第5話「器」


即位から五年目の冬。

白銀宮殿の御前会議室に、三つの椅子が並んでいた。

宰相セレシア・ティモテ・ヴァイス。魔障域対策長官ロイス・イル・ベルクハルト。軍務卿ハインツ・グラン・ゼルスト。

三人が同じ卓につくのは、月に一度の定例御前会議の時だけだった。通常の業務はそれぞれの管轄で完結している。だがこの月例会議だけは別だ。皇帝イルバの前で、帝国の全体像を三人で共有する。

イルバは奥の席に座っていた。五年前と比べて、外見はほとんど変わらない。少しだけ頬が削げ、目の奥に深みが増した程度。だが纏う空気は別物だった。即位直後の鋭さは影を潜め、代わりに重力のような静けさがあった。この男がいる空間は、自然と秩序を帯びる。

「始めよう」

一語で会議が始まる。イルバの声が小さいわけではない。だが叫ぶ必要がないのだ。この男が口を開けば、誰もが黙る。

「ハインツ」

「はい。帝国軍の総兵力は、十将制時代の三割まで縮小が完了しました」

ハインツ・グラン・ゼルストは五十代の男で、軍務卿としてこの席に座っているが、軍人らしい威圧感は微塵もない。地味で、堅実で、華がない。だがそれこそがイルバの選択だった。

「国境防衛は全七区画で安定運用に入っています。東部国境の再配置が最後の懸案でしたが、先月末に完了しました」

「退役兵の処遇は」

「宰相府と連携し、属州の公共事業への再雇用を進めています。目立った不満は報告されていません」

「軍事費は」

「十将制時代の四割まで削減。差額は宰相府の一般予算と、魔障域対策費に移管済みです」

数字は淡々と語られた。だがその数字の裏には五年の歳月がある。三百年続いた軍事組織の解体と再編。それを、武門出身でもないこの男が帳簿と折衝だけで成し遂げた。

旧十将の支持者たちは、ハインツを蔑んだ。「武門の恥」と。だがハインツは意に介さなかった。この男には揺るがないものがある。イルバに選ばれたという事実と、その選択が正しかったことを数字で証明し続けるという信念だ。

イルバは短く頷いた。

「セレシア」

「税制の一本化は全属州で完了しました。統一税制による初年度の歳入は、旧制度比で一割二分の増収です」

セレシアは手元の書類に一度も目を落とさなかった。すべて頭に入っている。

「属州の動向は」

「おおむね安定しています。南部の古参総督は依然として独立性を主張する発言をしていますが、実務レベルでは協力的です。自分の属州の税制が統一案の基盤に採用されたことが、彼の矜持を満たしているようです」

セレシアの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。あの老獪な総督を「自分が得をした」と思わせながら実質的に中央の統制下に置く――その設計がようやく実を結んでいる。

「外交面では、西方の王国から、共同での魔障域研究に関する打診が来ています」

イルバの目が動いた。

わずかな動きだったが、三人の全員がそれを見逃さなかった。この皇帝の反応を読み取ることは、五年間この場に座り続けた者にだけ許された技術だ。

「ロイス」

名を呼んだだけで、話題の転送が成立する。セレシアへの外交の質問ではなく、ロイスの専門的見解を求めている。それが一語で伝わる。

ロイスは腕を組んだまま、短く言った。

「データの共有は構わない。ただし調査手法と仮説は開示しない。先方の研究は表面的なマナ濃度分析に留まっている。条件をつけるなら、先方が独自に持っている西部山岳地帯のマナ分布データとの交換だ」

「その線で進めろ」

イルバの指示はセレシアに向けて発せられた。セレシアは頷いた。三者間の意思決定が、十秒で完了した。

「ロイス。魔障域の報告を」

イルバの声のトーンが変わった。他の二人は気づいた。この話題の時だけ、皇帝の声にわずかな重みが加わる。

ロイスは地図を広げた。中央山脈の等高線に、マナ濃度の分布が色分けされている。

「封じ込め結界の構築は七割まで進捗。来年の夏までに完成見込みです。完成すれば、魔障域の拡大は現在の境界線で止まります」

「中心部への進入研究は」

「実地試験に移行しています。進入ルートの候補を三つ特定しました。先月、無人探査を実施しましたが、三機とも途中で通信が途絶しました」

「原因は」

「マナ濃度による通信魔術の阻害です。奥に行くほど外部との接触が困難になる」

セレシアが口を開いた。

「有人探査に踏み切る場合、帰還の保証ができない可能性がある、ということですか」

ロイスは頷いた。

沈黙が落ちた。

この沈黙の質を、三人は知っている。イルバが黙るとき、それは感情に迷っているのではない。複数の選択肢とその帰結を、同時に検討しているのだ。

「無人探査の通信方式を改良しろ。マナ干渉を受けにくい記録装置の開発を優先させろ」

「開発には半年から一年を要します」

「構わない。有人探査の判断は、そのデータを見てからだ」

判断の保留ではなかった。判断の順序を指定したのだ。「いつ有人探査を決断するか」ではなく、「何を見てから決断するか」を定めた。この違いは大きい。前者は時間に縛られるが、後者は情報に基づく。

会議はさらに続いた。細部の調整、次月の課題、部門間の連携事項。すべてが終わると、三人は席を立った。


ロイスが最初に退室し、ハインツが続いた。

セレシアだけが、少し遅れた。扉の前で足を止め、振り返った。

イルバは席を立たず、地図を見つめていた。中央山脈の魔障域が赤く塗られた、あの地図を。

「陛下」

「何だ」

「五年が経ちました」

イルバは地図から目を上げなかった。

「五年前の初日に、三つの布告をお出しになりました。全軍撤退、十将の行動凍結、即位式の挙行。あの日から、帝国はまったく別の国になりました」

「まだ途中だ」

「ええ。ですが、ここまで来られたことは――」

「セレシア」

イルバが顔を上げた。

その目を見て、セレシアは言葉を止めた。

労いを求めていない目だった。感慨も、自負もない。あるのは、ただ前を見ている目だ。五年前も、今も、この男は同じ方向を見ている。変わったのは、見通せる距離だけだ。

「五年で作ったのは基盤だ。これからが本題になる。宰相であるお前に言うことは一つだけだ。今まで通りやれ」

セレシアは微笑んだ。

「承知しました」

退室した。


会議室に一人残ったイルバは、しばらく地図を見つめ続けた。

魔障域は赤い。五年前と変わらず、赤い。封じ込めが完成すれば拡大は止まる。だがそれは蓋をしているだけだ。中心部で何かが育ち続けている。

イルバは立ち上がった。

窓に歩み寄る。中央山脈の稜線が、冬の夕陽に白く輝いている。

五年前、この窓から同じ景色を見た。あの時は、玉座に座ったばかりの男だった。帝国の全体像は見えていたが、手の中にはまだ何もなかった。

今は違う。

十将を解いた。軍を再編した。宰相を得て、行政を統合した。魔障域対策の基盤を築いた。帝国は動いている。自分が設計した通りに動いている。

だが、まだ足りない。

セレシアに「今まで通りやれ」と言った。それは信頼であると同時に、要求だ。今まで通り、ではなく、今まで以上のことが必要になる。魔障域が本格的に対処段階に入れば、帝国の資源配分は根本から変わる。その調整ができるのはセレシアだけだ。

ロイスには「お前の仕事は帝国で最も重要だ」と言った。事実だ。だがその重要な仕事が、まだ成果を出していない。時間はある。だが無限ではない。

ハインツには多くを言わなかった。言う必要がないからだ。あの男は、言われなくてもやる。それが分かっているから、軍務卿に選んだ。

三人。

この三人を動かすことで、帝国は回っている。

そしてこの三人を動かしているのは、自分だ。

傲慢ではない。構造の話だ。帝国は棋盤であり、三人は最も重要な駒であり、自分は盤を傾ける者だ。駒が優秀であることは幸運だが、盤を傾ける方向を決めるのは自分以外にいない。

イルバは窓から離れた。

執務室に戻る。今日の仕事がまだ残っている。属州からの報告書、外交の回答案、魔障域調査の次年度予算。皇帝の一日に終わりはない。

だが、それでいい。

この帝国を動かし続ける。基盤は作った。次は、核心に手を伸ばす。

中央山脈の奥で息づく何かに。

帝国が崩れるより先に、答えを出す。

イルバ・イル・アルテラの治世は、五年を過ぎた。本当の戦いは、ここから始まる。