ユノ・フェルティアの物語
第四章「二つの場所」
第3話「王都の人々」
休日の朝は、足が勝手に南に向かう。
寮を出て、校門をくぐって、大通りを南に下る。石畳が土に変わって、建物が低くなって、干し物が窓から垂れ下がる辺りから——ここが庶民地区だ。もう三回目の休日。足が道を覚えている。
今日は特に目的はなかった。市場を覗いて、パンを買って、広場でぼんやりするつもりだった。
市場に着いたら、ゲルトがいつも通り店を広げていた。
「おう、蕪の嬢ちゃん。今日は早いな」
「休みの日だから」
「学校が休みの時しか来ないもんな。平日も来いよ、夕方は安くしてやるから」
「平日は放課後に勉強があるから」
「勤勉だなあ。学校ってのは大変だな。おれは行ったことないから分からんけど」
ゲルトが笑いながら蕪を一つ差し出した。今日のは前のより大きい。
「今日のは立派なやつだ。三日前に入ってきた畑物」
「いくらですか」
「嬢ちゃん価格で銅貨二枚」
銅貨を渡した。蕪を袋に入れてもらう。
「なあ嬢ちゃん、今日は南の通りのほうに行ってみろよ。今日、季節の市が出てるはずだ」
「季節の市?」
「春の市だ。南門の広場で年に二回やるんだ。露店がたくさん出て、賑やかだぞ。学生さんが行っても楽しいと思うぞ」
「行ってみます。ありがとう」
南の通りを歩いた。
庶民地区の中でも、さらに南。建物がさらに低くなって、道が細くなる。路地の壁に洗濯物がかかっていて、鶏が道を横切る。谷の村を思い出す匂い——土と、動物と、煮炊きの煙。
路地の角を曲がったところで、声が聞こえた。
「——だめだよ、もう壊れてるんだってば」
「壊れてない! まだ使える!」
子供の声だった。
路地の奥に、三人の子供がしゃがみ込んでいた。八つか九つくらいの男の子が二人と、もう少し小さい女の子が一人。三人とも服が汚れていて、膝が擦りむいてある。路地の子供たちだ。前にもこの辺りで遊んでいるのを見たことがある。
三人の前に、壊れた玩具があった。木の車輪がついた小さな馬車——の、車輪が一つ取れている。
「お姉ちゃん、直せる?」
女の子がこちらを見上げた。わたしの顔を覚えているらしい。前に広場で会った時に、蕪を一切れ分けてあげた子だ。
「見せて」
しゃがんで、壊れた馬車を手に取った。車軸が折れている。木の軸がぽきっと真ん中で割れていて、車輪がはまらなくなっている。
「これは——木の軸が折れちゃってるから、新しい軸がないと」
「新しいのなんかないよ。お金もないし」
男の子の一人が肩を落とした。
壊れた車軸を見つめた。木の棒が折れただけだ。でも子供たちにとっては大事な玩具だ。谷ではルッツが何でも直してくれた。壊れた柵も、壊れた桶も、壊れた玩具も。
先生も直してくれた。魔術で。
「ちょっと待って」
車軸の折れた断面を合わせた。ぴったり合う。断面が新しいから、折れたばかりだ。
——先生が教えてくれた方法。物を壊すのに魔術を使うのは簡単だけど、直すのは難しい。でも木なら。繊維を元の位置に戻して、マナで圧着する。先生は「力ずくで繋げるんじゃない。元の形を思い出させてやるんだ」と言っていた。
マナを指先に集中させた。折れた断面にそっと流し込む。木の繊維一本一本に、元に戻る道を教えるように。ゆっくり。丁寧に。
ぱちっ、と小さな音がした。
手を離した。車軸が繋がっていた。完全ではないけれど、車輪を支えるくらいの強度はある。
「……直った?」
「うん。でも強く引っ張ったらまた折れるから、気をつけてね」
車輪をはめ直した。馬車が転がる。子供たちの目が丸くなった。
「すごい! お姉ちゃん魔術使えるの!?」
「少しだけ」
「すっげえ! 魔術師だ!」
「魔術師っていうほどじゃ——」
「ありがとうお姉ちゃん!」
女の子が馬車を抱えて走っていった。男の子たちも追いかけていく。路地に笑い声が響いた。
立ち上がって、少し笑った。
学校で教わる魔術は、術式の構造、マナの効率、属性の分類。大事なことだと思う。でも、今やったことのほうが——先生が教えてくれた魔術に近い。壊れたものを直す。困っている人を助ける。先生はいつもそうだった。近所の柵が壊れたら直してあげて、バレン先生の薬を温めてあげて、凍った井戸の水を溶かしてあげた。
先生の魔術は「人の役に立つ」魔術だった。
学校の術式も、いつかこういうふうに使えるようになりたい。
南門の広場は、ゲルトの言った通り賑やかだった。
普段はただの広い空き地に、今日は露店がずらりと並んでいる。布や革の天幕の下に、春の品物が山盛りだ。新芽の野菜、春の花、蜂蜜、手編みの籠、木彫りの人形、色とりどりの染め布。
匂いがすごかった。花の甘い匂い、蜂蜜の濃い匂い、焼き菓子の香ばしい匂い、革のにおい。全部が混ざって、鼻の中がいっぱいになる。
人も多かった。家族連れ、老夫婦、子供たちの集団、荷物を担いだ商人。声が重なって、市場のざわめきとも違う独特の賑わい。祭りの日みたいだ。谷には祭りがなかったから、こういう空気は初めてかもしれない。
露店を一つずつ覗いて歩いた。
蜂蜜の露店。小さな壺に詰められた蜂蜜が並んでいる。琥珀色のと、少し白っぽいのと、濃い茶色のと。
「これ、色が違うのはどうしてですか?」
「花が違うのさ。こっちがれんげ、こっちが山桜、こっちがそばの花。味も違うよ、舐めてみな」
小さな匙でれんげの蜂蜜を舐めた。甘くて、少し花の味がする。先生が谷で養蜂家からもらってきた蜂蜜と似ている。
「おいしい」
「だろう? うちのは混ぜ物なしだからな」
小さい壺を一つ買った。これは寮に持って帰って、パンに塗って食べよう。ミレーヌにも分けてあげようかな。
木彫りの人形の露店。手のひらに乗る大きさの動物の彫り物が並んでいる。猫、犬、馬、鹿、鳥。
「これ、全部手で彫ってるんですか」
「そうだよ。うちのじいさんが一個ずつ彫ってる。六十年やっとるんだ」
猫の彫り物を一つ手に取った。丸まって眠っている猫。背中の毛の流れまで彫ってある。広場にいる猫に似ている。
「これ、いくらですか」
「銅貨五枚」
買った。これはどうしよう。机の上に飾ろうか。
広場の端のベンチに座って、買ったものを眺めた。蜂蜜の壺と猫の彫り物。二つだけ。大した買い物じゃない。
でも楽しかった。
先生と谷にいた頃は、買い物は先生と一緒だった。年に二回、マリアの店に行って、日用品と調味料と本を買う。それ以外にお金を使うことはほとんどなかった。
王都では、自分のお金で自分の欲しいものを買える。入学時にレイスが教えてくれた。学校から支給される生活費の中で、必需品以外にも少しだけ余裕がある。「たまには自分のために使え」と。
猫の彫り物を手の中で転がした。先生はこういうものを買わない人だった。無駄なものは買わない。でも——先生が唯一「無駄」に持っていたものがある。窓辺に置いてあった、小さな石。川底で拾った、丸い石。何にも使えない、ただの石。でも先生はそれを捨てなかった。
「先生にも、そういうとこあったんですよね」
声に出して呟いてから、慌てて口を閉じた。一人で喋ってた。
広場を出て、さっきの路地を通りかかった。
子供たちがまだ遊んでいた。直してあげた馬車を走らせている。車輪が石畳の上をごろごろ転がる音。
「あ、お姉ちゃんだ!」
女の子が駆けてきた。
「ねえねえ、お姉ちゃん、名前なんていうの?」
「ユノだよ」
「ユノお姉ちゃん! あのね、馬車ちゃんと動いてるよ!」
「よかった。でも気をつけてね、強く引っ張ったらだめだよ」
「うん!」
男の子たちも寄ってきた。
「お姉ちゃん、魔術師なんでしょ? 他にもできるの?」
「うーん。何ができるかな」
「火! 火出せる?」
「出せるけど、ここで出したら危ないよ」
「えー。じゃあ風は?」
指先からそよ風を出してみせた。女の子の髪がふわっと揺れた。
「わあ!」
「すっげー!」
「もっとやって!」
つい、しばらく付き合ってしまった。風で落ち葉を舞い上げたり、手のひらの上で小さな光を灯したり。先生が谷でわたしにしてくれたのと同じことを、今度はわたしが子供たちにしている。
「ユノお姉ちゃん、また来てね!」
「うん。また来るよ」
「約束だよ!」
「約束」
手を振って路地を出た。
胸のあたりが少しだけ温かかった。名前を呼んでもらえた。「ユノお姉ちゃん」。先生の名前なんか関係なく、ただのユノとして。
帰り道、パン屋に寄った。
「あら、今日も来たの。いつものでいい?」
おかみのマルタが声をかけてくれた。丸い顔に赤い頬。いつもエプロンが白い粉だらけだ。
「はい。丸パンを二つ」
「はいよ。今日は焼きたてがあるよ。ほれ、まだ温かい」
紙に包んだパンを受け取った。確かに温かい。焼きたての匂いが鼻をくすぐる。
「おかみさん、ここのパン、いつもおいしいです」
「あら嬉しいこと言うね。うちのパンは王都で一番安くて二番目にうまいからね」
「一番はどこですか」
「知らない。でも一番って言うと嘘になりそうだから、二番にしとくの」
笑ってしまった。マルタはこういう人だ。大げさなことは言わない。嘘もつかない。でも冗談は言う。
「ねえあんた、学校の子でしょ。最近ちょくちょく来るけど、友達は一緒じゃないの?」
「友達は……学校にはいるけど、街に一緒に来る感じではないかな」
「そう。まあ一人で歩くのも悪くないけどね。でもたまには誰か連れておいでよ。若い子が来ると店が明るくなるからさ」
「はい。そのうち」
パンを抱えて店を出た。
——フィンを連れてこようかな。でも、フィンは貴族の家の子だから、こういう場所は慣れていないかもしれない。前に「街に面白い場所がある」と話した時、フィンは「面白そうですね」と言いつつも、少し戸惑った顔をしていた。
貴族の子にとって、庶民地区は遠い場所なのかもしれない。わたしにとってはここのほうが近いのに。
学校に戻る途中、職人街の端を通った。
狭い路地の奥に、小さな工房があった。前を通るたびに気になっていた場所。木の看板に「修繕屋」と書いてある。
覗き込むと、白髪の老人が一人で座っていた。作業台の上に壊れた道具が並んでいる。鍋、鋏、椅子の脚、時計の部品。
老人が虫眼鏡で何かを見ている。時計の部品らしい。歯車を一つ一つ確認して、ピンセットで直している。
「こんにちは」
「おう。何か壊れたか」
「いえ、見てただけです。すみません」
「見てるだけなら勝手に見てろ。邪魔しなけりゃいい」
素っ気ない声だけど、追い払う気はないらしい。工房の入り口に立って、老人の作業を見ていた。
細かい手つきだった。歯車と歯車の噛み合わせを調整して、ばねを入れ替えて、ネジを締める。時計の中身が少しずつ元の姿に戻っていく。
「おじいさん、すごいですね。全部手で直すんですか」
「手以外に何で直すんだ」
「……確かに」
「魔術でちょちょいと直す奴もいるが、あれはいかん。形は戻っても中身が合っとらん。時計は精密だからな。一つずつ見てやらんと」
「一つずつ見る……」
「そうだ。壊れたもんには壊れた理由がある。理由を見つけずに形だけ戻しても、またすぐ壊れる」
ああ、と思った。
さっき路地で子供の馬車を直した時、わたしは「形を戻しただけ」だった。折れた車軸をマナで繋いだだけ。なぜ折れたのかは見ていない。もしかしたら木が乾燥していたのかもしれない。もしかしたら軸が細すぎたのかもしれない。
先生なら、きっと理由を見てから直した。
「おじいさん」
「なんだ」
「壊れた理由を見つけてから直す。それって大事なことですね」
「当たり前だ。修繕屋の基本だ」
老人が虫眼鏡から目を上げて、こちらを見た。しわだらけの顔に、鋭い目。
「お前、学校の子か」
「はい」
「魔術学校か」
「はい」
「ふん。魔術師ってのは何でもマナで片づけたがるが、手で直すことを覚えろ。手で直せるようになってから魔術を使え。順番が逆だと、手を抜く癖がつく」
「……はい」
老人はそれだけ言って、また時計に目を戻した。
工房を離れた。
壊れた理由を見つけてから直す。手で直せるようになってから魔術を使う。先生が教えてくれたことと同じだ。先生は魔術で何でもできる人だったけど、スープは手で作ったし、薪は斧で割ったし、畑は鍬で耕した。「魔術は楽をするためのものじゃない」と言っていた。
学校では魔術の使い方を教わる。でも街では、魔術を使わない生き方を見る。両方知っているほうが、きっと強い。
寮に帰って、フィンにそのことを話した。夕方の図書室で。
「今日、街で面白いことがあったの」
「どんなことですか?」
「子供たちの壊れた玩具を魔術で直してあげたんだけど、そのあと修繕屋のおじいさんに怒られた。『壊れた理由を見つけてから直せ』って」
「……それは正しいですね」フィンがうなずいた。「術式構築でも同じです。エラーが出た時に、エラーの原因を特定せずにパラメータだけいじっても、根本的な解決にはならない」
「フィン、それ、おじいさんの言葉と同じだよ。言い方が違うだけで」
「そうですか?」
「うん。先生も同じことを言ってた。『形だけ直すな。なぜ壊れたか見ろ』って」
フィンが少し考え込んだ。
「カーラ先生と、街の修繕屋さんと、魔術理論が同じ結論に行きつく。面白いですね」
「でしょ? 街にはそういう人がたくさんいるの。魔術は使えないけど、先生と同じようなことを知ってる人たち」
「……僕も、行ってみたいかもしれません」
え、と思った。
「前に話した時は、ちょっと戸惑ってたでしょ」
「それは——まあ、正直なところ、庶民地区というのに馴染みがなくて。僕はずっと、男爵家の屋敷と学校しか知らなかったので」
「うん」
「でもユノさんの話を聞いていると、そこには学校では得られないものがありそうです。知識と経験は別のものですから」
フィンの声は真面目だった。理論的な興味だけじゃない。本当に行ってみたいと思っている目をしていた。
「じゃあ今度の休みに、一緒に行こう」
「はい。ぜひ」
——先生、今度フィンを街に連れていきます。フィンはわたしと逆で、学校のことは何でも知ってるけど、街のことは全然知らないんです。わたしが案内します。
心の中で報告しながら、ノートを開いた。今日の勉強の続き。
学校と街。二つの場所。どちらにも、教えてくれる人がいる。先生がいなくなっても、世界にはたくさんの先生がいる。それが——少し、嬉しい。
第3話 了