ユノ・フェルティアの物語
第七章「嵐と居場所」
第2話「嵐が来る」
報告から三日後。王都が騒がしくなった。
朝、教室に入ると、窓の外から騎士団の馬蹄の音が聞こえた。何頭もの馬が大通りを駆けていく。生徒たちが窓に集まった。
「騎士団が出動してる……」
「何かあったのかな」
ブラント教官が教室に入ってきた。いつもの鎧の上に、さらに外套を羽織っている。顔が険しい。
「全員席につけ。連絡事項がある」
全員が席についた。空気が張り詰めている。
「今朝未明、王都東方の森から魔物の大群が確認された。騎士団が迎撃態勢を敷いている。当面、学校は閉鎖はしないが——全員、校内に待機すること。校門から出ることは禁止する」
ざわめき。悲鳴に近い声を上げた子もいた。
「慌てるな。学校の防護術式は健在だし、騎士団が前線で対応している。ここは安全だ。——ただし、万が一の場合に備えて、今日から緊急避難訓練を行う」
授業は形だけ続いた。でも生徒たちの目は教科書ではなく窓の外を見ていた。遠くから、時折鈍い音が響いてくる。
わたしは——ずっと胸の奥がざわめいていた。
近い。もうすごく近い。東の森から、大きなものが——いくつも、王都に向かって動いている。
フィンが隣の席から小声で言った。
「僕の術式でも、はっきり感知できるようになりました。複数の大型マナ反応。少なくとも十以上」
「十以上……」
「通常の魔狼とはスケールが違います。もっと大きなもの——上位の魔物かもしれません」
上位の魔物。教科書で読んだことがある。通常の魔物とは桁違いのマナを持ち、知性も高い。対処には騎士団の精鋭か、高位の魔術師が必要。
先生なら——先生なら、一人で相手にできただろう。でも先生はいない。
昼過ぎ。状況が変わった。
遠くから聞こえていた音が、近くなった。地鳴りのような低い音。窓がびりびり震えた。
「教官!」
「落ち着け。騎士団が前線を——」
轟音。
南東の方角から、大きな音が響いた。爆発のような。生徒たちが悲鳴を上げた。
ブラント教官が窓を開けた。煙が見えた。学校の校門から三百歩ほど先の通りから、黒い煙が上がっている。
「……前線を突破されたか」
教官の声が低かった。
「全員、教室に留まれ。おれが確認に行く」
教官が教室を出ていった。足音が廊下に響いて、遠ざかった。
教室の中は混乱していた。泣いている子がいる。震えている子がいる。無言で窓の外を見ている子がいる。
わたしは——感じていた。
校門の向こう。三百歩先。いくつかの大きなマナの塊が動いている。魔物だ。通常の魔狼より大きい。もっと重い。もっと冷たい。
そして——その中に、さらに大きなものが一つ。他の魔物とは桁が違う。深い。暗い。
「フィン」
「はい」
「大きいのが一体、来てる。他の魔物とは全然違う」
「分かっています。僕の術式でも反応しています。——教官や騎士団に任せるべきです」
「うん。分かってる」
分かってる。生徒は待機だ。ルールは分かる。
でも——街のことが心配だった。市場はどうなっているだろう。ゲルトは。マルタは。路地の子供たちは。外縁部の人たちは。
「ユノさん」
フィンの声。
「考えていることは分かります。でも今は動かないでください」
「……うん」
三十分が経った。
教官は戻ってこなかった。煙が減った代わりに、今度は別の方角から音がした。北東。
胸の奥の感覚が叫んでいた。
大きなものが——動いた。学校に向かっている。
「来る」
「え?」
「大きいやつが。こっちに来てる。学校の方角に」
フィンの顔が青ざめた。術式を展開した。
「……嘘でしょう。マナ反応が急速に接近——学校の防護結界が」
窓の外で、空気が歪んだ。
目に見えない壁——学校の防護術式が、何かに押されて軋んでいる。
ばきっ、と小さな音がした。
教室の窓の外に——黒い影が見えた。
大きい。建物の二階ほどの高さ。四足の獣。毛皮が黒くて、目が赤い。口から蒸気のようなものが漏れている。
教室が凍りついた。
悲鳴。
生徒たちが教室の奥に逃げた。椅子が倒れる音。泣き声。
「全員伏せろ!」
誰かが叫んだ。アーデルハイトだった。伯爵家の子は、こういう時に動ける。
わたしは——立っていた。
窓の外の魔物を見ていた。
大きい。先生が谷で斬った魔狼とは比べものにならない。上位の魔物だ。マナが濃い。冷たくて、深い。
教官はいない。騎士団は前線にいる。
ここにいるのは、わたしたちだけだ。
先生なら。
先生なら動く。
ルールは分かる。生徒は待機だ。教官の指示を待て。
でも先生は言った。「考えるな。身体が動け」。
頭と身体が——別のことを言っている。
頭は「待て」と言っている。
身体は「動け」と言っている。
魔物が首を振った。校舎の壁に向かって。
来る。
「みんな下がって!」
わたしは教室の窓側に走った。窓を開けた。冷たい空気が流れ込んだ。魔物の匂い——腐った森のような、冷たい匂い。
短杖を握った。いや——短杖を置いた。先生に教わった方法で。指先にマナを集中させた。
障壁。
一枚目。二枚目。三枚目。四枚目。五枚目——
窓の外に、五枚の障壁を張った。薄い。紙みたいに薄い。でも五枚。
魔物が、口を開けた。何かが——
「ユノさん!」
フィンの声。フィンが隣に来ていた。いつの間に。
「何やってるんですか、一人で——」
「フィン、下がって」
「下がりません。行くなら僕も行きます」
フィンの目はまっすぐだった。怖がっている。手が震えている。でも目はまっすぐだ。
「——ありがとう」
「礼は後で。今は——あれを止めないと」
第2話 了