ユノ・フェルティアの物語
第七章「嵐と居場所」
第3話「先生が教えてくれたこと」
窓から飛び出した。
校舎の二階から中庭に降りる。風歩で着地の衝撃を殺した。足元に柔らかい風。先生が教えてくれた術。
フィンが後から降りてきた。着地が少しよろめいたけど、立っている。
「ユノさん、作戦は」
「作戦なんかないよ」
「作戦なしですか」
「先生には『考えるな、身体が動け』って言われてた。——でもフィンがいるなら考えたほうがいい。フィン、あの魔物の弱点、分かる?」
フィンが魔物を見上げた。黒い四足の獣。建物二階分の巨体。目が赤い。口から蒸気が漏れている。
「形態から推測すると、闇属性の上位魔物です。マナの構成は闇が主、副属性に火がある——口から蒸気が出ているのは体内のマナ熱です。弱点があるとすれば——」
「フィン、早く」
「風です。闘属性の相性表に従えば、闇に対して風属性の攻撃が最も効果的。ただし火属性も副属性にあるので、風だけでは不十分。風と光——光属性は使えますか?」
「使えない。先生も教えてくれなかった」
「なら風で牽制して、物理で——剣で斬るしかない。銀鋼はマナを通すので、風のマナを剣に纏わせれば——」
「できる。先生に教わった」
「本当ですか」
「先生の剣術は魔術と一体だったの。剣にマナを通して斬る。先生はいつもそうしてた」
腰の銀鋼の長剣を抜いた。刀身が薄い青い光を帯びた。風のマナを通した。剣が震えた。生きているみたいに。
「フィン、援護して。術式で弱点を見つけて、わたしに教えて」
「分かりました」
魔物がこちらを見た。
赤い目が、わたしを捉えた。
大きい。近くで見ると、本当に大きい。谷の魔狼なんて比じゃない。毛皮が黒くて、マナが重くて、空気が歪んでいる。
怖い。
怖いけど——身体が動く。
先生が教えてくれたこと。「危険の、すぐ隣に立つ。それが間合いってやつだよ」。
間合いに入った。
魔物が前足を振り上げた。地面を叩く。衝撃波が来た。石畳が砕ける。
風歩。横に跳んだ。衝撃波が背中をかすめた。
「左の後足! マナの密度が薄い!」
フィンの声。術式で分析してくれている。
左の後足。そこが弱い。
走った。魔物の横を駆け抜ける。風を足に纏わせて、地面を蹴る。速い。先生に教わった速さじゃないけど、今のわたしの精一杯。
左の後足に向かって——銀鋼の剣を振った。
風のマナを纏った刀身が、黒い毛皮を切り裂いた。浅い。毛皮が硬い。でも——血が出た。
魔物が吠えた。
地面が震えた。空気が震えた。耳が痛い。
振り向いた魔物の前足が来た。
障壁。
五枚。一気に展開した。
ばきっ。ばきっ。ばきっ。三枚が砕けた。
四枚目で——止まった。
前足が、四枚目の障壁の上で止まっている。押されている。壁が軋んでいる。でも——止まっている。
「止まった……!」
五枚目はまだ残っている。四枚目も、ぎりぎり持っている。
先生。先生の「十枚の紙」。五枚しかないけど——止めた。先生の教えが、止めた。
魔物が前足を引いた。体勢を変える。
次の一撃が来る前に——
「ユノさん、頭のマナが集中しています! 何か撃ってきます!」
フィンの声。
魔物の口が開いた。奥に、赤い光が見えた。炎。火のマナが凝縮されている。
来る。
障壁では防げない。火のマナは障壁を溶かす。フィンが言っていた——「属性によって障壁の耐性が変わる」。
逃げるか。——いや。後ろには校舎がある。教室に、みんながいる。
逃げたら、あの炎は校舎に当たる。
先生。
先生は言った。「守る場所を絞れ」。
守る場所は——ここだ。この場所。わたしの後ろにある校舎。あの中にいるみんな。
障壁を張った。もう五枚は無理だ。マナが足りない。でも——一枚。最後の一枚を、全力で。
面積を絞った。わたしの身体の幅だけ。それだけの面積に、残りの全マナを注ぎ込んだ。
密度が——今までで一番高い。薄い面積に、全部のマナ。フィンが教えてくれた理論。先生が教えてくれた実践。
「フェルティア!」
ブラント教官の声が遠くから聞こえた。戻ってきた。でも間に合わない。
魔物の口から、火炎が放たれた。
障壁に当たった。
熱い。手のひらが焼けるように熱い。マナが削られていく。障壁がどんどん薄くなっていく。
でも——
持ちこたえている。
一枚の障壁が。わたしの全マナで作った、たった一枚の壁が。
火炎が止まった。魔物が息切れしたように首を下げた。
障壁はまだ残っていた。燃え残った紙みたいに、端が焦げて、ぼろぼろで。でも——残っていた。
「……止まった」
声が震えた。
次の瞬間。
風が吹いた。
上から。空から。ものすごい風圧。
魔物の上に——何かが降ってきた。
白い光。術式が空中に展開されている。見たこともない規模の術式。原初言語が刻まれた光の輪が何重にも重なって、魔物の頭上に広がった。
魔物が——動けなくなった。光に押さえつけられている。
「おい、もう大丈夫だ! 下がれ!」
ブラント教官の声。
教官の後ろから、さらに人が来た。騎士団の鎧を着た人たち。そしてもう一人——黒い外套を着た年配の男性。短杖を構えている。術式の光は、この人が展開したものだった。
魔術院の人だ。
魔物が術式に押さえつけられたまま、もがいている。だが動けない。
騎士たちが前に出て、魔物に止めを刺した。銀鋼の槍が、魔物の首を貫いた。
赤い目の光が消えた。
魔物が倒れた。
膝が折れた。
地面に座り込んだ。マナを使い切った感覚。身体の芯から力が抜けている。
「ユノさん!」
フィンが駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか。怪我は——」
「ない。大丈夫。ただ——マナが空っぽ」
「当然です。あれだけの障壁を——あんな火炎を受け止めて——」
フィンの声が震えていた。泣きそうな声。
「フィン、泣かないで」
「泣いてません。震えているだけです」
「……ありがとう。弱点教えてくれたから、戦えた」
「僕は——何も——声をかけただけで——」
「それが全然違うんだよ」
ブラント教官が来た。
「フェルティア。ノルデン。——無事か」
「はい」
教官の顔が——複雑だった。怒りと、安堵と、何か別のものが混ざっている。
「お前たち——待機命令を破った」
「はい」
「教室にいろと言ったはずだ」
「はい」
「なぜ出た」
「——先生なら動く。待てなかった」
教官が黙った。
長い沈黙。
「……今回は不問にする。だが次は——報告してから動け」
「はい」
校舎の壁に背をもたせかけて座った。フィンが隣にいた。
空が赤く染まっていた。夕焼け。でも嫌な赤ではなかった。普通の夕焼けの赤。
「フィン」
「はい」
「障壁——止まったよ」
「はい。見ていました」
「先生が教えてくれたことが、全部繋がった。『守る場所を絞れ』と『十枚の紙』と。フィンが教えてくれた理論と。全部が一つになって——止まった」
「……すごいことです。上位魔物の火炎を、障壁で——」
「先生のおかげだよ。フィンのおかげだよ」
「ユノさんの力です」
「みんなの力だよ」
先生が教えてくれたことは、谷でも街道でも王都でも、どこでも通じた。
そして先生がいなくても、自分で動ける。自分で決めて、自分で動ける。
先生の教えが、わたしの中にある。フィンの理論が、わたしの中にある。街の人たちの知恵が、わたしの中にある。全部が重なって——わたしの障壁になった。
——先生、障壁が張れました。
——魔物の攻撃を、止めました。
——先生が教えてくれたこと、全部使いました。「守る場所を絞れ」。「十枚の紙」。「考えるな、身体が動け」。「危険の隣に立て」。全部。
——先生がいなくても、わたしは動けました。先生みたいには全然できないけど。でも自分で決めて、自分で動けました。
——約束、果たしましたよ、先生。
第3話 了