第4話「山脈の影」


中央山脈の麓に設営された調査拠点は、帝国の施設とは思えないほど質素だった。

布張りの天幕が数十張り並び、その中央に石積みの簡易な建屋が一棟。周囲には魔術的な防護結界が張り巡らされているが、それでも時折、山の奥から吹き下ろす風にマナの残滓が混じり、結界の表面がぴりぴりと震えた。

ロイス・イル・ベルクハルトは、建屋の中で報告書を書いていた。

机の上には、採取した土壌のサンプルが並んでいる。黒く変色した土。通常の土壌が含むマナの七倍の濃度を示した。先月の調査では五倍だった。数値は確実に上がっている。

「長官、第三班が帰還しました」

天幕の入口から、調査員の一人が報告した。ロイスは顔を上げた。

「損耗は」

「魔術暴走による負傷者が二名。重傷ではありませんが、一名は魔術行使に支障が出ています」

「撤退判断は適切だった。無理をさせるな」

調査員が去った後、ロイスは再び報告書に目を落とした。

魔障域。その名を聞いて、正確な理解を持つ者は帝国内でも少ない。

一般には「マナが乱れた土地」程度に認識されている。だが実態はそれよりも遥かに深刻だ。魔障域の内部では、マナの流れそのものが根本から変質している。通常の魔術理論が通用しない。術式は予測不能な暴走を起こし、魔獣は異常に凶暴化する。そして何より、その領域は年を追うごとに広がっている。

ロイスがこの問題に取り組み始めたのは、二十代の頃だった。

ベルクハルト家はイル――生命の神――を冠する中堅貴族で、マナの流動と生命力に関する研究を家学としてきた。ロイスは幼少期から帝国の魔術研究機関で学び、やがて魔障域に関心を向けた。

最初は学術的な興味だった。だが調査を進めるうちに、興味は恐怖に変わった。

魔障域は「異常」ではなかった。何かが、土地のマナを書き換えている。原因は外界の神々の影響なのか、それとも世界そのものの綻びなのか。分からない。分からないということが、最も恐ろしかった。

先代皇帝に報告したことがある。魔障域の拡大速度と、予測される被害範囲を示す資料を携えて。

答えは「軍務の妨げになる問題は後回しにせよ」だった。

あの時の無力感を、ロイスは忘れていない。


翌朝、ロイスは自ら調査隊を率いて山に入った。

魔障域の境界は、目に見える変化として現れる。土は黒ずみ、草木は枯れるか、あるいは異常に肥大する。空気中のマナ濃度が上がり、肌がちりちりと焼けるような感覚がある。

結界を二重に展開し、山道を登る。

周囲の景色が徐々に変わっていく。木々の幹が黒い筋模様を帯び、枝がねじれている。地面から立ち上る霧はマナの蒸散であり、呼吸すると喉に違和感が走る。

前回の最深到達点。マナ濃度が危険域に達し、引き返した場所だ。

だが今回は、新しい測定器を持ってきている。帝国の魔術研究機関が試作したもので、マナの流動パターンを記録できる装置だ。これで、魔障域の中心部がどこにあるのかを特定したい。

谷に降りた。

岩肌が露出した谷底は、通常であれば乾いた砂利道のはずだった。だが今は、岩そのものが黒紫色に変色し、表面に細かい亀裂が走っている。亀裂の奥からは微かな光――マナの漏出――が見えた。

ロイスは測定器を岩に当てた。数値を読む。

「……通常値の十二倍。しかも」

眉をひそめた。

「流れが、一方向に引かれている」

通常のマナは大気中を拡散する。だがここでは、マナが山の奥へ向かって一方向に流れていた。まるで、何かがマナを吸い込んでいるかのように。

結界の表面がびりびりと振動している。外部のマナが結界を圧迫しているのだ。

「記録を続けろ。あと十分だけだ」

十分間の測定で、重要なデータが得られた。

マナの流動パターンは、中央山脈の最深部に向かって収束している。魔障域の拡大は、中心部から放射状に広がっているのではなく、中心部が周囲のマナを吸引し、その過程で周辺の土地を変質させているのだ。

これは、ロイスの既存の仮説を覆す発見だった。

魔障域は「汚染が広がっている」のではない。「何かが中心で成長している」のだ。


アルテラムに戻ったのは、それから五日後だった。

白銀宮殿の皇帝執務室。ロイスは地図を広げ、調査結果を報告した。マナの流動パターン、中心部への収束、拡大メカニズムの新仮説。淡々と、感情を抑えて。

イルバは黙って聞いていた。

報告が終わった後、沈黙が続いた。通常であれば、ここで質問が来る。技術的な確認、スケジュール、必要な資源。

だがイルバは質問しなかった。

代わりに、地図の上で指を動かした。ロイスが示したマナの流動パターンを、なぞるように。そして魔障域の外縁から中心部までの距離を目測し、拡大速度と照合するように、二箇所を指で押さえた。

「この速度なら、封じ込めなしで八年。穀倉地帯に達するのは、私が言った十年よりも早いな」

ロイスは息を呑んだ。

報告書にはまだ書いていない数字だった。新しいデータから導かれる修正予測を、イルバはロイスの報告を聞いただけで暗算したのだ。

「……その通りです。従来の拡散モデルでは十年でしたが、吸引モデルで再計算すると八年前後になります」

イルバは頷いた。感情の変化は読み取れなかった。

「対策は二段構えだ」

ロイスが提案する前に、イルバが方針を述べた。

「外縁の封じ込め結界で拡大を抑え、並行して中心部への進入手段を開発する」

ロイスは言葉を失った。これはロイス自身が報告の最後に提案しようとしていた内容と、寸分違わぬ方針だった。

この男には、自分の報告が結論に達する前に、その結論が見えている。

「必要な資源は宰相と調整しろ。軍務卿のハインツとも話をつけろ。国境配備の一部を魔障域周辺の警備に転用させる」

具体的な指示が、よどみなく続く。ロイスが何か言う前に、すべての手順が提示される。

「陛下」

ロイスは口を挟んだ。この皇帝の前で口を挟める人間は多くない。だがロイスには、言わなければならないことがあった。

「両方を同時に進めるには、現在の予算では足りません」

「知っている。だからセレシアに話を通す。この件では、彼女も異論は出さない」

「なぜ断言できるのですか」

「穀倉地帯が死ねば帝国の税収が三割落ちる。セレシアはそれを誰よりも正確に計算できる女だ」

ロイスは沈黙した。

この皇帝は、ロイスの専門分野である魔障域を理解しているだけではない。セレシアの判断基準、ハインツの軍配備の余裕、帝国全体の資源配分のバランス――すべてを同時に把握し、その上で最適な手を打っている。

一人の人間の頭の中に、帝国の全体像が入っている。

それは畏怖に近い感覚だった。先代皇帝に無視された時とは真逆の感情。この皇帝は、見ている。魔障域の脅威を、正確に、過不足なく見ている。そしてそれに対して、打てる手をすべて打とうとしている。

「ロイス」

退室しかけたところで、名を呼ばれた。

振り返る。

「お前の仕事は、帝国で最も重要だ。私は軍を削り、行政を変え、外交を整えた。すべて、この問題に資源を集めるためだ」

ロイスは動けなかった。

五年間の改革の意味が、一言で明かされた。十将制の廃止も、中央集権化も、軍縮も――すべてがこの一点に向かっていた。魔障域。この皇帝は即位の前から、帝国の真の敵を見据え、そこに至るまでの道筋を設計していたのだ。

「……承知しました」

それだけ言って、ロイスは退室した。

廊下を歩きながら、手が震えていることに気づいた。恐怖ではない。これは、自分の仕事が正しく理解されているという安堵だ。十年以上訴え続けて、ようやく応える人間に出会えた。しかもその人間は、自分よりも先を見ている。

中央山脈の峰々が、宮殿の窓の向こうに霞んでいる。

あの山の奥で、何かが息をしている。

だがもう、一人で立ち向かうのではない。