第3話「宰相の椅子」


セレシア・ティモテ・ヴァイスが白銀宮殿に着いたのは、秋の終わりだった。

属州での交渉を終えたばかりの長旅で、馬車の揺れがまだ身体に残っている。それでも宮殿の門をくぐる時には、背筋を伸ばし、いつもの穏やかな微笑みを浮かべていた。外交官としての習慣だ。どんなに疲れていても、人前では隙を見せない。

宰相府の設立について相談したい――皇帝からの伝言はそれだけだった。

セレシアはその短い一文から、十以上の意味を読み取っていた。「相談」とは名ばかりの、事実上の任命通告だろう。イルバ・イル・アルテラという人間は、決断する前に相談はしない。決断した後に、相手にそれを受け入れさせる場を「相談」と呼ぶ。

執務室に通された。

イルバは書類を読んでいた。セレシアが入室しても、すぐには顔を上げなかった。無礼ではない。あの男は時間の使い方にいっさいの無駄がないのだ。

「座ってくれ」

顔を上げないまま、短く言った。

セレシアは向かいの椅子に腰を下ろした。机の上を一瞥する。帝国全土の地図、属州ごとの税収一覧、そして「宰相府設置草案」と題された厚い書類の束。

「読んでくれ」

草案を差し出された。セレシアは受け取り、頁をめくった。

宰相府の権限範囲。内政全般の統括、属州との関係調整、税制改革の立案と実行、外交交渉の一元管理。現在の帝国にこれに相当する機関は存在しない。省庁は乱立し、属州ごとに異なる制度が併存し、情報は分散している。この草案は、それらすべてを一つの機関に集約するものだった。

大胆を通り越して、苛烈だった。

だがセレシアの目が止まったのは、権限の範囲ではなかった。草案の細部だ。属州ごとの現行制度との接続方法、移行期間中の暫定措置、既存の省庁との権限の切り分け。すべてが具体的で、実務を知らなければ書けない水準で詰められている。

この男は、構想を語っているのではない。設計図を完成させている。

セレシアは草案を閉じた。

「お引き受けします」

即答だった。

イルバがようやく顔を上げた。

目が合った瞬間、セレシアは背筋に冷たいものが走った。外交官として数多の権力者と対峙してきたが、この感覚は初めてだった。見透かされている、というのとは違う。見透かす必要がないのだ。この男の目は、相手の内面を読もうとしていない。すでに読み終わっている。

「条件は聞かないのか」

「草案に書いてありました」

セレシアは微笑んだ。いつもの温和な笑み。だが今回は、その笑みの裏にある芯を隠さなかった。この男の前では、隠しても意味がないと直感したからだ。

「この帝国を変えなければいけないことは、私も分かっています。属州を回ればわかります。このままでは長くもたない。陛下がそれをやるつもりなら、手を貸します」

「一つ聞いておく」

イルバの声が変わった。柔らかくなったのではない。問いの重みが増した。

「私のやり方に懸念があるとき、黙っていられるか」

「いいえ」

セレシアはきっぱりと言った。

「黙ってはいられません。懸念があれば申し上げます。宰相とはそういう椅子です」

沈黙が落ちた。

イルバはセレシアを見つめていた。品定めではない。確認だ。この女が言葉通りの人間かどうかを、見ている。

そしてイルバの口元が、ほんの僅かに動いた。笑みとは呼べないほどの変化だった。だがセレシアはそれを見逃さなかった。この男が見せる感情の幅はきわめて狭い。その中で、あの変化は最大級の肯定を意味している。

「それでいい」


宰相就任から半年。

セレシアの日々は、属州との折衝に費やされていた。税制の一本化、省庁の統合、地方行政の再編。すべてが同時に動いている。

この日は、南部の属州総督三名との会合だった。

宰相府の会議室。長卓を挟んで、セレシアと三人の総督が向かい合っている。

「税制の一本化には賛同いたしかねます」

最初に口を開いたのは、最古参の総督だった。白髪の老人で、前皇帝の時代から三十年以上その座にある。

「我が属州は独自の商業税を基盤としております。これを帝都の基準に合わせれば、税収は二割減少します。それで同じ水準の行政を維持せよというのは、無理な話です」

「おっしゃる通りです」

セレシアは穏やかに頷いた。

「あなたの属州の商業税制度は優れています。むしろ、他の属州が参考にすべき点が多い。ですから、今回の統一案にはその方式の要素をかなり取り入れました。草案の第三章をご覧いただけますか」

総督は書類をめくった。目を細めて読み進める。

「……これは」

「商業税の課税方式はあなたの属州の制度をほぼ踏襲しています。変更点は、徴収の報告義務が加わる点だけです。税率そのものは現行を維持できます」

これはセレシアが意図的に設計した妥協案だった。実質は中央集権化だが、属州側から見れば自分たちの制度が採用されたように映る。プライドを守りながら、実を取る。

会合は三時間に及んだ。最終的に、三総督のうち二名が原則合意に傾いた。残る一名も、追加条件の協議を条件に前向きな姿勢を示した。


総督たちが退出した後、セレシアは一人で会議室に残った。

椅子の背にもたれ、目を閉じた。

この半年で、確信したことがある。

イルバ・イル・アルテラという皇帝は、正しい。帝国の現状分析も、改革の方向性も、打つ手の順序も、すべて正しい。

だが正しいだけでは国は動かない。正しさを振りかざせば人は萎縮し、正しさを押しつければ人は反発する。イルバの圧倒的な明晰さは、それ自体が障壁になりうる。あの男の前に立つと、将軍ですら言葉を失う。それは統治においては力でもあり、弱点でもある。

だから宰相が要る。

イルバの正しさを、人が飲める形に変える。苦い薬に甘い衣をかぶせるのではない。薬であることを受け入れさせる。この帝国には薬が必要なのだと、一人ひとりに理解させる。

それがセレシアの仕事だった。

イルバが帝国の設計図を描く。セレシアがそれを現実にする。

二人の間に温かい信頼があるとは思わない。だが、互いの能力に対する絶対的な信頼がある。それで十分だった。個人的な好意で回る国は脆い。能力の噛み合わせで回る国は、強い。

セレシアは立ち上がった。

次の仕事がある。北部属州の行政改革案の最終確認。それから、軍務卿ハインツとの予算調整会議。

宰相の一日に、終わりはない。

だがこの椅子に座れる人間は自分だけだという自負がある。それは傲慢ではない。イルバが自分を選んだ理由を理解し、それに応えるという覚悟だ。

廊下を歩きながら、セレシアはふと思った。

あの皇帝は、自分と同じことを思っているだろうか。あの玉座に座れるのは自分だけだ、と。

――おそらく、思ってすらいないだろう。あの男にとって、それは考えるまでもない前提なのだ。

その揺るがなさこそが、イルバ・イル・アルテラの本質だった。