ユノ・フェルティアの物語

第六章「見えないもの」

第3話「いつも通りの人たち」


 森の実習の件は、あっという間に学校中に広がった。

 教室に入ると視線を感じる。廊下を歩くとひそひそ声が聞こえる。前からあった「カーラの弟子」の噂に、「術式なしで魔物を感知する」が加わって、注目が倍になった。

「ねえ、本当に術式なしで分かったの?」

「すごいね」

「怖くない? 魔物の気配が見えるって」

「見えるんじゃなくて感じるんだけど——」

「どっちでも同じでしょ」

 話しかけてくる子もいた。好奇心の目で。悪意はない。ただ珍しいから聞きたいだけ。

 避ける子もいた。目が合うとそらす。わたしの前を通る時に少しだけ距離を取る。これも悪意ではないと思う。ただ——なんとなく怖いんだろう。

 アーデルハイトが教室の前ですれ違った時、いつもの鋭い目でこちらを見た。

「術式なしで感知できるなら、便利ね」

「便利……まあ、そうかもしれない」

「実技の成績が上がるでしょ。感知系の課題は楽勝じゃない」

「いや、感知の授業は普通に術式で受けてるよ。自分のやり方だと、理論の説明ができないから」

「……変な子ね。使えるなら使えばいいのに」

 アーデルハイトはそれだけ言って去った。

 変な子、か。まあ、そうかもしれない。


 放課後。図書室。いつもの窓際の席。

「フィン、ごめん、遅くなった」

「いえ。大丈夫です。——また何か言われましたか」

「言われたっていうか、聞かれた。『本当に術式なしで?』って。もう十回くらい聞かれた」

「十回」

「うん。同じ質問に十回答えた。疲れた」

 椅子に座った。フィンがノートを広げていた。いつも通り。教科書の横に「翻訳表」が開いてある。

「今日は障壁理論の続きです」

 フィンの声はいつもと全く同じだった。変わらない。森の実習の前と後で、何一つ変わっていない。

 それが——どれだけ救いか。

「障壁のマナ圧縮効率を上げる方法ですが、前回の『面積を絞る』に加えて、もう一つアプローチがあります」

「何?」

「マナの層を重ねるんです。薄い障壁を何層にも重ねることで、一枚の厚い障壁と同等以上の強度を得られる。これは——」

「あ、先生が言ってた。『一枚の壁より、十枚の紙を重ねたほうが強い』って」

「まさにそれです。多層防御の理論ですね。一層が破られても、次の層が受け止める。個々の層のマナ消費は少ないので、マナ総量が少ないユノさんに向いていると思います」

 ノートに書いた。「多層障壁=十枚の紙=先生の教え」。

 先生の言葉が、また一つ形を変えて甦った。


 図書室を出て、訓練場に移動した。

 障壁の練習。フィンに教わった理論を、身体で試す。

 まず一枚目。薄い障壁。マナを最小限にして、紙一枚分の壁。

 二枚目。一枚目の外側にもう一枚。

 三枚目——ここで少しぶれた。三枚を同時に維持するのは、集中力が要る。

「三枚が限界です……」

「三枚なら十分です。以前は一枚すら安定しなかったでしょう?」

「うん」

「それが三枚に増えた。着実な進歩です」

 障壁を解除した。息が荒い。マナを使い切った感覚が、身体の芯にずっしり来る。

「もう一回やっていい?」

「休んでからにしてください」

「うん。少しだけ」

 訓練場の端に座った。水を飲んだ。空が紫色に染まりかけている。

「フィン」

「はい?」

「学校では、みんなわたしのことを色々言ってるけど」

「はい」

「フィンは変わらないね」

「変わる理由がありませんから」

「理由?」

「ユノさんが感知能力を持っていようがいまいが、ユノさんがユノさんであることに変わりはない。僕にとっては、放課後の勉強相手であり、実技を教えてくれる先生であり、蕪のスープを作ってくれると約束した友人です」

「……蕪のスープ、まだ作ってなかったね」

「はい。楽しみにしています」

 笑った。フィンの言う「変わる理由がない」が、何よりも嬉しかった。


 休日。街に出た。

 庶民地区は、いつも通りだった。

「おう、蕪の嬢ちゃん。久しぶりだな」

「忙しかったの」

「学校は大変だなあ。今日のは特売だぞ、三つで銅貨五枚」

「じゃあ三つ」

 ゲルトは「蕪の嬢ちゃん」としか呼ばない。感知能力のことなんか、知りもしない。知る必要もない。

 パン屋のマルタは「あら、今日は一人?」と聞いた。ミレーヌを連れてくる約束、まだ果たしていない。「今度こそ連れてくる」と答えた。

 路地の子供たちは「ユノお姉ちゃん!」と駆けてきた。「魔術見せて!」。風で落ち葉を舞い上げたら、きゃあきゃあ喜んだ。

 誰もわたしの能力のことなんか気にしない。ここではわたしは「蕪を買う女の子」であり「魔術ができるお姉ちゃん」であり、それ以上でもそれ以下でもない。

 学校で息が詰まりそうになっても、ここに来れば空気が変わる。二つの場所があることの強さ。何度も思ったことだけど、何度でも思う。


 修繕屋の前を通ったら、あの老人が店先に座っていた。

「おう。学校の嬢ちゃん。また来たのか」

「こんにちは。今日は何を直してるんですか」

「椅子の脚だ。虫に食われてぐらぐらしとる」

 椅子の脚を削って、新しい木を嵌め込んでいる。丁寧な手つき。

「前に教えてくれましたよね。『壊れた理由を見つけてから直せ』って」

「覚えとったか」

「覚えてます。大事なことだなって思ったから」

「当たり前のことだ。大事でも何でもない」

「でも、当たり前のことを言ってくれる人って、意外と少ないんです」

 老人がこちらを見た。しわだらけの顔に、少しだけ柔らかい表情。

「お前さん、何かあったか」

「え?」

「顔が疲れとる。学校で何かあっただろう」

「……ちょっとだけ。でも、ここに来たら楽になりました」

「そうか。まあ、暇なら座っていけ。椅子ならたくさんある」

 修繕を待っている椅子の一つに座った。壊れた椅子だけど、座れないほどではない。

 老人が黙々と作業する音を聞いていた。かんな、と木を削る音。やすりで磨く音。木の匂い。

 静かだった。

 学校の噂も、感知能力のことも、ここには届かない。ただ、壊れた椅子を直す音だけが聞こえる。

 先生がいた谷と同じだ。静かで、手仕事の音がして、余計な言葉がない。


 夕方、学校に戻った。

 寮に入ると、ミレーヌが言った。

「パン屋、来週行くわよ」

「え?」

「約束したでしょ。来週の休み、案内しなさい」

「——うん! 行こう!」

「だから、そんなに嬉しそうにしなくていいのよ」

 ミレーヌがそっぽを向いた。でも声は柔らかかった。


 夜。ベッドの中で障壁の練習をした。

 横になったまま、手のひらの上に薄い障壁を張る。一枚目。二枚目。三枚目。今日は四枚目に挑戦した。

 四枚目——一瞬だけ形になって、崩れた。

 でも一瞬でも四枚作れた。進歩だ。

 ——先生、障壁、少しずつ良くなってます。今日は四枚目が一瞬だけできました。先生の「十枚の紙」、まだ遠いけど、近づいてます。

 ——学校ではまだちょっとざわついてます。でも大丈夫。フィンがいるし、街の人たちは変わらないし、ミレーヌもパン屋に行ってくれるって言ってくれたし。

 ——先生、わたし、ちょっと変みたいです。でも先生も変だったから、まあいいかなって。

 目を閉じた。

 今日も一日、生き延びた。明日も、明後日も、続く。でもそれは悪いことじゃない。毎日少しずつ、障壁が厚くなって、友達が増えて、街の人たちが覚えてくれる。

 それで十分だ。


第3話 了