ユノ・フェルティアの物語
第六章「見えないもの」
第2話「魔術院」
魔術院は、学校とは全然違う場所だった。
王都の北東、城壁の内側にそびえる灰色の建物群。学校よりもずっと大きくて、石造りの壁が高い。門に彫られた紋章は複雑な術式の図案で、マナが微かに光っている。
「ここが魔術院……」
「はい。アーヴェリア王国の魔術研究の総本山です」フィンが興奮を隠しきれない声で言った。「一般魔術体系の最先端研究が行われている場所で、宰導のラーグラム・グランは建国期から生きる伝説的魔術師で——」
「フィン、落ち着いて」
「すみません。少し興奮しています」
「少しじゃないと思う」
門の受付でハルトさんの紹介状を見せた。受付の人が紹介状を読んで、少し目を丸くした。
「フリーダ・ヴィント研究員ですね。三号棟の研究室です。案内をつけましょう」
案内人に連れられて、建物の中を歩いた。
廊下が広い。天井が高い。壁に何か文字が刻まれていて、時々光っている。
「あれは原初言語の断片です」フィンが小声で教えてくれた。「装飾ではなく、建物自体に防護術式が組み込まれているんです」
「建物に術式が?」
「はい。魔術院の建物は、それ自体が巨大な術式構造体だと言われています。すごい……」
フィンは半分観光客みたいになっていた。でもその目の輝きが、わたしを少し安心させた。
三号棟に着いた。廊下の奥のドアに「フリーダ・ヴィント」の表札。
ノックした。
「はい、どうぞ」
フリーダ・ヴィントさんは、三十代くらいの女性だった。赤茶色の髪を無造作に束ねていて、白い研究服を着ている。机の上に本と資料が山積みで、壁一面が棚になっていて、術式の図や標本が並んでいる。
「レイス・ハルト隊長の紹介状を持ってきたのは——あなたね。ユノ・フェルティアさん」
「はい」
「紹介状に書いてあった。『術式を使わずに魔物の気配を感知する能力を持つ少女。カーラ・ヴェルトの弟子。正確な調査を頼みたい』——なかなか面白い案件を持ってきてくれたわ」
フリーダさんが椅子に座って、わたしとフィンにも座るよう促した。
「まず聞くわね。この能力は、いつ頃から?」
「覚えている限り、十歳の頃からです。谷の森で魔物の狼の気配を感じました。先生——カーラ先生より先に」
「カーラ・ヴェルトより先に、ね。それは注目に値するわ。カーラ殿は感知術式の使い手としても優れていたと記録にある」
「先生は術式を使って感知していたんですか?」
「そうよ。一般的な魔術師は、感知術式——マナの探査波を放射して、反射パターンから環境情報を読み取る——を使って周囲を把握する。つまり、能動的にマナを使わないと感知はできない」
「わたしは、使わなくても分かります」
「それが問題なの。——いい意味でね」
フリーダさんが立ち上がった。
「テストをしましょう。いくつかの術式を使って、あなたの感知能力を測定する。少し時間がかかるけど、いい?」
「はい」
テストは、思っていたよりずっと本格的だった。
研究室の隣にある測定室に移動した。壁に術式が刻まれた部屋で、床にも天井にも何かの図案が描いてある。
「まずは基礎測定。マナの総量、属性親和性、感覚閾値を調べるわ」
フリーダさんが次々に術式を展開した。わたしの身体を包むように光が走って、何かが測定されていく。くすぐったいような、温かいような感覚。
「マナの総量は——平均よりやや少なめ。属性親和性は風と火に偏り。これは既知の情報ね」
「はい。先生にもそう言われました」
「次。感知テスト」
フリーダさんが小さな箱を取り出した。中に何か入っている。
「この箱の中に、微量のマナを封入したものが入っている。目を閉じて、何が入っているか当ててみて」
目を閉じた。
箱に意識を向けた——というよりは、身体が勝手に反応した。胸の奥がぞわっとする。冷たい感じ。でも弱い。
「何か——冷たいもの。水に近い?」
「正解。水属性のマナ結晶よ」
次の箱。火の属性。温かい。次は風。ふわっとする。次は土。重い。
全部当てた。
フリーダさんの目が鋭くなった。研究者の目。
「箱はマナを遮断する素材でできている。通常の感知術式では、中身を探ることはできない。あなたは——遮断壁を通り抜けて感知している」
「通り抜けて?」
「普通の感知はマナの探査波を使う。探査波は遮断壁に阻まれる。でもあなたの感知は、探査波を使っていない。別の経路で情報を得ている」
「別の経路……」
「もう少しテストを続けるわ」
テストは二時間近く続いた。
距離を変えて感知テスト。方向を変えて。複数の対象を同時に。マナの種類を混ぜて。
結果をフリーダさんが整理しながら、話してくれた。
「結論から言うわ。あなたの感知能力は——一般魔術体系では説明がつかない」
「説明がつかない……」
「前例がほとんどないの。人間でこの種の感知能力を持つ者は、記録上極めて稀。一つだけ似た報告があるとすれば——精霊族の感覚に近い」
「精霊族?」
「精霊族は原初言語を直接理解できる種族よ。彼らの感知は術式を介さない。世界の秩序——マナの流れそのものを、身体で直接読み取る。あなたの能力は、それに近い」
精霊族。原初言語。世界の秩序を身体で読み取る。
難しい話だった。でも——「身体で直接」という部分は、何となく分かる。先生が言っていた「考えるな、身体が動け」と、似ている気がする。
「でも、わたしは人間ですよね」
「見た限りでは、完全に人間よ。だからこそ不思議なの。人間でありながら精霊族に近い感覚を持つ——どうやってその能力が生まれたのか、現時点では分からない」
フィンが口を開いた。ずっと黙ってメモを取っていたフィンが。
「フリーダさん。もし定期的に測定を続ければ、原因に近づける可能性は?」
「あるわ。データが蓄積されれば、能力のメカニズムを解析できるかもしれない。——ユノさん、定期的に来てもらえるかしら。月に一度でいい」
「はい。来ます」
「ありがたいわ。正直に言うと、研究者としてはかなり興味がある。こういう症例に出会えるのは珍しいの」
魔術院を出た。
午後の日差しが明るかった。門の前で、フィンが深く息を吐いた。
「すごかったですね」
「うん。すごかった。自分のことなのに、よく分からなかった」
「前例がほとんどない、と言っていましたね。精霊族の感覚に近い——」
「フィン、それ、すごいこと?」
「すごいことです。理論的に解明できたら——論文どころの話じゃない。一般魔術体系の根幹に関わる発見になりうる」
「大げさだよ」
「大げさじゃないです。——でも」
フィンが足を止めた。
「でも、それ以前に。ユノさんがどう感じているかのほうが大事です」
「……どう感じてるかって?」
「嬉しいですか? 怖いですか? 困ってますか?」
考えた。
「……怖くはないかな。先生がいた頃からある力だから。でも——ちょっと不安ではある。『前例がない』って言われると、自分が何なのか分からなくなる」
「ユノさんは、ユノさんです」
フィンの声はまっすぐだった。
「能力が珍しかろうが前例がなかろうが、ユノさんはユノさんです。僕はそう思います。——それに、面白いじゃないですか。前例がないということは、誰もまだ知らないということです。一緒に調べましょう」
「……フィン」
「なんですか」
「ありがとう。フィンが『面白い』って言ってくれて、すごく救われた」
フィンの耳がまた少し赤くなった。
「僕は事実を——」
「事実を述べてるだけ。知ってる」
二人で笑った。
帰り道、大通りを歩きながら考えた。
先生は知っていたんだ。わたしの感知能力が「普通じゃない」ことを。「今度ゆっくり話そう」と言ったのは、きっとこういう話をしたかったんだと思う。精霊族に近い能力のこと。先生は宮廷にいた人だから、魔術院の研究のことも知っていたはずだ。
でも先生は急がなかった。ゆっくり話そうと言った。先生のペースで。わたしのペースで。
結局、話せなかった。
でも——ハルトさんが紹介状をくれて、フリーダさんが調べてくれて、フィンが一緒に来てくれた。先生が残した宿題を、他の人たちの力を借りて解いている。
一人じゃない。
——先生、魔術院に行ってきました。わたしの感知能力は「前例がほとんどない」そうです。精霊族に近いんだって。先生、知ってましたか? 多分知ってたんだろうな。先生が「今度ゆっくり話そう」って言ったのは、きっとこのことだったんですよね。
——まだ全部は分からないけど、月に一回、魔術院に通って調べてもらうことにしました。フィンが「面白い」って言ってくれたから、怖くないです。先生も「面白い」って思ったんじゃないですか?
——報告、以上です。また来月、行ってきます。
第2話 了