い、鍛冶屋のリズム、パン屋のおかみの笑顔、広場の猫、井戸の水。誰もわたしのことを知らない場所。「カーラの弟子」でも「規格外」でもない、ただのわたしでいられる場所。
二つの場所がある。
学校と、街。
どっちか片方しかなかったら、きっと息が詰まる。でも両方あるから、大丈夫な気がする。
寮に戻ると、ミレーヌがまだ本を読んでいた。
「おかえり」
「ただいま」
「楽しかった?」
「うん。市場に行って、パン屋でパンを買って、猫を撫でて、井戸の水を飲んだ」
「……地味ね」
「うん。でもすごく良かった」
ミレーヌが少しだけ笑った。入学してから初めて見た、ミレーヌの笑顔だった。
夜、ベッドに横になって天井を見た。
手を伸ばして、買ってきた蕪を枕元に置いた。白くて丸くて、葉っぱがしおれかけている。明日、食堂の人に頼んでスープにしてもらおう。先生のレシピで。
——先生、王都に来て二週間が経ちました。学校は大変です。先生の言葉と教科書の言葉が違って混乱するし、構えも全部やり直しです。周りの子は貴族ばっかりで、ちょっと距離があります。
目を閉じた。
——でも今日、街を歩いて、いいことを見つけました。市場の匂いが谷と同じだったんです。鍛冶屋の音も、パン屋のおかみの笑顔も。場所が違っても、人が暮らしているところの温度は、どこも似ているんですね。
窓の外で、王都の夜の音が聞こえる。馬車の遠い音。酒場の笑い声。犬の遠吠え。全部が混ざって、ぼんやりした響きになっている。
——学校と街、両方あるから大丈夫です。先生が谷を好きだったみたいに、わたしもここが好きになれそうです。
おやすみなさい、先生。
第4話 了