ユノ・フェルティアの物語

第四章「二つの場所」

第4話「『カーラ先生の弟子』と『ユノ』」


 その日の実技は、応用術式の最初の授業だった。

 訓練場に並んだ生徒たちの前で、ブラント教官が説明した。

「今日から応用術式に入る。基本型を習得した上で、複合術式や応用展開を学んでいく。まずは基本の複合——火と風の二属性複合を見てもらう」

 教官が短杖を構えた。火球を出し、風を合わせる。火が風に乗って渦を巻き、拳大の炎の渦が訓練場の空中に浮かんだ。整った、教科書通りの複合術式。

「これが基本の火風複合だ。まず型を覚えてから、順序を追って練習していく。では——」

 教官の目がわたしに向いた。

「フェルティア。お前は複合術式ができると聞いている。やってみろ」

 前に出た。

 短杖を構えた——いや、短杖を下ろした。先生に教わった時、短杖は使わなかった。指先でマナを感じて、そのまま形にする。

 風を起こした。足元から吹き上がる、柔らかい風。先生が「風は下から立てろ」と言った風。

 火を混ぜた。風の中に火のマナを流し込む。踊らせる。波長が近い属性同士だから、自然に寄り添う。

 訓練場に小さな火の渦が生まれた。教官のものより少し荒い。でも大きい。そして——揺れている。固まっていない。生きている炎。

「……ふむ」

 教官が腕を組んだ。

「確かに複合はできている。だが——構え。型がない。短杖も使っていない。基本の構えから入っていない」

「はい。先生——師匠には、短杖なしで教わりました」

「それは分かっている。カーラ先生の教え方は型を先に教えない。身体で掴んでから型に落とし込む方法だ。だが、この学校では型を先に教える。フェルティア、お前は結果は出せるが過程が抜けている。型を修めてから応用に入れ」

「はい」

「急がなくていい。お前の実力は認めている。だからこそ、基礎を固めろ」

 列に戻った。

 周囲の視線を感じた。いつもの視線。「カーラの弟子」を見る目。感心と、少しの距離。


 昼休み、食堂でフィンと向かい合って食事をしていたら、後ろから声がかかった。

「フェルティアくん」

 振り返ると、ベーレンス教官が立っていた。魔術理論の授業を担当している、鋭い目の女性教官。黒い髪をきっちり結い上げていて、いつも背筋がまっすぐだ。

「ベーレンス教官」

「少し話がしたいの。食事が終わったら、教官室に来てくれる?」

「はい」

 教官が去った後、フィンが小声で言った。

「何でしょうね。成績のことでしょうか」

「分からない。怒られるのかな」

「ベーレンス教官はそういう呼び出し方はしませんよ。もっと直接的に言う人です」

 食事を終えて、教官室に向かった。


 教官室は三階の廊下の奥にあった。ノックすると、「入りなさい」とベーレンス教官の声。

 中に入ると、ベーレンス教官だけでなく、もう一人いた。白髪交じりの年配の男性。見覚えがある——属性学のヴァイデル教官だ。穏やかな顔、丸い眼鏡、いつも少し猫背。

「フェルティアくん、座りなさい」

 椅子に座った。二人の教官がわたしを見ている。ベーレンス教官は鋭い目で、ヴァイデル教官は穏やかな目で。

「呼び出して悪いわね。ヴァイデル教官がフェルティアくんと話したいと言ったの」

「わしが言い出したことでな。すまんね、フェルティアくん」

 ヴァイデル教官がにこにこ笑った。

「実は——今朝の実技の授業を、窓から見とったんだ。お前さんの複合術式を」

「はい」

「あれはカーラ先生の教え方だな」

 心臓がどきっとした。

「知ってるんですか」

「わしはカーラ先生と面識があるんだ。先生がここで特別講義をされた時、わしはまだ若い教官でな。先生の術式を見て、度肝を抜かれたのを覚えとる」

 ヴァイデル教官が目を細めた。遠い記憶を見ている目だ。

「カーラ先生の教え方は特殊だった。型を先に教えない。身体でマナの流れを掴ませてから、後付けで型を教える。逆張りだと批判する教官もおった。だが——間違いではなかった。いや、ある意味では正しかったと、わしは思っとる」

「正しかった……?」

「型を先に教えると、型に縛られる生徒が出る。マナの流れではなく、型の形を追いかけてしまう。カーラ先生はそれを嫌った。『マナは生きている。型に押し込めるな』とおっしゃっていた」

「先生が……」

 先生の言葉だった。先生がわたしに言っていたのと、同じ言葉。

「わしが見る限り、フェルティアくん、お前さんのマナの使い方はカーラ先生直伝だ。荒削りだが、マナが生きとる。型に閉じ込めていない。それは財産だよ」

 胸の奥が温かくなった。

「ただし」ベーレンス教官が口を開いた。「型がないことが弱点になる場面もある。応用は基礎の上に立つものよ。カーラ先生の教えと学校の型は矛盾しない。両方を身につけなさい」

「はい」

「お前さんの師匠は、わしにとっても尊敬する魔術師だ」ヴァイデル教官が立ち上がった。「カーラ先生の弟子が入学してきたと聞いた時は嬉しかったよ。——困ったことがあったら、いつでも聞きに来なさい」

「ありがとうございます」

 教官室を出た。廊下を歩きながら、息を吐いた。

 怒られるんじゃなかった。先生のことを知っている人が、先生の教え方を認めてくれた。

 嬉しかった。でも同時に、あの「カーラの弟子」という視線がまた増えるのだろうな、とも思った。


 放課後。フィンとの勉強の後、街に出た。

 今日は一人じゃなかった。フィンが一緒だった。

「ここが庶民地区ですか」

 フィンが辺りを見回した。石畳から土の道に変わったところで、少し戸惑った顔をしている。建物が低くて、洗濯物が垂れ下がっていて、鶏が道を横切る。

「うん。最初はびっくりするかもしれないけど、慣れるよ」

「びっくりは——しています。学校の周辺とは全然違いますね」

「それがいいんだよ」

 市場に連れていった。もう夕方だから、半分くらいの店は畳んでいたけど、残っている店もある。

「おう、蕪の嬢ちゃん。今日は連れがいるじゃないか」

 ゲルトが目を丸くした。

「友達です。フィンっていいます」

「フィン・ノルデンです。よろしくお願いします」

 フィンが丁寧にお辞儀した。ゲルトが笑った。

「おお、礼儀正しいな。学校の友達か。蕪買うか?」

「えっと——」

「フィン、蕪おいしいよ」

「では、一つ」

 フィンが銅貨を出して蕪を受け取った。きょとんとした顔で蕪を見ている。多分、蕪を自分で買ったのは初めてなんだと思う。

 パン屋に寄った。マルタが「あら、今日は二人!」と喜んだ。丸パンを三つ——一つはミレーヌの分——買って、フィンと二人で広場のベンチに座った。

 フィンがパンをかじった。

「……おいしいですね」

「でしょ」

「学校の食堂のパンとは全然違います。こっちのほうが素朴で——なんというか、温かい」

「焼きたてだからね」

 フィンが広場を見回した。子供たちが走り回っている。猫が塀の上で昼寝をしている。井戸のそばでおばさんたちが話をしている。

「ユノさん、ここでは誰もユノさんのことを『カーラの弟子』と呼びませんね」

「うん。ここではわたしは『蕪の嬢ちゃん』か『ユノお姉ちゃん』」

「それが——心地いいんですか」

「うん。すごく」

 フィンが少し黙った。パンをかじりながら、何か考えている。

「僕は、ノルデン男爵家の嫡男です。学校でも、それは知られている。『ノルデンの子息』と呼ばれることもあります」

「うん」

「でもここでは、誰も僕のことを男爵家の子だとは思わないでしょう」

「思わないと思う。ゲルトは多分、フィンが貴族だって気づいてないよ」

「……不思議な気分です」

 フィンが蕪を見つめた。

「自分が何者でもない場所。名前も肩書きもなくて、ただ蕪を買った男の子。——これが、ユノさんがこの場所を好きな理由ですか」

「多分、そう。学校では先生の名前がついてくる。ここでは何もついてこない。両方あるから、息が詰まらない」

「なるほど」

 フィンが小さくうなずいた。

「僕にも、こういう場所が必要かもしれません」


 帰り道。大通りに戻る途中で、フィンが言った。

「今日、ありがとうございます。連れてきてくれて」

「楽しかった?」

「はい。学校では絶対に見られない世界でした」

「また行こう」

「はい。——ところで蕪は、どうやって食べるんですか」

「えっ」

「生で食べていいものなんですか?」

「フィン、蕪を食べたことないの?」

「男爵家の食卓には、蕪はあまり……」

「皮をむいてそのまま食べてもいいし、スープに入れてもおいしいよ。先生はよく蕪のスープを作ってくれた」

「蕪のスープ……」

「今度作ってあげようか。寮の厨房、借りられるかな」

「ぜひお願いします」


 寮に戻った。

 ミレーヌにパンを渡した。

「ありがとう」

「マルタさんのパン。焼きたて——だったけど、もう冷めちゃったかも」

「まだ少し温かいわ」

 ミレーヌがパンをちぎった。

「今日はフィンと出かけてたの?」

「うん。街を案内した」

「あの子、庶民地区に? 似合わなさそうね」

「最初は戸惑ってたけど、パンがおいしいって言ってた」

「……そう」

 ミレーヌが少し考え込むような顔をした。

「あなたって、不思議な子ね」

「え?」

「学校では浮いてるのに、街の人とはすぐ仲良くなる。フィンみたいな男爵家の子も連れ出すし。人を引っ張る力があるのかもね」

「引っ張る力なんかないよ。ただ——好きな場所を見せたかっただけ」

「それが引っ張る力っていうのよ。普通の人は、好きな場所を人に見せたいなんて思わないわ」

 ミレーヌがまたパンをちぎった。

「……今度、わたしも連れてきなさいよ」

「え?」

「パン屋。焼きたてが食べたい」

「うん! もちろん!」

 ミレーヌの眉が少しだけ上がった。少し驚いたような顔。わたしが声を大きくしすぎたかもしれない。

「……そんなに喜ばなくてもいいわよ」

「だって嬉しいから」

「変な子」

 でもミレーヌの口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。


 ベッドに入って、天井を見上げた。

 今日、ヴァイデル教官が言ってくれた。「カーラ先生の教え方は間違いではなかった」。先生の名前を知っている人が、先生のことを尊敬して、先生の教え方を認めてくれた。

 嬉しかった。

 でも——「カーラの弟子」という目で見られることは、これからもきっと続く。学校にいる限り、先生の名前はわたしの一部だ。

 街では違う。街ではわたしはわたしだ。蕪を買って、パンを食べて、子供たちと遊んで、鍛冶屋で剣を見てもらう、ただの女の子。

 両方がある。

 学校では「カーラ先生の弟子」。街では「ユノ」。

 今はまだ、二つの名前は別々だ。でもいつか——いつか、学校でも「ユノ」として見てもらえるようになりたい。先生の弟子であることは変わらない。でも、それだけじゃない自分を見てもらいたい。

 そのためには——ベーレンス教官が言ったように、カーラの教えと学校の型の両方を身につけなくちゃいけない。先生の教えだけで突っ走るんじゃなくて、学校のやり方も覚えて、両方を自分のものにする。

 半分と半分。

 先生の教えが半分、学校が半分。フィンの理論が半分、わたしの感覚が半分。学校が半分、街が半分。

 いつも半分ずつ。でもそれが、わたしのやり方なのかもしれない。

 ——先生、今日ヴァイデル先生っていう教官が、先生のことを覚えてましたよ。先生がここで講義した時に見て、度肝を抜かれたんだって。先生、すごかったんですね。知ってましたけど。

 ——あと、先生の教え方は間違いじゃなかったって言ってくれました。「型に押し込めるな」って先生が言ってたの、この教官も聞いてたみたいです。先生の言葉が、先生がいなくなった後も残ってる。

 ——わたしも、先生の言葉を残していきたいです。先生みたいに、誰かに何かを教えられる人に。まだ全然だけど。でも、今日フィンを街に連れていって、蕪を買って、パンを食べて。フィンが「こういう場所が必要かもしれない」って言ってくれた。わたしが先生から教わったことを、ちょっとずつ、誰かに渡していけるのかもしれない。

 目を閉じた。

 明日はまた学校。授業と勉強と、放課後の図書室。

 でも次の休みには、ミレーヌをパン屋に連れていく約束がある。

 二つの場所。どちらもわたしの場所。


第4話 了