ユノ・フェルティアの物語
第六章「見えないもの」
第1話「森の実習」
入学して三ヶ月目に、初めての校外実習があった。
朝、訓練場に集合した時、ブラント教官が説明した。
「今日は郊外の森で実地演習を行う。班ごとに行動し、森の中で基本的な魔術の実践と環境対応を学ぶ。——言っておくが、遊びではない。森には魔物がいる可能性がある。教官の指示に従え」
生徒たちがざわめいた。魔物。教室で習ったことはあるけど、実際に遭遇するかもしれないとなると、空気が変わる。
わたしは——少しだけ、懐かしい気持ちになった。谷の森を思い出す。先生と一緒に歩いた森。魔物の狼に出会った、あの森。
馬車で一時間ほど。王都の東、郊外の大きな森に着いた。
森の入り口は管理されていて、王都騎士団の小さな詰所がある。教官がそこで騎士と短い打ち合わせをして、全員に注意事項を伝えた。
「奥に行くほど魔物の出現率が上がる。今日は管理区域内で活動する。区域の外には出るな」
班分けは事前に決まっていた。わたしの班はフィンと、アーデルハイトと、もう一人——エルマ。それにブラント教官が引率。
森に入った。
木々の匂いがした。土の匂い。葉っぱが重なって、日光がまだらに地面に落ちている。鳥の声。枝を踏む音。
谷の森と似ている。でも少し違う。もっと湿っていて、木が太い。古い森だ。
「ここで一度、環境感知の演習を行う」
ブラント教官が足を止めた。木々に囲まれた小さな空き地。
「魔術師にとって、環境を感知する能力は命に関わる。まずは基本の感知術式を使ってみろ。周囲のマナの流れと、生物の気配を探れ」
生徒たちが短杖を構えた。感知術式。教科書で習った基本術式の一つ。マナを放射して、反射で周囲の情報を拾う。
フィンが術式を展開した。目を閉じて、集中している。
「……東に小動物が数匹。鳥が多いですね。マナの流れは安定していて、特に異常はないと思います」
「よし。フェルティア、お前もやってみろ」
短杖を構えた。感知術式を——
やめた。
短杖を下ろした。代わりに、目を閉じた。
先生がやっていた方法。術式ではなく、身体で感じる。耳を澄ませる。肌で空気を読む。鼻で匂いを嗅ぐ。そして——胸の奥の、あの感覚。ぞわっとする、あの感覚。
森は生きていた。木々が呼吸している。虫が動いている。鳥が飛んでいる。風が枝を揺らしている。
そして——遠くに、何かがいる。
「……北西。三百歩くらい先に、何かいます」
「何だと?」
「分かりません。でも——動物じゃない。もっと……冷たい感じ」
「冷たい?」
「マナが——ぞわっとする。谷で魔物の狼に会った時と同じ感じです」
教官の表情が変わった。
「お前、感知術式を使ったのか」
「いえ。術式は使ってません」
「術式なしで——三百歩先の気配を?」
「はい」
教官が黙った。数秒。それからブラント教官は自分で感知術式を展開した。目を閉じて、集中する。
十秒後、教官の目が開いた。
「……確かに、北西の方向にマナの異常がある。距離は——おそらく三百から四百歩」
空き地が静まり返った。
「全員、静かにしろ」
教官の声が低くなった。訓練の声ではない。実戦の声だ。
「管理区域の端に近い位置だ。魔物が入り込んでいる可能性がある。——動くな。おれが確認する」
教官が森の北西に向かって歩き出した。わたしたちは言われた通りその場に留まった。
フィンがわたしの横に来た。小声で言った。
「ユノさん、今の——本当に術式なしで?」
「うん」
「どうやって分かったんですか?」
「……なんとなく。身体が教えてくれるの。ぞわっとする感じで」
「ぞわっとする感じ……」
フィンの目が——不思議そうだった。でも、怖がっていなかった。好奇心のほうが強い目。
アーデルハイトがこちらを見ていた。腕を組んで、何か考え込むような顔。エルマは少し青ざめている。
数分後、教官が戻ってきた。
「魔狼が一頭。管理区域の外から入り込んでいた。詰所の騎士に連絡した。——今日の実習はここまでだ。安全な場所に戻る」
帰りの馬車の中で、生徒たちが小声で話していた。
「あの子、術式なしで魔物が分かったんでしょ?」
「ブラント教官より先に見つけたって」
「すごいね」
「すごいっていうか——怖くない?」
「怖いって何が」
「だって、普通じゃないでしょ。術式なしで魔物が分かるなんて」
聞こえていた。聞こえないふりをした。
フィンが横に座っていた。何も言わなかった。ただ横にいてくれた。
馬車の窓から森が遠ざかっていく。午後の日差しが木々の上に金色の光を散らしていた。
学校に戻ると、ブラント教官に呼び止められた。
「フェルティア。少し話がある」
「はい」
訓練場の隅で、教官と向かい合った。
「今日の感知だが——お前、いつからああいうことができる」
「小さい頃からです。谷の森で、魔物の気配が分かりました。先生——カーラ先生にも話しました」
「カーラ先生は何と?」
「『今度ゆっくり話そう』と。でも——先生が亡くなってしまって、結局話せませんでした」
教官が腕を組んだ。
「術式なしの環境感知は、一般的な魔術体系には存在しない。おれが知る限り、そういった能力は精霊族の特性に近い」
「精霊族……」
「詳しいことはおれには分からん。だが——お前の能力は、ちゃんと調べたほうがいい。魔術院に相談してみろ」
「はい。実は、もう紹介状をもらっていて——」
「誰に」
「レイス・ハルト隊長に」
「……ハルト隊長か。なら話が早い。行ってこい」
夜。寮のベッドに入った。
ミレーヌが明かりを消す前に、言った。
「今日のこと、聞いたわ」
「うん」
「術式なしで魔物を見つけた、って」
「見つけたっていうか……感じただけ」
「それが普通じゃないのよ」
「……うん。分かってる」
ミレーヌが少し黙った。
「別に怖がってないわよ。言っておくけど」
「え?」
「馬車の中で、誰かが『怖い』って言ってたでしょ。あれ、馬鹿な話よ。能力があるだけで怖いなんて。——あなたは普通じゃないかもしれないけど、気持ち悪いとは思ってないわ」
不器用な言い方だった。でもミレーヌらしかった。
「ありがとう、ミレーヌ」
「お礼なんかいらないわ。事実を言っただけ」
フィンと同じことを言う。
明かりが消えた。暗闇の中で天井を見つめた。
——先生、また「変なこと」をしてしまいました。谷では先生しかいなかったから、これが変なことだと知らなかった。でも学校では、みんなびっくりしてました。
——先生も、わたしのこの力が気になってたんですよね。「今度ゆっくり話そう」って言ってくれましたよね。今度こそ、ちゃんと調べてきます。
——みんなが「普通じゃない」って言います。でもフィンは怖がらなかったし、ミレーヌも「気持ち悪くない」って言ってくれました。先生がいなくても、わたしの味方はいます。
目を閉じた。
来週の魔術院訪問が、急に現実味を帯びてきた。
第1話 了