ユノ・フェルティアの物語
第七章「嵐と居場所」
第4話「ここが居場所」
嵐が過ぎた。
魔物の異常発生は、騎士団と魔術院の共同対処で鎮圧された。わたしたちが戦った上位魔物は群れの先頭だったらしい。騎士団が森の中で残りの群れを押し戻し、魔術院が防護結界を再構築した。
三日後には日常が戻ってきた。授業が再開し、校門の外出制限も解除された。
でもいくつかのことは、元には戻らなかった。
教官室に呼ばれた。
ブラント教官と、ベーレンス教官と、ヴァイデル教官。三人が並んでいた。
「フェルティア。ノルデン。座りなさい」
フィンと並んで椅子に座った。
ブラント教官が口を開いた。
「先日の件について、正式に話す。——お前たち二人は、待機命令を無視して校舎から出た。これは校則違反だ」
「はい」
「だが、お前たちの行動が校舎への被害を食い止めたのも事実だ。フェルティアの障壁がなければ、火炎は校舎を直撃していた。ノルデンの属性分析がなければ、フェルティアの攻撃は的を外していた」
教官の表情が複雑だった。怒りと認可が同居している。
「今回は不問にする。だが——次は報告してから動け。お前たちだけで抱え込むな。教官も騎士団もいる。一人で全部やる必要はない」
「はい」
ベーレンス教官が続けた。
「フェルティアくん。あなたの障壁、見させてもらったわ。火炎を受け止めた壁の残骸を分析した結果——あれは極小面積に全マナを集中させた、非常に効率的な防御術式だった。理論的にも正しい。誰に教わったの?」
「先生——カーラ先生に『守る場所を絞れ』と教わりました。理論はフィンに教えてもらいました」
「カーラ先生の教えとフィンくんの理論の融合、ね。——見事だったわ」
ヴァイデル教官が微笑んだ。
「カーラ先生も、お前さんの成長を喜んでいるだろうな」
胸が熱くなった。
教官室を出た。廊下を歩いた。
「フィン」
「はい」
「怒られると思った」
「僕もです。でも——教官たちは、正しく評価してくれました」
「うん」
「ユノさん」
「うん?」
「今度から、報告してから動きましょう」
「……うん。約束する」
「でも——もし次も同じ状況になったら」
「フィンは来るの?」
「行くなら僕も行きます。それは変わりません」
笑った。フィンも笑った。
レイス・ホルツが駆けつけてきた。
廊下で待ち構えていた。
「ユノ!」
「レイス」
「無茶しすぎ! 上位魔物相手に——お前、死ぬかもしれなかったんだぞ!」
「ごめん」
「ごめんじゃない!」
レイスの目が赤かった。泣いていたのかもしれない。
「でも——無事で良かった。本当に良かった」
レイスがわたしの頭をぐしゃぐしゃに撫でた。乱暴で、でも温かい手。谷で一緒に遊んでいた頃と同じ手。
「レイス、髪がぐちゃぐちゃになる」
「知るか!」
でもレイスは笑っていた。怒っているのに笑っていた。
休日が来た。
外出制限が解除されて、最初の休日。わたしは南に歩いた。いつもの道。石畳から土の道に変わる辺り。
市場に着いた。
「おう! 蕪の嬢ちゃん! 無事だったか!」
ゲルトが大きな声を出した。
「無事だよ」
「大変だったな。魔物が来たって聞いて、市場もしばらく閉まってたんだぞ。売り上げガタ落ちだ」
「ごめんね」
「お前が謝ることじゃないだろ。ほれ、蕪。今日は特売だ。無事の祝いだ」
蕪を受け取った。大きくて白い蕪。
パン屋に行った。
「あら! あなた無事だったのね! 心配してたのよ!」
マルタが台の向こうから身を乗り出した。
「学校の近くで魔物が出たって聞いて——あなた大丈夫かしらって、毎日思ってたの」
「大丈夫だよ。ありがとう」
「今日はパン、おまけしてあげる。焼きたての丸パン、三つ持っていきなさい」
「三つも?」
「一つは自分の、一つはお友達の男の子の、一つは同室の子の分よ」
マルタは覚えてくれていた。フィンのことも、ミレーヌのことも。
路地に行った。子供たちが走ってきた。
「ユノお姉ちゃん! お姉ちゃん大丈夫だった!?」
「大丈夫だよ。みんなは?」
「うん! おれたちは大丈夫! でも怖かった!」
「うん。怖かったよね」
「お姉ちゃん、魔物やっつけたんでしょ!?」
「え?」
「兵隊さんが言ってた! 学校の女の子が魔物と戦ったって!」
「それは——えっと——」
「すっげー! ユノお姉ちゃん強い!」
噂が広がっていた。街にまで。
「強くないよ。わたしは——ちょっと壁を張っただけ」
「壁で魔物止めたんでしょ!? すっげー!」
子供たちの目がきらきらしていた。
嬉しいような、恥ずかしいような、くすぐったい気持ちだった。
修繕屋の前を通った。
老人が椅子に座っていた。
「おう。学校の嬢ちゃん。元気そうじゃないか」
「こんにちは。おじいさんも無事でしたか」
「わしは頑丈だからな。魔物が来ようが地震が来ようがびくともせんよ」
「そうですか」
「お前さん、何やら活躍したそうじゃないか」
「……聞きましたか」
「修繕屋は噂が早い。壊れたものを持ってくる人間は、口も軽いからな」
老人がこちらを見た。いつものしわだらけの顔。でも——目が少しだけ柔らかかった。
「前に言ったろう。壊れた理由を見つけてから直せ、と」
「はい」
「お前さんは——壊れそうなものを、壊れる前に見つけたんだな」
「……壊れそうなもの?」
「校舎だろう。魔物の攻撃で壊れそうだったのを、壁を張って止めた。——壊れる前に守る。それは修繕より上等だ」
「おじいさん……」
「まあ、無理はするなよ。壊れたものは直せるが、壊れた身体は直すのが難しいからな」
「はい」
広場のベンチに座った。
蕪とパンを膝の上に置いて、空を見上げた。
青い空。雲が白い。風が吹いている。春の終わりの、穏やかな空。
嵐が去って、街はまた動き出していた。市場が開いて、パン屋が焼きたてのパンを並べて、子供たちが走り回って、修繕屋のおじいさんが椅子を直している。
変わらない。
魔物が来ても、嵐が来ても、この人たちは変わらない。蕪を売って、パンを焼いて、壊れたものを直して、毎日を生きている。
これが——わたしが守りたかったものだ。
夕方。学校に戻った。
同級生たちの反応が変わっていた。
前は「カーラの弟子」「感知能力の変な子」「規格外」という目で見られていた。今は——少し違う。
「フェルティアさん、すごかったね」
「ありがとう」
「あの時、教室の中にいてさ。窓の外で障壁が光ったの見えたよ。すごいなって思った」
「別にすごくないよ。壁を張っただけ」
「それがすごいんだって」
アーデルハイトが廊下ですれ違った時、いつもの鋭い目で見てきた。
「フェルティア」
「アーデルハイト」
「……借りができたわ。あなたが壁を張ってくれなかったら、教室は——」
「借りなんかないよ。わたしは自分で動きたかっただけ」
「それでも。——ありがとう」
アーデルハイトが去っていった。背筋がまっすぐで、歩き方も堅い。でも——最後に少しだけ、振り返った。
夜。寮の屋上。
レイスが「今夜は特別に許可をもらった」と言って、屋上の鍵を開けてくれた。
星が見えた。
屋上に三人で座っていた。わたしと、フィンと、レイス。
夜風が涼しかった。もうすぐ夏が来る。
「いい星だな」レイスが言った。
「うん」
「ユノ、お前さ——谷にいた頃はこんなことになるなんて思ってなかっただろ」
「思ってなかった。先生とずっと谷にいると思ってた」
「おれもだよ。まさか王都で、お前が魔物と戦うなんて」
「わたしも信じられない」
フィンが隣で黙って星を見ていた。
「フィン、どうしたの」
「いえ。ただ——星を見ています。王都の空はあまり星が見えないと思っていましたが、今夜は見えますね」
「うん。たまに見えるんだよ」
「谷ではもっと見えたんですか?」
「うん。谷では星が——すごくたくさん見えた。先生と一緒に、よく岩場に座って星を見た」
「……いい思い出ですね」
「うん」
三人で、しばらく星を見ていた。
レイスが「おれそろそろ寝るわ」と言って立ち上がった。
「ユノ、フィン。おやすみ」
「おやすみ、レイス」
「おやすみなさい」
レイスが屋上を出ていった。
二人だけになった。
「フィン」
「はい」
「ここが——わたしの新しい居場所になりそう」
「居場所、ですか」
「うん。学校と、街と、騎士団と。フィンがいて、レイスがいて、ミレーヌがいて。ゲルトがいて、マルタがいて、子供たちがいて」
「はい」
「先生がいなくなった時、世界が終わると思った。谷を出て、一人で歩いて、王都に来て。ずっと——先生がいない世界でどうやって生きればいいか、分からなかった」
「……」
「でも今は——分かる。先生がいなくても生きていける。新しい人たちがいて、新しい場所がある。先生が教えてくれたことは全部ここにある。剣も、魔術も、障壁も、花の名前も。全部わたしの中にある」
「はい」
「だからここが——わたしの居場所」
フィンが小さくうなずいた。
「僕にとっても、です」
「え?」
「入学する前——僕はノルデン男爵家の嫡男で、家の将来を背負って、一人で全部やらなきゃいけないと思っていました。旅の途中でユノさんに出会って、一緒に勉強するようになって——一人じゃなくていいと分かりました」
「フィン……」
「ここが僕の居場所でもあります。図書室の窓際の席と、訓練場と、蕪のスープの約束がある場所」
「蕪のスープ、まだ作ってないね」
「はい。楽しみにしています」
屋上から降りて、寮に戻った。
ミレーヌが起きて待っていた。
「遅いわよ」
「ごめん。屋上で星を見てた」
「誰と」
「フィンとレイスと」
「……楽しかった?」
「うん。すごく」
ミレーヌがベッドに座って、何か考えている顔をした。
「ねえ」
「うん?」
「来週、パン屋に行くわよ。今度こそ」
「うん。行こう」
「あと——その蕪のスープってやつ。わたしにも作ってくれない?」
「もちろん!」
「……だからそんなに嬉しそうにしなくていいって言ってるでしょ」
「だって嬉しいから」
ミレーヌが少しだけ笑った。
ベッドに入った。
天井を見上げた。石の天井。谷の家の木の天井とは違う。でも——ここもわたしの場所だ。
——先生、障壁が張れました。約束、果たしましたよ。
——それと。ここが、わたしの新しい居場所になりそうです。学校にも街にも、わたしを知ってくれている人がいます。「カーラの弟子」としてじゃなく、「ユノ」として見てくれる人が、少しずつ増えてきました。
——先生がいなくても生きていけます。寂しいですけど。でも先生はずっと心の中にいます。星を見るたびに。剣を振るたびに。障壁を張るたびに。蕪のスープを作る時には——まだ作ってないけど、今度作ります。
——先生、ありがとうございます。先生がわたしに教えてくれたこと、全部覚えてます。全部大事にしてます。
——おやすみなさい、先生。
——明日も、がんばります。
第4話 了
——ユノ・フェルティアの物語 王都編 完——