薬師の子
朝は鶏の声で始まる。
ルーカス・ヴィールが目を覚ますと、窓の向こうはまだ薄暗い。東の山の端がほんのりと白み始めているだけだ。隣の寝台では父がまだ寝息を立てている。今日は畑仕事のない日だから、いつもより少し遅い。
台所から音がする。母だ。
ルーカスは寝台を抜け出し、冷たい床板を素足で渡って台所に向かった。
ティナ・ヴィールは竈の前に立っていた。薪に火を入れ、鉄鍋に水を注いでいる。その傍らには、摘みたての薬草が布の上に広げられていた。明け方のうちに裏山で摘んできたのだろう。
「早いね、ルーカス」
「母さんのほうが早い」
「薬草は朝露がついてるうちがいいの。知ってるでしょ」
知っている。何度も聞いた。母はこの村の薬師だ。怪我や病にかかった者がいれば、母のところに来る。医者のいない小さな村では、薬師は頼りにされる存在だった。
ルーカスは竈の前にしゃがみ込み、火の様子を見る。薪が湿っていて、炎がくすぶっている。
「……母さん」
「ん?」
「今日、手伝っていい?」
ティナは少し驚いた顔をして、それから笑った。
「いいよ。じゃあ、乾燥棚の整理からお願い」
ヴィール家は東部の山間にある小さな村、エルデの端に建っている。
エルデ村は二十戸ほどの集落で、住民のほとんどが農業か林業で暮らしていた。王都からは馬車で十日以上。街道からも外れた辺境の村で、よその人間が訪れることは滅多にない。
ルーカスにとって、世界はこの村と、村を囲む森と山がすべてだった。
父のハロルドは寡黙な農夫で、朝から晩まで畑に立つ人だった。多くを語らないが、仕事に手を抜くことはない。ルーカスが畑を手伝うと「よくやった」と短く言う。それだけで十分だった。
母のティナは違う。よく喋り、よく笑い、よく叱る。薬師としての知識は村一番で、薬草の名前と効能を何百も暗記していた。それだけではない。母は精霊言語を少しだけ使えた。
精霊言語。
古い時代に精霊族から人族に与えられたという魔術の言語。発話することで精霊の力を借り、魔術を行使できる。習得の難度は低いが、拡張性がなく、使える術は限られる。それでも、辺境の村にとっては十分すぎる力だった。
母がその力を使うのを、ルーカスは幾度か見たことがある。
その日は、昼過ぎに村の北側の農家から使いが来た。
「ティナさん、牛がおかしいんだ。朝から餌を食わなくて、ずっと横になってる」
老農夫のゲルトが、息を切らして駆け込んできた。ゲルトの家の牛は村で一番の働き手で、この牛がいなければ秋の収穫に支障が出る。
「見せて」
ティナはすぐに薬箱を持って出た。ルーカスも後をついていく。止められるかと思ったが、母は何も言わなかった。
ゲルトの納屋に着くと、大きな茶色の牛が藁の上に横たわっていた。目は開いているが、焦点が合っていない。腹が不自然に膨れている。
ティナは牛の腹に手を当て、しばらく黙って触診した。
「毒草を食べたね。たぶんトリカブトの若芽。この時期、山際の草地に混じることがある」
「助かるのか」
ゲルトの声が震えている。
「大丈夫。まだ間に合う」
ティナは薬箱から数種類の薬草を取り出し、手早く調合を始めた。乳鉢で擂り潰し、水で溶く。だが、途中で手を止めた。
「……これだけだと、吸収が遅い」
呟いて、ティナは腰のポーチから小さな石を取り出した。薄緑色に光る、親指の先ほどの石。マナ結晶だ。この辺りの山で、ごく稀に採れる。
ティナは結晶を掌に載せ、目を閉じた。
そして、唇が動いた。
聞き慣れない言葉だった。柔らかく、流れるような音の連なり。意味はわからない。だが、その言葉が紡がれるたびに、掌の上のマナ結晶が淡く光り、調合された薬湯の表面がかすかに波立つ。
精霊言語だ。
ルーカスは息を止めて見ていた。
光が薬湯に溶け込む。ティナが牛の口元に器を寄せると、牛はゆっくりと舌を動かし、薬湯を飲み始めた。
しばらくして、牛の呼吸が落ち着いた。膨れた腹が、わずかに楽になったように見える。
「今夜は様子を見て。明日の朝にはだいぶ良くなるはず」
「ティナさん……ありがとう。本当にありがとう」
ゲルトが何度も頭を下げる。ティナは「大丈夫だから」と穏やかに笑って、納屋を出た。
帰り道、ルーカスは母の隣を黙って歩いていた。
夕暮れの山道。西の空が橙色に染まり、森の影が長く伸びている。虫の声が遠くに聞こえる。
「母さん」
「ん?」
「さっきの……精霊言語って、何をしたの?」
ティナは少し考えてから答えた。
「薬草の力を、引き出したの。薬草にはマナが含まれてる。ほんの少しだけど。精霊言語で語りかけると、そのマナが活性化して、薬の効きが良くなるの」
「すごい」
「すごくないよ。王都の魔術師が見たら笑うくらい、小さな術だよ」
ティナはそう言って、少し寂しそうに笑った。
「でも、この村にはこれで十分。ゲルトさんの牛が助かるなら、それでいいの」
ルーカスは母の横顔を見上げた。夕日に照らされた横顔は、穏やかで、少し疲れていて、でも満足そうだった。
「……僕も、できるようになる?」
「精霊言語?」
「魔術。母さんみたいに」
ティナは足を止めた。ルーカスを見下ろす。その目に、一瞬だけ複雑な光が過ぎった。嬉しさと、不安と、何か別のもの。
「ルーカス。あんたには才能があると思う」
「え?」
「前から感じてた。あんたがマナ結晶を触ると、光り方が変わるの。普通の子供じゃそうならない」
知らなかった。ルーカスは自分の手を見た。何の変哲もない、子供の手。
「でもね」
ティナはしゃがみ込み、ルーカスと目の高さを合わせた。
「魔術は道具だよ、ルーカス。鍬と同じ。鋸と同じ。大事なのは、それで何をするか。何に使うかは、自分で決めなさい」
その言葉は、幼いルーカスにはまだ重すぎた。だが胸のどこかに、小石のように落ちて沈んだ。
「……うん」
「よし。帰ろう。父さんがお腹空かせてるよ」
ティナが立ち上がり、歩き出す。ルーカスはその背中を追いかけた。
それから二年が経った。
ルーカスは十二歳になっていた。母の手伝いを続けるうちに、薬草の知識はかなり身についた。精霊言語は教わっていない。母が教えなかったのではなく、ルーカス自身が「まだいい」と言ったのだ。
理由は、自分でもよくわからなかった。ただ、母の使う精霊言語は母のものであって、自分が同じことをするのは違う気がした。漠然とした直感でしかない。
ある日の夕方、母に呼ばれた。
「ルーカス、ちょっと来て」
居間の卓に、見慣れない紙が置かれていた。厚手の羊皮紙に、丁寧な文字が並んでいる。
「村長のモルドさんと相談してね。あんたを王都魔術学校に推薦することにしたの」
ルーカスは言葉を失った。
王都魔術学校。名前だけは聞いたことがある。アーヴェリア王国の魔術師を育てる教育機関。入るには試験があり、貴族の子弟が多いと聞く。辺境の農村の子供が行くような場所ではない。
「推薦があれば、試験を受ける資格がもらえるの。受かるかどうかは別だけど」
「……母さん、でも、お金は」
「モルドさんが村の基金から出してくれる。あんたが村にいてくれるのはありがたいけど、この村じゃ、あんたの才能は活かしきれないって」
ティナは淡々と説明したが、目の端が少し赤かった。
「母さんは……どう思うの」
「私は、あんたに広い世界を見てほしい。この村が嫌いなわけじゃないよ。でもね、ルーカス。あんたの目は、もっと遠くを見るようにできてる」
ルーカスは黙った。
父のハロルドが、仕事から戻ってきた。居間に入り、卓の上の羊皮紙を一瞥し、ルーカスを見た。
「行きたいのか」
短い問いだった。父はいつもそうだ。
「……わからない」
正直に答えた。行きたいかどうか、わからない。ただ、母の言葉が胸に引っかかっている。「あんたの目は、もっと遠くを見るようにできてる」。そうなのだろうか。自分にはこの村の景色しか見えていないのに。
ハロルドは腕を組み、少し考えてから言った。
「わからないなら、行け」
「え?」
「わかってるやつは迷わない。わからないってことは、まだ見てないものがあるってことだ。見てから決めればいい」
父が、こんなに長く喋るのは珍しかった。ルーカスは父の顔を見た。無表情だったが、目だけが少し柔らかかった。
旅立ちの朝は、よく晴れていた。
村の入り口に、小さな荷馬車が一台。月に一度、街道沿いの町まで往復する行商人の馬車に便乗させてもらう手筈だった。そこから先は乗合馬車を乗り継いで王都まで。村長のモルドが手配してくれた路銀と紹介状がある。
村人が何人か見送りに来ていた。ゲルトが「元気でやれよ」と肩を叩き、隣家のおばさんが干し肉の包みを押し付けてきた。
父は少し離れた場所に立っていた。腕を組んで、いつもの無表情で。だがルーカスが目を合わせると、小さく頷いた。それだけで、十分だった。
母が近づいてきた。
「はい、これ」
手のひらに載せられたのは、小さなブローチだった。木の葉を象った銀色の細工。中央に、小さな薄緑の石が嵌め込まれている。
「マナ結晶……?」
「私のお守り。若い頃に自分で作ったの。大した術式は入ってないけど、あんたが持ってて」
ルーカスはブローチを受け取った。掌の中で、微かに温かい。母のマナが残っているのかもしれない。
「母さん」
「泣かないよ、私は。あんたも泣かないでよ」
泣いていなかった。泣きそうではあったが、堪えた。
「……行ってきます」
「行っておいで。何に使うかは、自分で決めなさい」
同じ言葉だった。二年前の夕暮れの山道で聞いた言葉と、同じ。
荷馬車に乗り込む。御者が手綱を引き、馬がゆっくりと歩き出す。
振り返ると、村が遠ざかっていく。山に囲まれた小さな集落。畑と森と、低い屋根の家々。見慣れた景色が、少しずつ小さくなる。
母が手を振っている。父は腕を組んだまま立っている。
ルーカスは掌のブローチを握りしめた。
何のために魔術を学ぶのか。
まだ、わからない。
でも母は言った。何に使うかは、自分で決めろと。ならば、まずは見に行こう。この村の外に何があるのかを。
馬車が森の中に入り、村が木々の向こうに消えた。
朝の光が、木漏れ日となって荷台に落ちる。ルーカスは前を向いた。
見たこともない世界が、その先に広がっているはずだった。