ユノ・フェルティアの物語
第七章「嵐と居場所」
第1話「前兆」
季節が変わりかけていた。
春の終わり。朝晩はまだ涼しいけれど、昼間は汗ばむくらいに暖かい。寮の窓を開けると、生ぬるい風が入ってくる。
入学してもうすぐ四ヶ月。学校の日常にもすっかり慣れた。授業、フィンとの勉強、街への散歩、月に一度の魔術院。繰り返しの中で、少しずつ変わっていく毎日。
でもこの頃——何かが、少しだけおかしかった。
最初に気づいたのは、授業中だった。
ベーレンス教官が黒板に向かって属性の相互作用を説明している時、ふと窓の外を見た。空は晴れている。雲が流れている。いつもと同じ。
でも——空気が、少しだけ重い。
胸の奥の、あの感覚。ぞわっとする感じ。でもはっきりしない。遠い。すごく遠い場所から、何かが——近づいてきているような。
「フェルティアくん。聞いていますか?」
「はい。すみません」
ベーレンス教官の目が鋭かった。教科書に視線を戻した。
気のせいかもしれない。でも気のせいじゃないかもしれない。先生は言っていた。「身体が先に知る」と。
昼休み。食堂で、噂が飛び交っていた。
「王都の東の農家が魔物に襲われたらしいよ」
「嘘。王都の近くで?」
「近くっていうか、郊外だけど。騎士団が出動したって」
「やだ、怖い」
フィンがわたしの向かいに座った。
「聞きましたか」
「うん。魔物の話」
「王都近郊での魔物の目撃情報が増えています。先週も騎士団の出動がありました。授業中にヴァイデル教官が注意喚起していました」
「フィン、それ理論的にあり得ることなの?」
「マナの濃度変化が魔物の行動域を変えるのは、理論的にありえます。魔物は高濃度のマナに引き寄せられる性質がある。もし王都周辺のマナ濃度に変化があれば——」
「魔物が寄ってくる」
「はい。ただ、王都には防護術式の結界があります。通常の魔物がそれを越えて接近することはない。越えてきているとすれば——何か異常が起きている」
異常。
胸の奥のざわめきが、少しだけ大きくなった。
午後の授業の後、ブラント教官が全員を訓練場に集めた。
「全員、聞け」
教官の声がいつもより低かった。
「最近、王都近郊で魔物の活動が活発化している。騎士団と魔術院が対応にあたっているが、念のため校外での活動を制限する。当面、許可なく王都の外に出てはならない」
生徒たちがざわめいた。
「学校の周辺は安全なのか」とか「実習はどうなるんだ」とか。
「学校周辺は騎士団が警備を強化している。心配はいらない。ただし——異常を感じたら、すぐに教官に報告しろ。いいな」
教官の目がちらりとわたしを見た。一瞬だけ。「異常を感じたら」の「感じたら」が、わたしに向けられた言葉だった。
放課後。図書室ではなく、校舎の屋上に上がった。
屋上は本来立ち入り禁止だけど、鍵がかかっていない。レイスが「ここから王都が一望できる」と教えてくれた場所。
屋上から東を見た。王都の屋根越しに、遠く——森が見える。あの森で、実習をした。魔狼がいた森。
目を閉じた。
身体で感じる。空気を読む。
——遠い。とても遠い。でも確かに、何かが動いている。
東の方角。森のさらに向こう。一つじゃない。複数の何かが——ゆっくりと、王都の方に近づいている。
目を開けた。
まだ遠い。今すぐ何かが起こるわけじゃない。でも——近づいている。
「嵐が来る」
口から勝手に出た言葉だった。
フィンにだけ話した。
「東の方角から、何かが近づいてる。複数。まだ遠いけど——日に日に近くなってる気がする」
「……それは、森の実習の時と同じ感覚ですか?」
「似てるけど、もっと大きい。一頭とか二頭じゃない。もっと——何か、大きなもの」
「大きなもの……」
「うまく言えない。でも身体が言ってるの。嵐が来るって」
フィンは少し考え込んだ。
「ブラント教官に伝えるべきでは?」
「うん。でも——『なんとなく分かります』だけだと、また同じだから。もう少し確かめてからにする」
「確かめる?」
「毎日同じ場所で感じてみる。近づいてるなら、日ごとに感覚が強くなるはず。三日間続けて同じ結果だったら、教官に伝える」
「——分かりました。僕も一緒に確認します。術式での感知と、ユノさんの感知を比較すれば、客観的なデータになります」
「ありがとう」
三日後。
毎日屋上に上がって、東の方角を感じた。フィンも一緒に来て、感知術式を展開した。
一日目。わたしの感覚では「遠い何か」。フィンの術式では「反応なし」。
二日目。わたしの感覚では「昨日より少し近い」。フィンの術式では「反応なし」。
三日目。わたしの感覚では「はっきり近い。方角も分かる。東北東」。フィンの術式では——「……微弱な反応があります。東北東方向。非常に弱いですが」
「出た?」
「出ました。通常の感知術式では拾えないほど微弱ですが——ノイズではありません。確かにマナの異常反応です」
「やっぱり来てる」
「はい。ユノさんの感知は——僕の術式より三日早かった」
ブラント教官に報告した。
「東北東方向。三日前から感知しています。日に日に近づいています。フィンの感知術式でも、今日微弱な反応を確認しました」
教官の顔が険しくなった。
「……分かった。騎士団に連絡する。フェルティア、お前はこのことを他の生徒には話すな。混乱を避けたい」
「はい」
「ノルデンも同様だ」
「はい」フィンがうなずいた。
教官が訓練場を出ていった。足音が早い。
その日の帰り道、レイスに会った。
「ユノ。ハルトさんから伝言だ」
「ハルトさんから?」
「『魔物の動きがおかしい。気をつけろ』——騎士団も警戒態勢に入ったらしい」
「やっぱり……」
「やっぱり? お前、何か知ってるのか」
「わたしの感知で——東から何かが来てる。まだ遠いけど、大きい」
レイスの顔が引き締まった。
「報告は?」
「ブラント教官に、さっき」
「そうか。——ユノ、何があっても一人で動くなよ。約束しろ」
「……うん」
「約束だぞ」
「約束」
夜。寮のベッドの中で、東の方角を感じた。
近い。昨日より近い。
嵐が来る。身体が言っている。先生に教わった中で一番大事なこと——「身体が先に知る」。
不安はある。でも、不安よりもっと強いものがある。
準備しなきゃ。
障壁をもう一枚増やさなきゃ。
——先生、嵐が来ます。身体がそう言ってます。先生に教わった中で一番大事なこと、覚えてます。「身体が先に知る」。
——怖くないです。嘘です、少し怖いです。でも、先生なら動く。先生なら、嵐の前に立つ。
——わたしも、先生みたいに。
第1話 了