ユノ・フェルティアの物語

第四章「二つの場所」

第2話「銀鋼の剣」


 きっかけは、実技の授業だった。

 その日は個別の剣術審査だった。入学から一ヶ月が経って、ブラント教官が生徒一人ひとりの進捗を確認する日。訓練場の端に並んで順番を待ちながら、わたしは短杖を握ったり離したりしていた。

 順番が来た。

「ユノ・フェルティア。剣術の型を見せてみろ」

 ブラント教官が腕を組んで立っている。短く刈り上げた灰色の髪、太い首。声も太い。でも目は冷静で、生徒の動きをきちんと見る人だ。

 木剣を手に取った。学校の備品の、少し重い木剣。

 型を流した。入学してからずっと練習していた学校統一の基本型。先生の型とは違うけど、一ヶ月でだいぶ馴染んできた。足の運び、剣の角度、身体の回転。ぎこちなかった部分が少しずつ滑らかになっている。

「——ふむ。最初の週とは別人だな」

 ブラント教官がうなずいた。

「基本型はそれでいい。次、自由演技。自分の得意な型を見せてみろ」

 自由演技。

 わたしは木剣を置いて、腰の長剣に手をかけた。

 先生の剣。銀鋼の長剣。

 鞘から抜いた瞬間、空気が変わった。

 訓練場の光が刀身に流れた。薄い青みを帯びた銀色。磨き上げた鏡のような光沢。刃には一点の曇りもない。先生が毎晩手入れしていたように、わたしも毎晩手入れしている。

 型を始めた。先生に教わった宮廷式剣術の型。

 一手目。踏み込んで、斬り上げ。先生が「力は足から入れろ」と言った動き。

 二手目。半歩下がって、横薙ぎ。「間合いは引いてから作れ」。

 三手目。回転して、突き。「突きは呼吸を合わせろ」。

 身体が覚えている。型を流すたびに、先生の声が聞こえる気がする。

 最後の一手。頭上から振り下ろして、止める。銀鋼の刃が、空気を切った余韻を残して静止した。

 静かだった。

 周囲の生徒が黙っていた。ブラント教官も、数秒、何も言わなかった。

「……見事だ」

 教官が短く言った。

「宮廷式の本流だな。剣に関しては言うことがない。以上」

 剣を鞘に収めた。列に戻る。

 視線を感じた。何人もの目がわたしを——正確には、わたしの腰の剣を見ていた。


 昼休み。食堂に行く途中で、声をかけられた。

「ねえ、あなたの剣、見せてくれない?」

 振り向くと、同級生の女の子が立っていた。巻き毛の金髪を高い位置で結んだ、背の高い子。名前は——エルマ、だったと思う。貴族の家の子で、いつも三人くらいのグループでいる。

「剣?」

「さっきの授業で使ってた剣。すごく綺麗だったから、近くで見たいなって」

 悪意はなさそうだった。本当にただ見たいだけの顔をしている。

 剣を腰から外して、鞘ごと差し出した。エルマが受け取って、鞘を少しだけ引いて刀身を覗いた。

「わ……きれい。この色、もしかして——」

「銀鋼よ」

 エルマのそばにいた別の子が言った。黒い髪をまっすぐに下ろした、目の鋭い子。アーデルハイト。確か伯爵家の子だ。

「銀鋼って、マナを通す合金でしょ? 王都の名工房でしか作れないやつ。すごく高い」

「……え、そうなの?」

「知らないの? 銀鋼の武器なんて、騎士団の上位か宮廷の魔術師くらいしか持ってないわよ。それも王都の工房に特注で作らせたもの」

 アーデルハイトの目がわたしに向いた。冷たいわけではないけど、品定めするような目。

「あなた、どこの出身だっけ」

「ルーアの谷です。アーヴェリアの南東の——」

「知ってる。田舎の小さな村でしょう。なんでそんなところの子が銀鋼の剣を持ってるの?」

 周囲の空気が少し変わった。エルマが「アーデルハイト」と小さくたしなめたけど、アーデルハイト自身は別に意地悪で言っているわけではなさそうだった。ただ、不思議で、聞いているだけ。

「先生の形見です」

 わたしはそう答えた。

「先生?」

「わたしの師匠の。亡くなった時に、いただきました」

 アーデルハイトの眉がぴくりと動いた。

「師匠って、入学書類に書いてあった——カーラ・ヴェルト?」

「はい」

 空気がまた変わった。エルマが目を丸くした。アーデルハイトは何か考え込むように黙った。

「……宮廷最強の、カーラ・ヴェルト。あの方の剣なの、これ」

「先生は宮廷最強とか、そういうのは——」

「事実よ。先王に仕えた最強の宮廷魔術師にして剣士。教科書にも載ってる。その人の剣が、銀鋼の名剣が、どうしてあなたのところに」

「だから、形見です。先生が使っていた剣を、いただいたんです」

 わたしはできるだけ普通に答えた。特別なことは何も言っていない。先生の剣を先生からもらった。それだけだ。

 でもアーデルハイトの表情は複雑だった。理解と疑念と、もしかしたら少しの羨望が混ざったような顔。

「……ふうん」

 それだけ言って、アーデルハイトは踵を返した。エルマが「ごめんね」と小声で言って、剣を返してくれた。

 剣を腰に戻した。

 先生の剣だ。わたしが持っている理由は「先生がくれたから」。それ以上の説明は必要ないし、する気もない。


 食堂で、噂が広がっているのが分かった。

「あの子、銀鋼の剣持ってるんだって」

「カーラ・ヴェルトの形見なんでしょ? 本物?」

「本物に決まってるでしょ、ブラント教官が何も言わなかったんだから」

「でも変じゃない? 田舎の平民の子が宮廷最強の形見って」

「カーラ・ヴェルトの弟子なんだから、別に変じゃないでしょ」

「弟子っていうのも本当かどうか」

 聞こえてきた。わざと聞こえるように話しているわけではないと思う。ただ、食堂は声が響く。

 フィンがトレイを持ってわたしの向かいに座った。

「気にしなくていいですよ」

「気にしてない」

「顔が少し硬いです」

「……そう?」

 パンをちぎった。確かに、少しだけ、心臓のあたりがもやもやしている。

 先生の剣のことを知らない人たちがあれこれ言うのは、まあ仕方ない。でも——「本当かどうか」とか言われると、胸のどこかが小さくちくっとする。

「ユノさん」

「うん?」

「カーラ先生がユノさんにあの剣を遺したのは、ユノさんが先生の弟子だったからです。それ以上の理由なんかありません。他の人が何を言っても、事実は変わらない」

 フィンの声は穏やかだったけど、はっきりしていた。いつもの理論を説明する時と同じ、迷いのない声。

「……うん。ありがとう」

「僕は事実を言っているだけです」

 スープを飲んだ。温かくて、少し塩気が強い。先生のスープのほうがおいしいけど、これはこれで悪くない。


 午後の授業が終わって、図書室に向かう途中で、レイスに会った。

「ユノ、聞いたぞ。なんか剣のことで噂になってるって?」

「別に大したことじゃないよ」

「銀鋼の剣は目立つからな。仕方ないっちゃ仕方ないけど」

 レイスが廊下の窓際に寄りかかった。前の学年の制服を着て、腕を組んでいる。谷にいた頃より少し大人びた顔。でも目は昔と同じ。

「おれからも言えることがあるとしたら——ユノがあの剣を持っているのは、カーラ先生が渡したからだ。それだけだ。ルーアの谷で一緒に育った幼なじみとして言うけど、ユノはカーラ先生のただ一人の弟子で、先生が一番大事にしていた人だ」

「レイス——」

「おれは知ってるからな。先生がどれだけユノのことを大事にしていたか。谷にいた頃から見てきた。だから誰に何を聞かれても、おれはそう答える」

 レイスの声は力強かった。こういうところは、谷にいた頃のレイスと同じだ。まっすぐで、嘘がない。

「ありがとう。でも大丈夫だよ。別に気にしてないから」

「本当に?」

「うん。先生の剣を馬鹿にする人はいなかったし。みんなただ不思議に思ってるだけ。不思議に思うのは当然だと思う。わたしだって、逆の立場だったら気になると思うし」

 レイスが少し笑った。

「相変わらずだな、おまえは。ま、何かあったら言えよ。先輩として、動けることもあるからな」

「うん。ありがとう」

 レイスが手を振って去っていった。

 廊下の窓から外を見た。中庭に夕日が差していた。石畳の上に生徒たちの影が長く伸びている。

 噂は、多分しばらく続くだろう。でも噂はいつか消える。それより大事なのは、先生の剣をちゃんと使えるようになること。先生がこの剣を持って宮廷に立っていた時のように、わたしもこの剣に恥じない自分にならないと。

 ——先生、剣のことでちょっと話題になってます。先生の剣が銀鋼だって、みんな驚いてました。先生はそんなこと一度も言わなかったですよね。「昔のもの」としか。

 心の中で笑った。先生はいつもそうだった。大事なことを、さりげなく、何でもないことのように言う。


 フィンとの勉強の後、寮に帰らずに学校の門を出た。

 夕暮れの王都を歩いた。大通りから脇道に入って、石畳が土に変わる辺りから庶民地区。最近はもう迷わない。通い慣れた道を、足が覚えている。

 市場はもう店じまいを始めていた。木の台の上の野菜が片づけられて、布が畳まれていく。日没前の忙しい時間帯。

「おう、蕪の嬢ちゃん。遅かったな今日は」

 八百屋のおじさんが声をかけてきた。日に焼けた顔に白い歯。名前はゲルト。毎週来るうちに、名前を覚えた。

「学校で色々あって」

「色々? 勉強か?」

「勉強……まあ、それもあります」

「頑張ってるなあ。ほれ、蕪の端っこ、今日はおまけしてやるぞ」

 蕪を一つ渡された。小さめの、白い蕪。先生のスープに入っていたのと同じ大きさ。

「ありがとうございます」

「買ってくれるのがありがたいのはこっちだ。学生さんは貴重なお客だからな」

 市場の端のベンチに座った。蕪をかじった。甘くて、少し土の味がする。

 ここでは、剣のことなんか誰も気にしない。銀鋼がどうとか、カーラの弟子がどうとか、そんなことはこの場所では全く意味がない。ゲルトはわたしを「蕪の嬢ちゃん」としか呼ばないし、パン屋のおかみはいつも「今日は何にする?」と聞くだけだし、路地で遊んでいる子供たちはわたしの名前すら知らない。

 それが心地よかった。

 学校ではわたしは「カーラ・ヴェルトの弟子」で、「銀鋼の剣を持つ平民の子」で、「規格外の特別枠」。どこに行っても先生の名前がついてくる。それが嫌なわけではない。先生の弟子であることは誇りだ。でも——時々、重い。

 ここでは何もついてこない。蕪を買って、パンを買って、広場で猫を撫でて帰る。ただそれだけの時間が、わたしを楽にしてくれる。


 市場を抜けて、職人街を歩いた。

 鍛冶屋の前を通った。かんかん、という金属を打つ音。谷のルッツの鍛冶場と同じ音。でもここの鍛冶屋は、ルッツのお父さんよりもずっと大きな男の人で、打っているのは農具じゃなくて馬の蹄鉄だった。

「——おや、嬢ちゃん。また来たのか」

 鍛冶屋のハンスが火の前から顔を上げた。赤い顔に太い眉。腕は丸太みたいに太い。

「こんばんは」

「学校帰りか。腰のそれ、今日も持ってるな」

「はい」

「一度見せてもらえないか。前から気になってたんだ」

 鍛冶屋の目が剣に向いていた。職人の目だ。クレスの鍛冶屋と同じ——金属を見る目。

 剣を鞘から抜いて、差し出した。ハンスが手を拭いてから受け取った。

「——ほう」

 低い声が出た。

 刀身を光に透かして、表面を指の腹で撫でた。刻印を覗き込んで、重さを確かめるように何度か振った。

「銀鋼だな。しかも王都工房の上物だ。この刻印は……二十年以上前の作か。だがマナの通りが全く衰えていない。手入れが行き届いている」

「毎晩、油を塗ってます」

「それは見れば分かる。だが嬢ちゃん、この剣の手入れを教えたのは誰だ? 銀鋼の手入れは普通の鉄とは違う。マナを含んだ油で、特定の方向に——」

「先生に教わりました」

「先生か。この剣の元の持ち主だろうな。相当な使い手だ。刃の減り方を見れば分かる。この剣は——数え切れないほど振られている。だが損耗が少ない。それは使い方が正しいからだ」

 ハンスがゆっくりと剣を返してくれた。

「大事にしろよ。これは名剣だ。職人として言うが、この剣を作った工房の腕前は最上級だし、この剣を振った人間の腕前も、な」

「……はい」

「嬢ちゃんにはまだ少し重いだろうが、身体が育てば合うようになる。それまで、毎晩ちゃんと手入れしろ。剣は生きてるからな」

「はい」

 剣を鞘に収めた。

 学校では「なぜ持っているのか」を聞かれた。ここでは「どんな剣なのか」を見てもらえた。同じ剣なのに、向けられる目が違う。

 ハンスの目は、剣そのものを見ていた。誰が持っているかではなく、剣が何であるかを。

 それがすごく嬉しかった。


 帰り道、広場を通った。

 噴水のそばのベンチに座って、空を見上げた。もう暗くなりかけていて、東の空に星が二つ光っている。

 先生の剣は、銀鋼の名剣だ。クレスの鍛冶屋にもそう言われたし、ハンスにもそう言われた。学校では合格の時にエドムント先生も「立派な剣だ」と言っていた。

 わたしにとっては、先生の剣だ。先生が毎晩手入れしていた剣。壁にかけてあった剣。魔物の狼を一振りで斬った剣。先王に仕えた時代から持っていた剣。

 価値がどうとか、銀鋼がどうとか、そういうことじゃない。

 先生がわたしに遺してくれた、たった一つのもの。魔導書の手帖と、短杖と、この剣。先生が宮廷にいた頃から持っていた剣を、わたしに。

 ——先生は、わたしがこの剣を使いこなせるようになると思ったから、遺してくれたんだと思う。

 先生は根拠のないことを言わない人だった。「お前の最高の弟子だ」と言ったのも、きっと本当にそう思ったから。この剣を遺してくれたのも、わたしがこの剣にふさわしい使い手になれると思ったから。

 まだ、なれていない。ハンスも言っていた——まだ少し重い。先生が振っていた時のような、あの完璧な一振りにはほど遠い。

 でもいつか。いつか、この剣が自分の腕の延長みたいになる日が来るかもしれない。先生がそう思ってくれたなら、きっとなれる。

 ——先生、剣、大事にしてます。毎晩手入れしてます。先生みたいに上手には振れないけど、少しずつ近づいてると思います。

 ——街の鍛冶屋さんに見てもらいました。「名剣だ」って言ってくれました。先生の剣を褒めてもらえて、なんだか自分のことみたいに嬉しかったです。

 立ち上がった。もう暗い。寮に帰らないと。


 寮に戻ると、ミレーヌが机に向かっていた。

「遅い」

「ごめん、街に行ってた」

「また市場?」

「うん。あと、鍛冶屋さんに剣を見てもらった」

 ミレーヌの視線がちらっとわたしの腰に向いた。

「……今日の授業の剣、あれが噂の銀鋼?」

「うん」

「見ただけで分かるわよ。刀身の色が全然違うもの。うちの家にも一本だけ銀鋼の短剣があるけど、あんな長剣は見たことない」

「ミレーヌの家にも銀鋼があるの?」

「祖父が騎士だったから。でもあれは飾り物よ。実戦で使うものじゃない」

 ミレーヌが教科書から目を上げた。

「あなたの剣は違う。あれは飾り物じゃない。実戦で使い込まれた剣よ。見れば分かる」

「うん。先生がずっと使ってた剣だから」

「……カーラ・ヴェルトの実戦用の剣。あんなもの持ってたら、そりゃ話題になるわよ」

 ミレーヌの声には非難はなかった。ただ事実を述べている、いつもの調子。

「気にしてる?」

「別に。噂はしばらくしたら消えるよ」

「そうね。実力で黙らせれば一番早いけど」

「それが一番難しい」

「……そうね」

 ミレーヌが少しだけ笑った。最近はこの「少しだけの笑い」が増えてきた。

 ベッドに座って、今日のノートを開いた。フィンとの勉強の記録。属性の抑制関係について、フィンが描いてくれた図をノートに写した分。

 ふと、剣のことを考えた。

 学校では、銀鋼の剣が「おかしい」と見られる。田舎の平民が持つものじゃないと。それは事実かもしれない。普通なら、こんな剣はわたしのような子供の手に渡らない。

 でも、先生は普通の人じゃなかった。先生は宮廷最強と呼ばれた人で、先王の戦友で、それでいてルーアの谷でスープを煮て子供を育てた人だった。「普通」なんて言葉は、先生には合わない。

 だから、先生の弟子であるわたしが銀鋼の剣を持っていることも、「普通」じゃなくていい。

 先生がくれたものを、先生がくれた通りに受け取る。それだけでいい。

 学校で何を言われても、街で何も言われなくても、この剣はわたしの剣だ。先生の形見で、先生の想いで、わたしの誇り。

 分かってもらえなくてもいい。でも、馬鹿にされるのだけは許さない。

 幸い、今日は馬鹿にする人はいなかった。不思議がる人はいたけど、それは仕方ない。

 フィンは「事実を言っているだけ」と言ってくれた。レイスは「おれが知ってる」と言ってくれた。ハンスは剣そのものを見てくれた。ミレーヌは「実力で黙らせろ」と言ってくれた。

 それぞれの言い方で、みんなわたしの味方をしてくれた。——味方というのは大げさかもしれないけど。

 ——先生、わたし、一人じゃないみたいです。

 天井を見上げた。寮の天井は木ではなく石だ。谷の家の天井とは全然違う。

 でも、ここもわたしの場所だ。


第2話 了