ユノ・フェルティアの物語
第四章「二つの場所」
第1話「教え合い」
図書室の奥の、窓際の席。
そこが、わたしたちの場所になった。
入学から三週間が経っていた。放課後、授業が終わると、わたしとフィンは三階の図書室に上がって、窓際の席に向かい合って座る。机の上に教科書とノートを広げて、日が暮れるまで勉強する。最初は毎日じゃなかったけど、気づいたらほぼ毎日になっていた。
窓から西日が差す時間帯が、一番集中できた。橙色の光がページの上に斜めに落ちて、埃がきらきら舞っている。静かで、古い紙と木の匂いがして、たまに他の生徒が本を取りに来る足音が聞こえるくらい。
この場所が好きだった。
「ユノさん、ここまでは大丈夫ですか?」
フィンがノートの上に書いた図を指差した。六つの属性が円形に配置されて、矢印と数式が添えてある。教科書の図より整理されていて、横に先生の言葉との対応表がついている。これはフィンが作ってくれた「翻訳表」だった。
「えっと——属性間相互作用は、促進と抑制の二種類があって、促進関係にある属性同士は複合しやすい。先生の言葉だと『仲がいい属性は一緒に踊れる』」
「そうです。正確に言えば、促進関係にある属性のマナは波長が近いんです。波長が近いから共鳴しやすくて、複合術式が成立する」
「波長が近い……」
「音で考えると分かりやすいかもしれません。同じくらいの高さの音は、一緒に鳴らすと綺麗に響くでしょう? かけ離れた音を混ぜるとぐちゃぐちゃになる。マナの属性も同じです」
あ。腑に落ちた。
先生は「火と風は友達だから一緒に踊れる」と言った。フィンは「火と風のマナは波長が近いから共鳴する」と言う。同じことだ。でもフィンの言い方だと、なぜ「友達」なのかが分かる。波長が近いから。
「先生は『なぜ』を教えてくれなかった。『こうだ』って身体で教えてくれた。フィンの言葉で『なぜ』が分かると、先生の教えがもっとはっきり見えてくる」
「それが橋渡しですよ」フィンが少し嬉しそうに言った。「ユノさんの師匠の教えは本質を衝いているんです。ただ理論的な言語化がされていなかっただけで。僕はそれを言葉にする手伝いをしているだけです」
ノートに書き加えた。「波長が近い=仲がいい=一緒に踊れる」。先生の言葉とフィンの言葉を並べると、どちらも正しいのがよく分かる。
「じゃあ、抑制関係は?」
「波長が遠い属性です。火と水は波長がほぼ正反対なので、一緒にすると打ち消し合う。先生の言葉だと——」
「『喧嘩する』」
「そうですね」フィンが笑った。「火と水は喧嘩する。正確で分かりやすい表現だと思います」
図書室での理論の後は、訓練場に移動する。
放課後の訓練場は使い放題だった。夕方になると空く時間帯があって、そこがわたしたちの練習の時間。
今日のフィンの課題は、基本術式の安定化だった。
「じゃあ、火球から」
フィンが短杖を構えた。構えは正確。教科書通りの角度、正しい力の入れ方。この三週間で、構えに関してはフィンの方がわたしよりずっと綺麗になった。
火球が灯った。拳大の火。授業の初日は一秒で消えていたのが、今は十五秒くらい持つようになっている。
「いい感じ。でもまだちょっと硬い」
「硬い、ですか」
「マナの流し方が一定すぎるの。一定って悪くないんだけど、一定だと融通が利かなくなる。もうちょっと揺らしていい」
「揺らす?」
「そう。マナは踊らせるんです」
フィンの眉がぴくっと上がった。
「……比喩ではなく?」
「比喩じゃなく」
自分でやってみせた。短杖を構えて、火球を出す。安定した球——だけど、よく見ると表面がかすかに揺れている。固定されているのではなく、生きているみたいに。
「見てて。マナを均一に流すと、こうなる」
火球を意識的に固くした。均一に、一定に。火球は安定するけど、動きがなくなる。凍ったみたいに。
「これをちょっとだけ——ゆらす」
マナの流し方を変えた。均一じゃなくて、波のように。強くなったり弱くなったり。でも全体のバランスは保ったまま。
火球が——踊った。表面がゆらゆらと揺れて、炎が生き物みたいにうねる。でも崩れない。揺れているのに、安定している。
「……なるほど」フィンが目を細めた。「微小な振幅を持たせることで、マナの流動性を維持しつつ安定させている。固定ではなく、動的平衡——」
「フィン」
「はい?」
「頭で考えすぎ。今のは見て、感じて。理論は後でいいから」
「……はい」
フィンが黙って、わたしの火球を見た。
十秒。二十秒。三十秒。じっと見て、火の揺れ方を目に焼きつけている。
「もう一回、やってみて」
フィンが短杖を構えた。
火球が灯った。最初は硬い。さっきと同じ。でも——ほんのわずか、表面が揺れた。
「あ」
「今の」
「今、ちょっとだけ——」
「そう。それ。その感覚」
フィンの火球が、一瞬だけ踊った。ほんの一瞬。すぐに戻ってしまったけど。
「……見えました。ほんの一瞬だけ、マナが自分で動き出す感覚が」
「それ。先生はいつも言ってた。『マナは勝手に動きたがってる。お前はそれを邪魔するな』って」
「邪魔するな、か」フィンが呟いた。目に、あの光が宿っていた。何かを掴みかけた時の、真剣で嬉しそうな光。「理論的にはマナの自己組織化に近い概念ですね。制御ではなく、誘導……」
「また理論に行った」
「すみません。癖で」
二人で笑った。
訓練場の隅に座って、水を飲んだ。
空が紫色に染まりかけていた。星が一つ、東の空に光っている。春の夕暮れは長くて、暗くなるまでまだ少し時間がある。
「フィン、複合、やってみる?」
「複合術式ですか?」
「うん。最近やってないでしょ」
フィンの表情が少し硬くなった。複合術式は、旅の途中で何度も挑戦して、八度目でようやくマナが一瞬だけ触れ合ったあの課題。入学してからは基本術式の安定に集中していたから、しばらく手をつけていなかった。
「……やってみます」
フィンが立ち上がって、短杖を構えた。
わたしは少し離れて見ていた。
フィンが目を閉じた。集中している。マナが杖先に集まるのが、空気の揺らぎで分かる。
まず風。柔らかい風が、杖先の周囲を包んだ。安定している。三週間前より、ずっとしっかりした風。
次に火。風の中に火のマナを流し込む。
——旅の途中では、ここで火花が散って終わりだった。
今日は違った。
火のマナが風の中にすっと入った。衝突しなかった。波長が近いもの同士——「仲がいい」もの同士が、自然に寄り添うように。
フィンの杖先で、風と火が触れ合った。
ぱちっ、と小さな音がした。マナが踊り始める合図。
風に煽られた炎が、ちいさな渦を作った。拳ほどの大きさ。わたしが出す複合術式に比べたらずっと小さい。でも——
三秒。五秒。七秒。十秒。
崩れない。
十二秒。十三秒——ぷつん、と消えた。
「十三秒」わたしが言った。
フィンが目を開けた。息が荒い。額に汗がにじんでいる。
「旅の時は、一瞬でした」
「うん」
「今日は、十三秒」
「うん」
フィンの口元が、ゆっくりと緩んだ。嬉しそうな、でも照れくさそうな、複雑な笑み。
「ゼロと一は全然違う、とユノさんは言いました。一と十三も——全然違います」
「違うね。すごいよ、フィン」
「……ありがとうございます。ユノさんのおかげです」
「わたしは何もしてないよ。踊るって言っただけ」
「その一言が、全然違うんです」
図書室に戻って、残りの時間で理論の勉強をした。
今日の課題は障壁の理論。わたしの一番の弱点。
「障壁術式は、基本的にはマナの密度を上げて壁を形成する防御魔術です」フィンがノートに図を描きながら説明した。「ユノさんが苦手な理由は、マナの総量が少ないからだと思います」
「うん。先生にもそう言われた」
「でも、マナの総量だけが障壁の強度を決めるわけではないんです。密度の上げ方——つまり、少ないマナをどれだけ効率的に圧縮できるかが重要です」
「効率的に圧縮……」
「例えば、同じ量の水でも、細い管に通せば水圧は上がりますよね。マナも同じです。広い面に薄く張るのではなく、狭い面に集中させれば、同じマナ量でも障壁の強度は上がる」
ああ、と声が出た。
「先生が言ってた。『全部を守ろうとするな。守る場所を絞れ』って。それ、このことだったのか」
「まさにそうだと思います。カーラ先生は理論を、実戦の言葉に変換して教えてくださっていたんですね」
ノートに書いた。「障壁の強度=マナ密度。面積を絞れば密度が上がる。先生:守る場所を絞れ」
先生の言葉が、フィンの説明でまた一つ、形を変えて甦った。先生はいつも正しいことを言っていた。ただ、わたしがその理由を知らなかっただけだった。
「フィン」
「はい?」
「先生の教えをフィンの言葉で聞くと、先生の言葉の新しい意味が見えてくる。先生が教えてくれたことを、フィンにもう一回教えてもらってる感じ」
フィンが一瞬、何か言おうとして、黙った。それからノートに目を落として、小さく言った。
「光栄です。——カーラ先生の教えの翻訳家が務まるなら、僕にとってこれ以上のことはありません」
真面目な声だった。冗談じゃなくて、本気で嬉しそうだった。
日が暮れて、図書室を出た。
廊下の窓から、王都の夜景が見えた。無数の明かりが、星のように散らばっている。
「もうこんな時間」
「毎回こうですよね」フィンが苦笑した。「始めると、時間が分からなくなる」
「楽しいから」
「はい。楽しいです」
フィンの声が、旅の途中で聞いていた声と同じだった。でも、少しだけ違う。旅の時はどこか焦っていた。追いつかなきゃ、負けたくない、という緊張があった。
今は——もう少し穏やかだった。隣にいることが当たり前になりつつある声。
「ユノさん」
「うん?」
「僕たち、いつの間にか毎日ここにいますね」
「うん。いつの間にか」
「旅の途中では、毎日一緒にいるのは当たり前でした。でも王都に着いて、試験を受けて、入学して——別々の道になる可能性もあった。それなのに、また毎日一緒にいる」
「縁があるんだね」
「縁、ですか」フィンが少し考え込んだ。「理論的には——」
「フィン」
「はい?」
「縁は理論で説明しなくていいよ」
「……それもそうですね」
二人で笑いながら、廊下を歩いた。フィンは校門から宿に帰り、わたしは寮に戻る。毎日同じ分かれ道。
「また明日」
「はい。また明日」
フィンが門の方に歩いていった。背中を見送った。旅の途中の、街道を一緒に歩いていた背中より、少しだけ背筋が伸びている気がした。
寮に戻ると、ミレーヌが教科書を読んでいた。最近はもう「おかえり」と言ってくれるようになった。
「おかえり。今日も遅かったのね」
「うん。フィンと勉強してた」
「毎日やってるわね、あの子と」
「教え合ってるの。フィンが理論を教えてくれて、わたしが実技を教える」
「……よく続くわね」
「楽しいから」
ミレーヌがちらりとこちらを見た。何か言いたそうにしたけど、やめた。いつものミレーヌだ。
ベッドに座って、今日のノートを見返した。
三週間前のノートは、印だらけだった。分からない言葉に片っ端から印をつけたノート。今は印が減ってきている。フィンに教わった言葉が、少しずつ先生の言葉と繋がってきている。
フィンのノートも見せてもらったことがある。理論がぎっしり書いてあるノートの端っこに、わたしが言った言葉がメモしてあった。「水を注ぐように」「マナは踊らせる」「邪魔するな」。先生がわたしに教えてくれた言葉が、フィンのノートに住み始めている。
わたしの中に先生の教えがあって、それをフィンに渡して、フィンがそれを理論の言葉に翻訳して、わたしに返してくれる。そうすると、先生の教えがもう一回、新しい姿で見えてくる。
不思議な循環だった。先生がくれたものが、フィンを通ってわたしに戻ってくる。戻ってくる時には、ちょっとだけ形が変わっている。でも中身は同じ。先生の教えだ。
——先生、フィンっていう子がいるんです。前にも話しましたよね。理論がすごくできて、でも実技は苦手で、わたしと正反対の子。
天井を見上げた。
——最近、毎日一緒に勉強してます。フィンがわたしに理論を教えてくれて、わたしがフィンに実技の感覚を教える。先生の言葉をフィンに教えると、フィンがそれを理論の言葉に翻訳してくれるんです。そうすると先生の教えの意味が、もっとはっきり見えてくる。
目を閉じた。
——今日、フィンが複合術式を十三秒維持しました。旅の途中は一瞬だったのに。すごく嬉しかったです。自分のことみたいに。
旅の途中でフィンに出会った時、わたしたちは「一緒に旅をする人」だった。王都に着いて「一緒に試験を受ける人」になった。入学して「同じ学校の生徒」になった。
そして今は——「教え合う仲間」。
旅の同行者から、勉強仲間へ。少しずつ、関係が変わっている。でも根っこにあるものは同じだと思う。旅の途中でフィンが「来てほしいんです」と言った時の、あのまっすぐな目。今も変わらない。
——先生、友達がいるって、こういうことなんですね。谷ではルッツとレイスしかいなかったから、よく分かってなかったかも。
フィンは友達だろうか。友達と呼んでいいのかな。「教え合いの相手」? 「元旅の仲間」? なんて呼べばいいのか分からないけど、フィンがいてくれて助かっているのは確かだった。フィンがいなかったら、教科書の言葉にまだ溺れていたと思う。
そして多分、フィンもそう思ってくれている。フィンがいなかったら、わたしの「踊る」も「水を注ぐ」も、ただの独り言で終わっていた。
半分ずつ。お互いの半分を持っていて、教え合って、少しずつ埋めていく。
それが——なんだか、すごくいい。
第1話 了