第1話「玉座の朝」


白銀宮殿の廊下は、まだ喪の色に沈んでいた。

壁掛けの燭台に灯された火は最低限に絞られ、長く伸びた影が石畳の上を這っている。宮殿の中は静かだった。兵の足音も、官吏の囁きも、今はない。帝国の心臓は止まったように沈黙していた。

イルバ・イル・アルテラは、玉座の間の扉の前に立っていた。

葬礼は昨夜のうちに終わった。帝国の慣例に則り、前皇帝の亡骸は白銀宮殿の地下霊廟に安置された。列席した官吏や将軍たちの顔は、悲嘆よりも不安に満ちていた。父の死を悼む者は少ない。誰もが次を見ている。

――次は誰の時代か、と。

扉を押し開けた。

玉座の間は暗かった。天窓から差し込む明け方の光だけが、白い大理石の床を薄く照らしている。正面に据えられた玉座は、帝国を象徴するにふさわしい重厚な造りだったが、今は空虚な椅子にしか見えなかった。

イルバは歩を進めた。足音が高い天井に反響する。

三十代半ば。長い黒髪を後ろで束ね、鋭い目元には疲労の色が滲んでいる。だがその足取りに迷いはなかった。玉座の前まで来ると、段を上がることなく、その手前で立ち止まった。

椅子を見上げた。

父は強い皇帝だった。少なくとも、そう振る舞った。十将を従え、帝国の軍事力を誇示し、アーヴェリアへの侵攻を断行した。だが結果はどうだ。侵攻は膠着し、軍は消耗し、帝国の威信は傷ついた。そして父は――戦場から帰還したものの、その身体はすでに限界を超えていた。

イルバは段を上がり、玉座に座った。

冷たい石の感触が、背中に伝わる。

座った瞬間に分かった。この椅子が重いのではない。ここから見える景色が重いのだ。広間の全体が見渡せる。将軍が跪く位置、官吏が控える位置、使者が進み出る位置。すべてがこの椅子を中心に設計されている。ここに座る者の言葉が、千年の帝国を動かしてきた。

似合う、と思った。

傲慢ではない。確認だ。この椅子に座るべき人間は、今この帝国に自分しかいない。それは事実であり、事実に感情は要らない。

扉の外から足音がした。

「陛下」

書記官の低い声。白髪の老人が恭しく頭を下げている。

「報告がございます。アーヴェリア方面に展開中の四将の軍団から、帰還命令の確認が来ております。筆頭格の将軍からは返答がありません。また、別の二将が面会を求めております。本日中にとのことです」

イルバは玉座に座ったまま、書記官を見下ろした。

「帰還命令は再送しろ。全軍、例外なく」

「面会の件は――」

「まとめて明後日。個別には会わない」

短い。だが淀みがない。書記官が確認を求める前に、次の指示が出る。

「帝国財務の直近五年分の決算記録と、十将それぞれの軍団維持費の内訳を今日中に揃えろ。属州からの上納金の推移も含めて」

「十将の軍団維持費に関しては、各将軍が独自に管理している部分があり、完全な数字は――」

「あるだけでいい」

書記官は深く頭を下げ、退出した。

扉が閉まった後も、イルバは玉座から動かなかった。

この帝国の構造が、頭の中に完全に見えている。十将の勢力図、属州の経済状況、魔障域の拡大予測、周辺国の動向。すべてが一つの構造として浮かび上がり、その歪みが明確に見える。どこに力を加えれば、何が動き、何が崩れるか。

イルバにとって、帝国は棋盤のように見えていた。駒の数、配置、動ける範囲。すべて把握している。そして自分は盤を見る者ではなく、盤を傾ける者だ。

この帝国は、戦争をする余裕がないのではない。戦争を続ける構造そのものが、帝国を蝕んでいるのだ。

構造を変える。

十将を廃し、軍を縮小し、資源を内政と魔障域対策に振り向ける。それが必要な手順だと、イルバには即位の前から分かっていた。

五年。自分に与えた猶予は五年だ。その間にこの帝国を作り替える。

できるかどうかではない。やる。

イルバは玉座から立ち上がり、奥の執務室に向かった。机の上には、まだ前皇帝の印章が載っている。手に取り、一瞬だけ眺め、そのまま引き出しにしまった。

白紙の紙を広げ、筆を取った。

最初の一行。アーヴェリアからの全軍撤退を命じる、イルバ・イル・アルテラとしての最初の公式文書。

迷いなく、書いた。文面を推敲する必要はなかった。この勅令の内容は、何年も前から頭の中にあった。


その日の午後、全属州に向けて三つの布告が発せられた。

一つ、全軍の即時帰還命令。

二つ、十将による独自の軍事行動の一時凍結。

三つ、新皇帝の即位式を一ヶ月後にアルテラムで挙行すること。

帝国中がざわめいた。特に第二の布告は、十将の権限を事実上停止させるものだった。

だが誰も、公然とは反対しなかった。

前皇帝の死という衝撃がまだ生々しい、というのは表向きの理由だ。本当の理由は、三つの布告があまりに速かったことにある。崩御から半日。悲嘆に暮れる間もなく、喪服を脱ぐ間もなく、新皇帝はすでに動いていた。

その速度が、将軍たちの足を止めた。

反対を唱えるには、まず状況を理解しなければならない。だが理解する前に、すでに次の手が打たれている。追いつけない者は、立ち止まるしかない。

――イルバ・イル・アルテラは、その力学を知り尽くしていた。

人間は、理解できないものには逆らえない。逆らうには、相手の意図を把握し、対案を立て、賛同者を集める時間が要る。その時間を与えなければ、抵抗は生まれない。

即位初日にして、帝国の主導権は完全にイルバの手にあった。

執務室の窓から、夕暮れのアルテラムを見下ろす。

白銀宮殿の新しい時代が、始まった。