ユノ・フェルティアの物語
第五章「先生の影」
第2話「宮廷を去った人」
翌週の放課後、また騎士団駐屯所を訪ねた。
ハルトさんは訓練場の隅でわたしを待っていてくれた。今日は革の鎧ではなく、質素な麻の服を着ていた。非番らしい。
「来たか」
「はい。先週の続きを聞いてもいいですか」
「ああ。ただし、おれが直接見聞きした話ではない。先輩騎士や、宮廷の古い記録から知ったことだ。それでよければ」
「はい」
駐屯所の中庭に面した回廊のベンチに座った。春の日差しが石の柱に影を落としている。風がぬるい。
「カーラ殿が宮廷に来たのは、先王アルヴィン陛下の治世の初期だった」
ハルトさんが話し始めた。
「先王は若くして即位された方でな。帝国との緊張が高まっていた時代に、まだ二十歳そこそこで王位についた。宮廷は混乱していた。先代の王が築いた秩序が揺らいで、派閥が好き勝手に動き始めていた」
「先王は大変だったんですね」
「ああ。そんな時期に、一人の魔術師が宮廷の門を叩いた。名前も身元も明かさず、ただ『剣と魔術で仕えたい』と言った。——それがカーラ殿だ」
先生が。宮廷の門を叩いた。名前も明かさずに。
「誰も相手にしなかった。身元不明の魔術師を雇う理由がない。だが、先王が直接会うと言った。おれが聞いた話では——先王はカーラ殿と三十手の立ち合いをしたそうだ」
「先王が、直接?」
「先王は剣の心得がある方だった。三十手でカーラ殿の力を見抜いた。その場で召し抱えた。『この者は友だ。誰にも手を出させるな』——それが先王の最初の言葉だったと伝わっている」
三十手。先生と先王が剣を交えて、先王が先生を「友」と呼んだ。
「先生は、先王のそばにいたんですか」
「そうだ。二十年近く、先王のもっとも近い場所にいた。戦場でも、政務の場でも。——帝国との戦にも参加した。第一次帝国侵攻の時だ」
「第一次……」
「帝国がアーヴェリアの東部国境を越えてきた時だ。カーラ殿は先王と共に前線に出た。記録には『カーラ一人で帝国の一個中隊を退けた』とある。——まあ、多少の誇張はあるだろうが」
「いえ、先生ならできます」
自信を持って言った。先生なら。谷で魔物の狼を一振りで斬った先生なら。
ハルトさんが少し笑った。
「お前がそう言うと、誇張じゃないのかもしれんな」
「先王の治世は三十年近く続いた」ハルトさんが続けた。「その間、カーラ殿は宮廷の守りの要であり続けた。だが先王はカーラ殿を戦の道具としてだけ扱わなかった」
「どういうことですか?」
「先王は、カーラ殿に学校での講義を頼んだことがある」
「学校の——ヴァイデル先生が言ってました。先生がここで特別講義をしたって」
「ああ。先王が『お前の技術は一代で終わらせるにはもったいない。若い者に伝えてやれ』と勧めたそうだ。カーラ殿は最初渋ったが、結局引き受けた」
「先生、教えるの好きだったんですね。渋りながら引き受けるところが」
「先輩騎士の話では、カーラ殿の講義はかなり変わっていたらしい。教科書を使わず、いきなり生徒に術式を組ませて、うまくいかないところを指摘する。型を先に教えない。身体で覚えさせてから、後で理論を足す」
わたしに教えてくれた方法と同じだ。先生は宮廷にいた頃からそうだったんだ。
「講義は一年だけで終わったが、その一年で影響を受けた生徒は多かったと聞いている。ヴァイデル教官もその一人だろう」
「先生の教え方が、今もここに残ってるんですね」
「そうだ。——先王はそれを狙っていたのかもしれん。カーラ殿の力だけでなく、カーラ殿の教えを、王国に根づかせようと」
先王は賢い人だったんだ、と思った。先生の力を利用するのではなく、先生の教えを残そうとした。
「先王が崩御されたのは——今のアレクシア女王がまだ幼い頃だ」
ハルトさんの声が低くなった。
「先王は長い闘病の末に亡くなった。最後まで気丈な方だったと聞いている。崩御の直前、カーラ殿を枕元に呼んで、最後の言葉を残した」
「最後の言葉?」
「これはおれも伝聞でしか知らないが——『お前はもう自由だ。好きに生きろ』と言ったそうだ」
息が止まった。
「好きに——生きろ」
「先王は分かっていたのだろう。カーラ殿が宮廷に留まっているのは、先王への忠義のためだと。先王がいなくなれば、カーラ殿を宮廷に繋ぎ止めるものはない。だから先王は自分の手で鎖を解いた」
先生は——先王のために宮廷にいた。先王が友と呼んでくれたから。先王がいたから。
先王が亡くなって、先生は自由になった。
「先王の崩御後、宮廷は変わった。それは前にも話した通りだ。カーラ殿の力を政治に利用しようとする者が現れた。だがカーラ殿には、もう宮廷に留まる理由がなかった」
「先王が、『好きに生きろ』と——」
「カーラ殿は何も言わずに去った。ある朝、部屋は空になっていた。残されていたのは先王への書簡一通。内容は非公開だが——おれの推測では、先王への感謝の言葉だったのではないかと思う」
目の奥が熱くなった。
先生。
先生は先王のために宮廷にいて、先王が「好きに生きろ」と言ってくれて、自由になって。そして谷に行って、一人で暮らし始めて。わたしを拾って、育てて。
先生の人生が一本の線で繋がった。
しばらく黙っていた。
中庭の向こうで騎士たちが走り込みをしている。規則正しい足音。金属がかちゃかちゃ鳴る音。日差しが回廊の影を少しずつ動かしていく。
「ハルトさん」
「何だ」
「先生は、谷では一度も宮廷の話をしませんでした。先王のことも、戦のことも。自分が『宮廷最強』だったことも。何も」
「そうだろうな」
「でも——先生にとって、宮廷での日々は嫌なものじゃなかったんですよね。先王と過ごした時間は、先生にとって大事だったんですよね」
「……おれはそう思う。カーラ殿が宮廷を去ったのは、宮廷を嫌ったからではない。先王が亡くなった後の宮廷が、先王の宮廷ではなくなったからだ」
そうだ。先生は宮廷を嫌いになったんじゃない。先生が愛した宮廷は、先王と一緒にいた宮廷だった。それがなくなったから、いる理由がなくなった。
「先生は、先王のことを忘れなかったと思います」
「おれもそう思う」
「谷にいた先生は——穏やかでした。怒ったり、しかったりはするけど、根っこの部分は穏やか。何かを失った人の穏やかさじゃなくて、何かを大事にしまい込んでいる人の穏やかさだった」
ハルトさんが黙って、わたしを見ていた。
「お前は——よくカーラ殿のことを見ていたんだな」
「毎日一緒にいましたから」
「……ああ。そうだな。お前がいちばん、カーラ殿を知っているのかもしれん」
駐屯所を出て、帰り道を歩いた。
大通りの並木が新緑に染まっていた。風が吹くと葉っぱがさわさわ鳴る。空が青くて、雲が白い。
先生。
先生は先王の友で、宮廷最強で、帝国の兵を退けた伝説の人。先王に「好きに生きろ」と言われて、谷に住み始めた人。そしてわたしの先生。
先生が宮廷にいた頃のことを知れば知るほど、わたしが知っている先生は——本当に小さな先生の一部だったのだと分かる。先生の人生の最後の八年間。長い人生のほんの一部。
でも。
先生にとって、その八年間はどうだったんだろう。
先王と過ごした二十年があって、一人で過ごした何年かがあって、わたしと過ごした八年。
先生は「お前はわたしの最高の弟子だよ」と言ってくれた。先王に「友」と呼ばれた人が、わたしを「最高の弟子」と。
谷の家で、炉端で、スープを飲みながら、先生はわたしに何を見ていたんだろう。先王の面影だろうか。若い頃の自分だろうか。それとも——ただ、目の前のわたしを。
きっと、ただわたしを見ていた。先生はそういう人だった。過去に生きない。目の前のことを、目の前のまま見る。
——先生、先王のこと、聞きました。先王は先生を「友」と呼んで、最後に「好きに生きろ」と言ったんですね。先生は好きに生きて、谷に行って、わたしを拾ってくれた。
——先生が谷で過ごした時間は、先生にとって「好きに生きた」時間だったんだと思います。先王がくれた自由を使って、先生はわたしを育てることを選んだ。
——ありがとうございます。先生。先王にも、ありがとうございます。
泣いてはいない。目が少し潤んだだけだ。風のせいだ、多分。
学校に戻ると、図書室にフィンがいた。いつもの窓際の席。
「ユノさん、遅かったですね」
「ごめん。騎士団駐屯所に行ってた」
「レイス・ハルトさんのところですか。先生の話を?」
「うん」
向かい合って座った。フィンが教科書を広げていたけど、わたしの顔を見て、教科書を閉じた。
「泣いてますか?」
「泣いてない。風のせい」
「図書室に風は吹いていませんが」
「……ちょっとだけ、目が潤んだだけ」
「そうですか」
フィンはそれ以上聞かなかった。代わりに水差しから杯に水を注いで、わたしの前に置いた。ハルトさんと同じことをする。
「先生のこと、いっぱい聞いた。先生が宮廷にいた頃のこと」
「聞きたいです。——でも、ユノさんが話したい時でいいです」
「……ありがとう」
水を飲んだ。冷たくて、喉の奥の熱が少しだけ和らいだ。
「今日は勉強、やめていい?」
「もちろんです。今日はゆっくりしてください」
「……フィン、優しいね」
「事実を述べているだけです。疲れている時に無理をしても効率が悪い」
「それを優しいって言うんだよ」
フィンが少し困ったような顔をして、ノートに目を落とした。耳がほんの少し赤い気がした。
窓から西日が差していた。図書室のいつもの匂い——古い紙と木の匂い。埃がきらきら舞っている。
ここが、わたしの場所だ。
第2話 了