ユノ・フェルティアの物語

第五章「先生の影」

第3話「王都の裏側」


 ハルトさんから手紙が届いた。

 寮の受付で渡された封筒には、きっちりした字で「ユノ・フェルティア殿」と書いてあった。中身は短い手紙。

「次の休日、時間があるなら駐屯所に来い。見せたいものがある。——レイス・ハルト」


 休日の朝、駐屯所に行くと、ハルトさんは門の前で待っていた。今日は私服ではなく、軽い革鎧を着ている。

「今日は歩く。ついてこい」

「どこに行くんですか」

「王都の、お前がまだ見ていない場所だ」


 ハルトさんの後を歩いた。

 大通りを西に進んで、商店街を抜けて、道がだんだん細くなる。石畳が途切れて、土の道になった。南の庶民地区とは違う方向。西の外縁部。

 建物の高さがまちまちになった。大きな石造りの建物と、木と布で作った粗末な小屋が隣り合っている。路地が入り組んでいて、日が当たらない場所が多い。洗濯物が何重にも重なって、空を塞いでいる。

 匂いが変わった。庶民地区の市場の匂い——野菜や焼きたてのパンの匂いとは違う。湿った土と、古い木材と、何かが腐りかけた匂い。

「ここは……」

「王都の西外縁部だ。騎士団が定期巡回をしている地区でもある」

 路地の奥に人影が見えた。壁に背をもたせかけて座っている老人。薄い毛布を被った女性。走り回る子供——靴を履いていない子供。

「この辺りには、色々な事情で住処を失った人々が集まっている」

 ハルトさんの声は淡々としていた。だが目は、丁寧に周囲を見ている。

「帝国との戦争で家族を失った人。東部の農村から流れてきた人。魔物の被害で畑を棄てた人。王都には、そういう人たちが少なくない」

「魔物の被害で……」

「ああ。近年、王都の東側で魔物の活動域が広がっている。農村の中には魔物に襲われて放棄されたところもある。そこにいた人たちが王都に流れてくる」

 路地を歩いた。ハルトさんは道を知っている。巡回で何度も来ているのだろう。すれ違う人たちが、ハルトさんを見て頭を下げた。「隊長さん」と呼ぶ人もいた。

「ハルトさん、ここの人たちと顔見知りなんですか」

「巡回で来る度に声をかけている。——騎士団にできることは限られるが、顔を見せるだけでも安心する人はいる」

 路地の角に、小さな炊き出し所があった。鍋が一つ、火にかかっている。薄いスープの匂い。並んでいるのは老人と子供が多かった。

「ここは慈善の炊き出しだ。有志の商人と、一部の貴族の寄付で運営されている。騎士団も食材を提供している」

 並んでいる子供の一人が、わたしを見た。男の子。八つか九つくらい。痩せていて、頬がこけている。でも目は生きていた。

「お姉ちゃん、誰?」

「ユノ、です」

「学校の人?」

「うん」

「魔術できるの?」

「少しだけ」

「すごい。おれも魔術やりたい」

 胸が痛かった。

 この子と、庶民地区の路地で遊んでいた子供たちは、何が違うんだろう。多分、何も違わない。運が違うだけだ。家族がいるかいないか。家があるかないか。

 わたしも——六つの時に先生に拾ってもらえなかったら、こういう場所にいたかもしれない。戦争で親を失った子供。焼け跡の中にいた子供。先生がいなかったら。


 外縁部を一巡りして、少し開けた場所に出た。城壁の内側の、草が生えた空き地。ハルトさんが石の上に座り、わたしもその隣に座った。

「どう思った」

「……学校にいると、全然見えない」

「そうだ。学校がある地区は王都の中でも恵まれた場所だ。庶民地区もまだいい。市場があって、仕事がある。だがここには、それすらない人がいる」

「先生は——こういうことを知っていたんですか」

「カーラ殿は宮廷にいた方だ。王都の隅々まで知っていただろう。先王もまた、こうした場所に目を向ける方だったと聞いている」

「先生が、『剣は人を守るためにある』と言った時の——『人』って、こういう人たちのことですか」

「おれはそう思う」

 風が吹いた。草がさわさわ鳴った。

 先生が宮廷を去ったのは、剣を政治の道具にされたくなかったからだ。でも先生が守りたかった「人」は、宮廷の貴族たちじゃなくて——こういう場所にいる人たちだったのかもしれない。

「ハルトさん」

「何だ」

「わたしにできることは、ありますか」

「……今すぐにはない。お前はまだ学生だ。まず自分の力をつけろ。だが——忘れるな。こういう場所があることを。学校の外には、こういう世界がある」

「忘れません」

「カーラ殿の弟子なら、いずれ力をつけた時に——自分で答えを見つけるだろう」


 帰り道、大通りを歩いた。

 西外縁部から商店街に戻ると、空気が全然違った。明るくて、賑やかで、人々が笑って歩いている。同じ王都なのに。石一つ隔てた向こうに、別の世界がある。

 学校に戻ると、廊下でアーデルハイトとすれ違った。

「フェルティア」

「アーデルハイト」

「……今日はどこに行ってたの? 泥だらけよ、靴」

 靴を見た。確かに土がついている。外縁部の路地は舗装されていなかったから。

「ちょっと歩いてた」

「ふうん」

 アーデルハイトはそれだけ言って通り過ぎた。

 教室に行くと、何人かの同級生が話をしていた。

「カーラ・ヴェルトの弟子って、騎士団の隊長と知り合いらしいよ」

「え、本当?」

「駐屯所に出入りしてるって聞いた」

 また噂が増えた。でも、もうあまり気にならなかった。噂よりもっと大事なことを見てきたから。


 放課後。図書室。いつもの席。

「ユノさん、今日は顔が違いますね」

 フィンが教科書を広げながら言った。

「違う?」

「前に騎士団から帰ってきた時は泣きそうな顔でした。今日は——難しい顔です」

「……色々見てきた。フィンに話してもいい?」

「もちろんです」

 ハルトさんに連れられて見た外縁部のことを話した。薄いスープの炊き出し。靴を履いていない子供。魔物の被害で畑を捨てた人々。

 フィンは黙って聞いていた。

「……そういう場所があるとは、知識としては知っていました」

「知識として?」

「ノルデン男爵家の所領にも、似たような地区があります。父が対策を講じていますが——十分とは言えない状況です」

「フィンの家でも」

「はい。どの領地にもあります。それが——領主の責任でもあります」

 フィンの声は静かだったけど、重かった。知識ではなく、実感として知っている声だ。

「ユノさん」

「うん?」

「今すぐ何かできなくても、見たことは忘れないでください。僕も忘れません。僕たちが今学んでいることは——いつか、そういう場所を少しでも変えるための力になるかもしれない」

「……うん」

「さて」フィンが姿勢を正した。「それはそれとして。今日は障壁理論の続きです」

「え、今から?」

「はい。感傷と勉強は別です。——障壁の理論が分かれば、いつか本当に人を守れるようになります。それが、今のユノさんにできることです」

 フィンの目はまっすぐだった。優しいけど、甘くない。

「……そうだね。うん。やろう」

 ノートを開いた。

 フィンは正しい。今すぐ何かを変える力はない。でも勉強して、力をつけて、いつか——先生が言った「人を守る剣」を、自分も持てるようになりたい。

 障壁の理論。マナの密度。面積と強度の関係。先生の「守る場所を絞れ」。

 今はこれが、わたしにできること。


 夜。ベッドに入って、天井を見つめた。

 ミレーヌが隣のベッドで本を読んでいる。ページをめくる音だけが聞こえる。

 ——先生、今日、王都の裏側を見ました。学校のすぐ近くに、食べるものがない人たちがいました。靴のない子供がいました。

 ——先生が守りたかった「人」は、こういう人たちだったんだと思います。剣は人を守るためにある。先生がそう言った時の「人」は、城にいる偉い人じゃなくて。

 ——わたしにはまだ力がないです。障壁もまだ完全じゃないし、剣もまだ先生には全然届かない。でも、忘れません。今日見たこと。

 ——いつか、わたしも。先生みたいに、誰かを守れるように。

 目を閉じた。

 明日も学校。授業と勉強と、放課後の図書室。

 でも今日見たものは、ずっと胸の中にある。


第3話 了