ユノ・フェルティアの物語

第五章「先生の影」

第4話「ただの先生」


 放課後。図書室には行かなかった。

 フィンには「今日は一人で考えたいことがある」と伝えた。フィンは「分かりました」とだけ言って、自分の勉強に戻った。こういう時に余計なことを聞かないのが、フィンのいいところだ。

 寮でもなく、訓練場でもなく、学校を出て歩いた。南の庶民地区でもなく、北の騎士団でもなく。学校の裏手にある、小さな丘。校舎の屋根越しに王都が見渡せる場所。レイスに教えてもらった穴場だ。「気分転換にいいぞ」と。

 丘の上に座った。草が柔らかかった。春の風が吹いている。

 王都が見える。赤い屋根の建物が続いて、遠くに城壁が見えて、その向こうに山並みが霞んでいる。南に目を向ければ庶民地区。西に目を向ければ外縁部——炊き出しの鍋と、靴のない子供たちの場所。北には王城と騎士団の駐屯所。

 全部が、王都だ。


 この二ヶ月で、色々なことを知った。

 先生のこと。先生は宮廷最強の魔術師で、先王アルヴィンの戦友で、帝国の兵を退けた伝説の人だった。先王に「友」と呼ばれ、先王の死後に宮廷を去った。「好きに生きろ」という最後の言葉を受けて、谷に住み始めた。

 学校のこと。先生の教え方と教科書の体系は違うけど、どちらも正しい。ヴァイデル教官は先生の教えを「財産」と言ってくれた。ベーレンス教官は「両方身につけろ」と言ってくれた。

 街のこと。庶民地区には先生と同じことを知っている職人たちがいて、路地には「ユノお姉ちゃん」と呼んでくれる子供たちがいる。パン屋のマルタは笑顔で迎えてくれるし、八百屋のゲルトは蕪をおまけしてくれる。

 王都の裏側のこと。外縁部には食べるものがない人がいて、靴のない子供がいて、魔物のせいで畑を棄てた人がいる。

 全部を見た上で——わたしは、ここで何をするんだろう。


 先生。

 先生は宮廷最強だった。先王の友だった。伝説の人だった。

 でもわたしにとっての先生は——スープを作って、木剣を振って、花の名前を教えてくれて、「考えるな」と怒って、口の端っこだけ笑う人だった。

 全部本当のこと。伝説も、スープも、全部本当の先生。でもわたしが知っている先生は、スープのほうの先生だ。

 先生が自分を選んで育ててくれたことの重み。

 先王が「好きに生きろ」と言って、先生は好きに生きることを選んだ。その「好きに」の中身が——谷でわたしを育てることだった。宮廷最強と呼ばれた人が、世界のどこにでも行けた人が、小さな谷でスープを煮て子供を育てることを選んだ。

 わたしが先生にとってどれだけの存在だったか——今なら、前よりもう少し分かる。


 風が吹いた。草が揺れた。雲が西から東に流れていく。

 ポケットの中の紹介状に触れた。ハルトさんがくれた、魔術院への紹介状。感知能力の調査。

 先生が「今度ゆっくり話そう」と言ったまま、話せなかったこと。わたしの感知能力のこと。先生は何を知っていたんだろう。何を話したかったんだろう。

 分からない。もう聞けない。

 でも、調べることはできる。先生が残した宿題を、自分なりに解くことはできる。

 行こう。魔術院に。フリーダ・ヴィントさんのところに。先生が話せなかったことの、答えの欠片があるかもしれない。


 丘の上に座ったまま、長い時間が経った。日が傾いて、橙色の光が王都を染め始めた。

 学校では「カーラの弟子」。街では「ユノ」。外縁部では「魔術ができるお姉ちゃん」。騎士団では「カーラ殿の弟子」。

 どれもわたしだ。どれも本当のわたし。でも根っこにあるのは——先生に教えてもらったわたし。先生がスープを煮てくれて、木剣を振ってくれて、花の名前を教えてくれた、あの谷のわたし。

 先生の名前は大きい。王都に来て、それがよく分かった。でも先生にとってのわたしは——名前のない、ただの弟子だった。ただの子供だった。先生はわたしの名前に何かをつけたことは一度もない。「カーラの弟子のユノ」なんて言い方はしなかった。いつも「ユノ」。それだけ。

 わたしも、先生にとっては——「ただの先生」でいたい。

 宮廷最強でも、先王の友でも、伝説の人でもなく。スープを作って、木剣を振って、「考えるな」と怒って、口の端っこだけ笑う先生。わたしのただの先生。

 それでいい。それが、わたしにとっての先生の、一番本当の姿だ。


 丘を降りて、学校に戻った。

 廊下でレイスに会った。

「お。どこ行ってた?」

「丘の上で考え事」

「あそこか。いい場所だろ」

「うん。ありがとう、教えてくれて」

「で? 何か結論出たか?」

「うん。——感知能力のこと、調べに行くことにした。ハルトさんがくれた紹介状、使う」

「おお。いいじゃないか。魔術院なら、ちゃんと調べてくれるはずだぞ」

「あと——」

「あと?」

「先生はわたしの先生です。それだけで十分」

「……何の話?」

「独り言」

 レイスが首をかしげた。でもそれ以上聞かなかった。


 図書室に行ったら、フィンがまだいた。

「考えは、まとまりましたか?」

「うん。フィン、来週の休日、一緒に魔術院に行ってくれない?」

「魔術院?」

「ハルトさんにもらった紹介状を使って、感知能力の検査を受けに行こうと思って。一人で行くのは少し心細いから」

「もちろん行きます」

 即答だった。

「フィンも見たいでしょ、魔術院」

「正直に言えば——はい。かなり見たいです。魔術院は王都でもっとも高度な研究機関ですから」

 フィンの目が輝いていた。知的好奇心が隠しきれない目。こういうフィンが好きだ。——あ、いや。好きというか。良い、という意味で。

「じゃあ、来週の休み」

「はい。楽しみです」


 夜。寮のベッドに入った。

 ミレーヌが明かりを消した後、暗い天井を見上げた。

 ——先生、わたし、先生のことをたくさん知りました。先王の友だったこと。宮廷最強だったこと。帝国と戦ったこと。宮廷を去ったこと。全部聞きました。

 ——でも先生は、わたしにとってはただの先生です。それだけで十分です。

 ——先生が残してくれたものは、思ったよりずっと大きかったみたいです。剣も、魔術も、教えも。全部大事です。でもいちばん大事なのは——先生がわたしを育ててくれたことです。

 ——来週、魔術院に行きます。感知能力のこと。先生が「今度ゆっくり話そう」って言ってくれたこと、わたしなりに調べてみます。先生に聞けなかった宿題を、自分で解いてみます。

 ——報告、楽しみにしててください。

 目を閉じた。

 先生の顔を思い浮かべた。口の端っこだけ笑って、「ま、やってみな」と言う顔。

 うん。やってみる。


第4話 了