ユノ・フェルティアの物語
第五章「先生の影」
第1話「騎士団駐屯所」
入学して二ヶ月目の休日。わたしは王都の北に向かって歩いていた。
いつもは南に向かう。庶民地区に。でも今日は違う。今日は、ずっと先延ばしにしていたことをする日だ。
——騎士レイス・ハルトに会いに行く。
先生が亡くなる二年前。谷に騎士が来た。レイス・ハルトという名の、アレクシア女王の遣い。先生に王都への帰還を求めて来た人。先生は断ったけれど、わたしには「王都に来ることがあれば騎士団の駐屯所を訪ねてくれ」と言ってくれた。
王都に来てからもう二ヶ月。ずっと行かなきゃと思っていた。でも学校と街の毎日に追われて、きっかけが掴めなかった。
今日、やっと重い腰を上げた。
北大通りを歩いた。学校がある一帯を抜けて、大通りをさらに北上すると、空気が変わってくる。建物が大きくなり、石造りの壁が高くなり、門に衛兵が立っている区画に入る。王城に近い官庁街。騎士団の駐屯所も、この辺りにある。
レイスに場所を聞いていた。「北大通りを真っ直ぐ行って、三番目の交差点を右に曲がったところに、大きな石造りの建物がある。門の上に剣の紋章が掲げてあるから、すぐ分かる」と。
確かにすぐ分かった。
門の上に、二本の剣が交差した紋章。石造りの壁は高く、中から金属が打ち合わされる音が聞こえてくる。訓練の音だ。
門の前に衛兵が二人立っていた。
「あの……すみません」
「何の用だ」
「レイス・ハルトさんに会いたいのですが」
「レイス・ハルト隊長か。お前は?」
「ユノ・フェルティアです。以前、ルーアの谷で——お会いして、王都に来たら訪ねるようにと言われました」
衛兵が顔を見合わせた。
「待て。確認を取る」
片方の衛兵が中に入っていった。しばらく待った。門の前で立っているのは少し居心地が悪かった。通りを歩く人たちが「何の子だろう」という顔でちらりとこちらを見て通り過ぎる。
数分後、衛兵が戻ってきた。
「通れ。レイス隊長が訓練場で待っている」
門をくぐると、広い中庭があった。
石畳の広場。奥に訓練場と厩舎と兵舎が並んでいる。騎士たちが訓練をしている。木剣を振る者、走り込みをする者、馬を引いている者。
音がすごかった。木と木が打ち合わされる音、金属の鎧が鳴る音、馬のいななき、号令の声。全部が重なって、耳の中がざわざわする。
訓練場の端に、見覚えのある人が立っていた。
日に焼けた肌に、短く刈り込んだ茶色の髪。背が高くて、肩幅が広い。谷に来た時と同じ——いや、あの時より少し髪が短くなったかもしれない。
「——来たか」
レイス・ハルトが振り向いた。
堅い顔だった。谷で見た時と同じ、曇りのない目。でも——口の端が、ほんの少しだけ上がった。
「大きくなったな」
「二年ぶりです。レイス・ハルトさん」
「ハルトでいい。かしこまらなくていい」
「では——ハルトさん」
「……まあ、それでもいいか」
ハルトさんが顎で奥を示した。
「こっちに来い。訓練場の端に座れる場所がある」
訓練場の端のベンチに並んで座った。ハルトさんが水差しから杯に水を注いで、わたしに渡してくれた。
「よく来たな。二ヶ月も経つから、もう来ないかと思っていた」
「すみません。学校が忙しくて」
「聞いている。王都魔術学校に入ったんだってな。特別枠で」
「知ってるんですか」
「学校長から報告が来た。『カーラ・ヴェルトの弟子が入学した』と。カーラ殿の弟子のことは、女王陛下も気にかけておられるからな」
女王陛下。アレクシア女王。先生に親書を送った人。
「女王陛下が?」
「ああ。カーラ殿が育てた弟子が無事に王都に到着し、学校に入ったと伝えたら、安堵されていた」
胸がざわっとした。会ったこともない女王が、わたしのことを知っている。先生を通じて。
「ハルトさん。女王陛下は、先生のことをどう思っていたんですか」
「それは——おれが語るべきことではないかもしれないが」
ハルトさんが訓練場を見つめた。騎士たちが木剣を振っている。規則正しい音。
「カーラ殿は、先王の時代の宮廷魔術師だ。先王がもっとも信頼した剣であり、戦友だった。先王が崩御した後、カーラ殿は宮廷を去った。——アレクシア女王陛下にとって、カーラ殿は父上の戦友だ。父上が信頼した人を、陛下もまた深く敬っておられる」
「先王の……戦友」
「先王に仕えた、というだけではない。先王はカーラ殿を『友』と呼んだ。主従ではなく、対等な信頼だ。それだけの力と人柄を持った方だった」
先生が。先王の友。
谷でスープを煮て、木剣を振って、花の名前を教えてくれた先生が。
「……先生は、谷ではそういう話を全然してくれませんでした」
「そうだろうな。カーラ殿はそういう方だ。自分の過去を語らない。だが、語らなかったのは——自分の過去よりも、お前との今のほうが大事だったからだろう」
喉が詰まった。
「おれが谷を訪ねた時、カーラ殿はお前のことを話してくれた。『わたしの弟子だ。大事な弟子だ』と。あの方がそう言うのを聞いたのは、初めてだった。宮廷では誰にも弟子を取らなかった方が」
「先生……」
「お前はカーラ殿の唯一の弟子だ。それがどれだけのことか、分かるか」
分かる。分かっていたつもりだった。でも、こうして先生を知る人の口から聞くと——重さが違う。先生の手の温度とか、声のトーンとか、そういうもので知っていた「大事な弟子」が、王都の騎士の言葉で別の重さを持つ。
ハルトさんが話を続けた。
「カーラ殿の宮廷時代のことを、もう少し話してやろう」
「はい」
「カーラ殿は、宮廷に二十年近く仕えた。剣の腕は宮廷でもっとも優れ、魔術の力も随一。『宮廷最強』と呼ばれた。だがカーラ殿自身は、その呼び名を好まなかったと聞いている」
「先生らしいです」
「ああ。カーラ殿が本当に強かったのは、剣や魔術だけではない。人を見る目があった。先王がカーラ殿を『友』と呼んだのは、強さではなく——信頼だ。嘘をつかない。媚びない。間違っていると思えば、王にも直言する。そういう方だった」
先生だ。先生は本当にそういう人だった。わたしにも、間違っていることは間違っていると言った。「お前のここが弱い」「これではだめだ」「もう一回」。優しいけど、嘘はつかない。
「先王が崩御された後、宮廷の空気が変わった」
ハルトさんの声が低くなった。
「先王はカーラ殿を対等な友として遇した。だが先王亡き後、宮廷の中にはカーラ殿の力を——政治に利用しようとする者が現れた。『宮廷最強』の名を、派閥争いの道具にしようと」
「先生の力を……」
「カーラ殿は去った。何も言わずに、ある朝、宮廷から消えた。それが——二十年以上前の話だ」
先生が谷に住み始めたのは、その頃だ。宮廷を去って、ルーアの谷に移り住んで、そこで一人で暮らし始めた。わたしを拾うまでの何年間か、一人で。
「先生は——なぜ谷に?」
「それは、おれにも分からん。だが推測はできる。カーラ殿は剣を人のために使った方だ。政治の道具にはならない。そう決めた方が、自分の剣を守るために——静かな場所を選んだのだろう」
先生が第三章第4話で考えたことと、繋がった。先生が宮廷を去って谷に住んだのは、「誰にも注目されない場所が好きだった」から。でもそれだけじゃなかった。自分の剣を——自分の信念を守るためだった。
「剣は人を守るためにある。政治の道具にはならない」
「——知っているのか」
「いえ。でも、先生ならそう言うと思って」
ハルトさんが、少し笑った。堅い顔がほんの一瞬だけ柔らかくなる。
「当たっている。レイスの報告にもそう書いてあった——カーラ殿がそう語った、とな」
「もう一つ、聞きたいことがある」ハルトさんが杯の水を飲んで、姿勢を正した。「お前の感知能力のことだ」
「感知能力?」
「谷でおれが訪ねた時、カーラ殿が言っていた。『この子は術式を使わずに魔物の気配を感じ取る』と。おれも確認したかったが、あの時は時間がなかった」
「はい。わたし、魔物の気配が分かるんです。山でも、旅の途中でも——ぞわっとする感じで」
「それは珍しい能力だ。一般的な感知術式は、マナの探査によって対象を発見する。だがお前は、術式を使わずに——直感的に感知する」
「先生にもそう言われました。でも先生も、理由は分からないって」
「おれの知り合いに、魔術院の研究者がいる。感知能力の専門家ではないが、能力の測定や分析はできるはずだ。一度、調べてもらうといい」
「魔術院……」
「紹介状を書く。お前が行きたいと思った時に使ってくれ。急ぐ必要はない。だが——その能力は、正しく理解しておいたほうがいい。お前自身のために」
「はい」
ハルトさんが懐から紙を取り出し、何か書き始めた。堅い字。几帳面な字。
——先生、ハルトさんに会いました。先生のこと、たくさん話してくれました。先王の友だったんですね。先生はそんなこと一度も言わなかった。
——先生が宮廷を去ったのは、剣を守るためだったんですね。剣は人を守るためにある。政治の道具にはならない。先生らしい。すごく先生らしい。
「ハルトさん」
「何だ」
「先生のこと、もっと聞いてもいいですか」
「いくらでも話してやる。おれが知っていることは限られるが——カーラ殿のことは、語り継ぐ価値のある話だ」
「嬉しいです」
「だが今日は時間が来た。午後から任務がある」
「すみません、長居して」
「構わん。むしろ、もっと早く来てほしかった」
ハルトさんが立ち上がった。わたしも立ち上がった。
「紹介状だ。魔術院のフリーダ・ヴィント研究員宛だ。好きな時に行け」
紙を受け取った。きっちりと折り畳まれた、厚い紙。
「ハルトさん」
「何だ」
「先生は、いい先生でした」
「……ああ。知っている」
「わたしにスープを作ってくれて、木剣を振って、花の名前を教えてくれて。怒る時は怒るけど、口の端っこだけ笑う人でした」
ハルトさんが黙った。しばらく、わたしを見ていた。
「おれが知っているカーラ殿は、宮廷の伝説だ。先王の戦友で、宮廷最強で、誰よりも強い剣を持つ人。——だが今の話を聞いて、少しだけ、カーラ殿が谷に住んだ理由が分かった気がする」
「どういうことですか」
「お前みたいな弟子がいたなら——谷の暮らしは、悪くなかっただろう」
泣きそうになった。でも泣かなかった。先生の前では泣かないと決めたから。先生はいないけど。
「また来ます」
「ああ。いつでも来い。——カーラ殿の弟子は、おれにとっても大事な客だ」
駐屯所を出て、大通りを歩いた。
空が高かった。雲が流れていて、春の風が吹いていた。
先生の「別の顔」が、また一つ見えた。
先王の友。宮廷最強。政治の道具にならないと決めた人。静かな場所を選んで、一人で暮らし始めた人。そしてわたしを拾って、育てて、全部を教えてくれた人。
先生は——先生は、本当にすごい人だった。
でも。
でも、わたしにとっては、やっぱり「先生」だ。スープを作って、木剣を振って、花の名前を教えてくれた先生。それは変わらない。先王の友だろうと、宮廷最強だろうと、わたしにとっての先生は一人だけだ。
——先生、王都では先生の名前は本当に有名みたいです。みんなが先生のことを知ってて、尊敬してて、すごい人だったって言います。
——でもわたしは、先生が作ってくれた蕪のスープの味を知ってます。それだけで十分です。
ポケットの中の紹介状に触れた。魔術院。フリーダ・ヴィントさん。感知能力のこと。
先生が「今度ゆっくり話そう」と言ったまま、話せなかったこと。もしかしたら、それに近い何かが分かるかもしれない。
——先生、わたしの感知能力のこと、先生も気になってたんですよね。「今度ゆっくり話そう」って言ってくれましたよね。結局話せなかったけど。
——でも、ハルトさんが調べる場所を教えてくれました。先生が残してくれた宿題を、わたしなりに解いてみます。
足取りが軽かった。
ここに来てよかった。先生の過去を知るのは、嬉しいことだった。悲しいこともあるけど——先生を知っている人がいること、先生の話をしてくれる人がいること。それだけで、先生がまだここにいるような気がする。
第1話 了