石畳の街


王都は、音の街だった。

馬車の車輪が石畳を叩く音。商人の呼び声。鍛冶屋の槌音。どこかで犬が吠え、子供が笑い、鐘が鳴る。エルデ村では聞こえなかった音が、絶え間なく重なり合って空気を満たしている。

乗合馬車を降りたルーカスは、街道から王都の大門をくぐった瞬間、足が止まった。

広い。

道が広い。建物が高い。人が多い。それだけのことなのに、身体がすくむ。村の道幅は馬車一台がやっと通れるくらいだった。ここは十台が並んでも余る。石畳は白く磨かれ、建物の壁には魔術刻印の装飾が施されている。空を見上げると、尖塔の先端が青空を突いていた。

「邪魔だよ、坊ちゃん」

後ろから荷車を引いた男に声をかけられ、慌てて道の端に寄る。人の流れに押し出されるように歩き始めた。

村長からもらった地図を頼りに、魔術学校を目指す。だが地図と現実が一致しない。路地が入り組んでいて、目印にすべき建物が多すぎる。三度ほど道を間違え、日が傾き始めた頃、ようやく学校の正門が見えた。

高い石の門柱。鉄柵の向こうに、広い中庭と古い石造りの校舎。門柱には「王都魔術学校」の銘板が掲げられている。

ルーカスは門の前で、もう一度足を止めた。

ここが、これからの場所だ。


入学手続きは事務棟で行われた。

手続き自体は淡々としていた。推薦状と身元証明を提出し、寮の部屋番号と時間割を受け取る。事務官は慣れた手つきで処理を進め、ルーカスの出自について特に何も言わなかった。

問題は、その後だった。

寮に向かう途中、同じく荷物を抱えた新入生たちとすれ違う。彼らの服を見て、ルーカスは自分との差を初めてはっきりと意識した。

仕立ての良い外套。革の鞄。腰帯に下げられた短杖は、どれも工房の銘が入った品物だ。魔術刻印が丁寧に施された短杖。ルーカスが持っているのは母の手製ブローチだけ。短杖はない。魔導書もない。入学時に最低限必要な教材は学校から貸与されるが、自分の魔術道具を持っている学生と持っていない学生の差は、最初の一歩から歴然としていた。

寮の部屋は二人部屋だった。相部屋の学生はまだ到着していない。簡素な寝台と机が二組。窓の外は中庭に面している。

荷物を置き、寝台に腰を下ろす。

静かだ。王都は音の街のはずなのに、この部屋は静かだ。村の夜には虫の声があった。風が木々を揺らす音があった。ここにはそれがない。石の壁に囲まれた、四角い静寂。

ブローチを取り出して、掌に載せた。薄緑の石が、窓からの夕日を受けて光る。

「……遠いな」

呟いた言葉は、壁に吸い込まれて消えた。


翌日から、授業が始まった。

初日は学科の説明と基礎理論の講義。階段教室に百人以上の新入生が座り、壇上の教官が魔術の基本体系を概説する。

一般魔術言語の基礎。マナの性質と操作の原理。属性の分類。術式の構造。

ルーカスは講義に問題なくついていけた。母から教わった知識の断片が、体系的な理論の中に位置づけられていくのは新鮮だった。母の精霊言語は「対話ベースで魔術を扱う」旧い体系だが、その根底にあるマナの原理は一般魔術言語と共通している。

だが、午後の実技で差がついた。

実技室に移動し、教官の指示で基本的なマナ操作を行う。掌にマナを集め、小さな光球を生成する初歩中の初歩。

ルーカスは教材として貸与された練習用の短杖を手に取った。杖に刻まれた基本術式を通じてマナを操作する。光球は生成できた。だがその大きさと安定性は、貴族の子弟たちのそれに明らかに劣っていた。

理由はわかる。道具の差だ。

貸与品の短杖は最低限の術式しか刻まれていない。一方、自前の短杖を持つ学生たちのそれには、マナの流路を安定させる補助術式が組み込まれている。操作の精度が、道具の質によって底上げされているのだ。

才能の差ではない。環境の差だ。頭ではわかっている。だが、隣で涼しい顔をして安定した光球を維持している学生を見ると、胸の奥が冷たくなる。

「はい、そこまで。よくできました。次の課題に移りましょう」

教官の声で光球を消す。ルーカスは短杖を机に置き、自分の手を見た。

この手に、才能があると母は言った。本当だろうか。


最初の一週間で、ルーカスは学校の空気をおおよそ掴んだ。

学生の大半は貴族の子弟だった。公爵家や侯爵家のような大貴族は少ないが、男爵家や騎士の家系の子女が多い。彼らは入学前から家庭教師に基礎を教わっており、既に一般魔術言語の初歩を身につけている者もいた。

平民出身の学生もいる。だが少数派で、自然と固まる傾向があった。食堂の端、教室の後方。誰に言われたわけでもなく、暗黙の線引きがある。

ルーカスはその線引きに苛立ちを覚えなかった。怒りというよりは、困惑だった。

エルデ村には貴族も平民もなかった。皆が同じように畑を耕し、同じように森に入り、同じように暮らしていた。身分という概念は知識としては知っていたが、肌で感じたことはなかった。

ここでは、違う。

自己紹介の時間。名前と出身を聞かれて、「ルーカス・ヴィール、東部のエルデ村です」と答えた時の、周囲の微妙な空気。悪意ではなかった。見下しでもなかった。ただ、「ああ、そういう枠ね」という分類が、一瞬で完了する。

あの空気が、一番こたえた。


二週目の終わり。夕食の後、ルーカスは一人で中庭のベンチに座っていた。

日が落ちて、中庭には魔術灯の淡い光が点っている。校舎の窓からは自習室の灯りが漏れ、遠くの寮棟から話し声が風に乗って聞こえてくる。

手元には貸与品の教科書が開かれている。魔術工学の入門。術式を道具に刻み込む技術の基礎理論。この科目だけは、ルーカスにとって妙にしっくりきた。

魔術を「使う」のではなく、「仕組みを理解して組み立てる」。

母が薬草を調合するのに似ている。素材の性質を理解し、組み合わせ、目的に合った形に整える。派手さはないが、理に適った手順を踏めば、必ず結果が出る。

教科書を読みながら、ルーカスはふと思った。

自分は何のためにここにいるのだろう。

母は言った。何に使うかは自分で決めろ、と。父は言った。わからないなら行け、と。だから来た。来たはいいが、来てみてもわからないままだ。

魔術を学んで、それで何をする。村に帰って母のように薬師をやるのか。王都で魔道具工房に就職するのか。魔術院の研究者になるのか。どの道も想像がつかない。

自分には、フィリスのような火がない。

――まだフィリスとは出会っていない。

だからそれは、後から振り返って思うことだ。この時のルーカスはただ漠然と、自分の中に何かが足りないことだけを感じていた。

ブローチを取り出す。母の手製。薄緑の石が、魔術灯の光を受けてぼんやりと光る。

「何に使うか、か」

答えは出ない。

中庭の向こうで、寮の灯りがひとつ、またひとつと消えていく。ルーカスは教科書を閉じ、ベンチから立ち上がった。

明日も授業がある。実技の課題も溜まっている。考えても仕方のないことは、後回しにするしかない。

石畳を踏んで寮に戻る。靴底が小さく鳴る。エルデ村の土の道とは違う、硬い、冷たい音。

この街にはまだ慣れない。

この場所が自分の居場所だとは、まだ思えない。

だがルーカスは、逃げ出そうとも思わなかった。理由はうまく言えない。ただ、まだ何も見ていない。来たばかりで、何もわかっていない。わからないなら、もう少しだけ見てからでいい。

父の言葉が、不意に蘇る。

「わからないなら、行け」

行った。来た。だからもう少しだけ、ここにいよう。

寮の廊下は静かだった。自室の扉を開ける。相部屋の学生はもう眠っている。

寝台に横になり、天井を見上げる。石の天井。星は見えない。

目を閉じる。

明日もこの石畳の街で、自分の足で歩く。それだけが、今のルーカスにできることだった。