隣の席


魔術工学の講義室は、校舎の東棟にある。

階段教室ではなく、平坦な部屋に長机が並ぶ形式だ。基礎理論や属性魔術学の大講義に比べると受講者は少なく、三十人ほどが散らばって座っている。魔術工学は地味な分野だ。戦闘に直結しない。貴族の子弟が好んで選ぶ科目ではなかった。

だからこそ、ルーカスにとっては居心地のいい場所だった。

入学から一ヶ月が過ぎていた。基礎理論の講義には慣れた。実技の差は相変わらずだが、筆記の成績は悪くない。少なくとも「ついていけない」という恐怖は薄れてきた。

魔術工学の講義では、特に手応えを感じていた。術式を構造として捉え、分解し、再構成する。母の薬草調合と同じだ。素材を知り、性質を見極め、組み合わせる。そこに才能というよりは、慣れ親しんだ思考の型があった。

その日の講義は、魔道具の基本構造についてだった。

「魔道具とは、位階言語の術式を物質に定着させたものです。術式を刻むための媒体、マナの流路、そして起動条件。この三つが揃って初めて魔道具として機能します。では、起動条件の設計において最も重要な要素は何でしょうか」

教官が問いかける。教室に沈黙が落ちた。

ルーカスは少し考えてから、手を挙げた。

「使用者のマナとの親和性、でしょうか。起動条件がどれほど精密でも、使用者のマナ特性と合わなければ術式が正常に動作しない。だから起動条件の設計は、術式の精度よりも先に使用者との整合性を考えるべきだと思います」

教官が頷いた。

「その通りです。これは初学者が見落としやすい点ですね。術式の完成度を追い求めるあまり、使用者との適合を後回しにするケースが多い。良い着眼点です」

小さな達成感。大したことではない。だが、自分の考えが的を射ていたという感触は、確かに心地よかった。

講義が終わり、教材を片づけていた時だった。

「おい」

隣の席から声がかけられた。

振り向くと、青年が一人、机に頬杖をついてこちらを見ていた。

茶色の髪を無造作に後ろに流した、やや細面の顔。目つきは鋭いが、口元には気安い笑みがある。外套は仕立てが良いが着崩していて、貴族の子弟にしては妙にくだけた空気を纏っている。

ルーカスは一瞬、この青年が自分に話しかけているのかどうか判断がつかなかった。

「お前だよ。さっきの質問のやつ」

間違いなく自分だった。

「……何でしょうか」

「いい着眼点だったな、さっきの。使用者との親和性。教科書の最初に書いてあることだけど、実際にあの場で言えるやつは少ない」

「教科書の最初に書いてあるなら、別に大したことでは……」

「教科書に書いてあることを、ちゃんと自分の頭で理解して答えられるのは大したことだよ。丸暗記して吐き出すのとは違う」

ルーカスは返す言葉に困った。褒められているのだとは思うが、初対面の相手にこうも率直に言われると、どう反応していいかわからない。

青年が手を差し出した。

「フィリス・ヴァン・レーヴェル。東部の子爵家。お前は?」

「ルーカス・ヴィール。東部のエルデ村です」

「東部? うちも東部だ。どのあたりだ」

「山間の小さな村で、街道からだいぶ外れた――」

「ああ、あの辺りか。うちの領地の北のほうだな。近いじゃないか」

フィリスは笑った。気取りのない、歯を見せる笑い方だった。

ルーカスは差し出された手を、少し遅れて握り返した。


それ以降、フィリスは当然のようにルーカスの隣に座るようになった。

魔術工学だけではない。基礎理論の大講義でも、食堂でも、気がつけば隣にいる。最初は戸惑ったが、フィリスの態度があまりにも自然なので、断る隙がなかった。

「お前、昼はいつも一人で食ってるだろ。こっち来いよ」

「いえ、別に一人でも――」

「一人で食う飯は不味いだろ。俺もこの学校に知り合いがほとんどいないんだ、付き合え」

嘘だった。フィリスには既に何人かの知り合いがいた。だが彼は、そういう相手とは食堂で軽く挨拶を交わす程度で、わざわざ席を共にしようとはしなかった。

ルーカスは不思議に思った。

「フィリスは、なんで僕なんかに声をかけたんだ」

ある日の昼食時、率直に聞いた。

フィリスはパンを千切りながら、少し考える素振りを見せた。

「理由がいるか?」

「普通はある」

「そうか。じゃあ、面白いからかな」

「面白い?」

「お前、周りの顔色を見て動くやつじゃないだろ。講義で手を挙げるのも、一人で飯を食うのも、別に意地を張ってるわけじゃなくて、ただそうするのが自然だからそうしてる。そういうやつは珍しい」

ルーカスは黙った。自分では、ただ他にやり方を知らないだけだと思っていた。

「それに」

フィリスが付け加えた。

「東部の人間だしな。同郷みたいなもんだ」

同郷。子爵家の嫡男と、農村の平民。同郷といえば同郷だが、その距離はあまりにも違う。

だがフィリスは、その距離を距離だと思っていないようだった。少なくとも、態度にそれが出ない。貴族が平民に接する時の、あの微妙な「格差の自覚」がフィリスにはなかった。見下すのでもなく、気を遣うのでもなく、ただ対等に話す。

それが天然なのか計算なのか、ルーカスにはまだわからなかった。


一ヶ月ほどが経つと、二人の関係は自然と定まっていった。

講義では隣に座り、わからない箇所を教え合う。フィリスは魔術の才能では突出しないが、物事の全体像を掴む力があった。「この術式は何のためにあるのか」「この理論は実際にどう使われるのか」。そういう問いを立てるのが上手い。

一方、ルーカスは細部に強かった。術式の構造を分解し、問題点を洗い出し、修正案を考える。「ここの流路設計がおかしい」「この結合部分は別の方式のほうが安定する」。教官も感心するような指摘を、さらりとやってのける。

「お前と組むと捗るな」

フィリスが言った。課題の魔道具設計で、二人の提出物が学年でも上位の評価を受けた日のことだった。

「フィリスが方向性を決めてくれるから、僕は細かいところに集中できるんだよ」

「つまり俺が大雑把ってことか」

「そうは言ってない」

「言ってるだろ」

フィリスが笑い、ルーカスも少し笑った。

こういう時間は悪くなかった。自分の力が、誰かの役に立っている。それも、見返りを求められるわけでもなく、ただ一緒に課題をやって、結果が出て、互いに納得する。単純だが、ルーカスにとっては初めての経験だった。

村では、母の手伝いが自分の役割だった。それは大切なことだったが、同時に「母の延長」でしかなかった。ここでは違う。自分の考えが、自分の判断が、直接結果に繋がる。

小さなことだ。課題の評価が良かった、それだけのこと。

だが、その小さな手応えが、ルーカスの足を学校に繋ぎ止めていた。


フィリスという人間の輪郭が見え始めたのは、もう少し後のことだった。

ある日の放課後、食堂で二人で茶を飲んでいた時、上級生の一団が近くの席に座った。声が大きく、話の内容が嫌でも耳に入ってくる。

「カドレイユ家の推薦枠、今年も三人だってさ。あそこの連中は最初から魔術院のポストが約束されてるんだから気楽なもんだ」

「まあ、金と人脈があるからな。実力じゃなくて家の看板で席を取る。昔からそうだろ」

「そのくせ、平民が上に行くと邪魔しにかかる。うちの兄貴も院で苦労したって言ってたぞ」

ルーカスは茶を啜りながら、聞き流そうとした。だがフィリスの表情が変わっていた。

笑みが消えていた。いつもの気安い顔ではない。目が据わっている。

「フィリス?」

「……ああ、悪い」

フィリスは視線を茶杯に落とし、小さく息を吐いた。

「カドレイユ、か」

呟くような声だった。

「知ってるのか」

「知ってるも何も、東部の人間でカドレイユを知らないやつはいない。南部の大貴族だ。魔術院に太い人脈を持ってて、自分たちの派閥に都合のいい方向に院を動かしてる」

ルーカスは貴族の政治にはまるで疎かった。だがフィリスの声に、普段にはない硬さがあることは感じ取れた。

「東部には何もこない」

フィリスが言った。

「予算も、人材も、院の支援も。中央と南部で回して終わりだ。東部は辺境だから後回し。昔からずっとそうだ。うちの親父は何度も陳情したが、まともに取り合ってもらえなかった」

「……」

「王家は弱ってる。カドレイユは自分たちの利権しか見てない。誰もこの国の全体を見ようとしない」

フィリスは茶杯を置いた。

「だから俺は、自分でやるしかないと思ってる」

ルーカスは黙って聞いていた。

フィリスの目が、真っ直ぐにこちらを見た。

「ルーカス。お前は、この国がどうなるべきだと思う?」

唐突な問いだった。ルーカスは答えに詰まった。

「……わからない。僕は村のことしか知らない」

「正直だな」

「正直というか、本当にわからないんだ。政治のことは」

フィリスは少し間を置いて、それから笑った。いつもの気安い笑みに戻っていた。

「それでいい。わからないなら、これから見ればいい。俺は自分の目で見て、自分で考えて、自分で動く。お前もそうだろ」

そう言って、フィリスは冷めた茶を一気に飲み干した。

ルーカスは何も答えなかった。

だが、この時初めて、フィリスの中にある「火」の正体を少しだけ垣間見た気がした。単なる人懐っこさではない。この男の奥には、静かに燃えている怒りがある。現状への怒り。変わらないものへの苛立ち。それを「野心」という形に鋳込んで、前に進もうとしている。

眩しい、と思った。

同時に、自分にはあれがないとも思った。

フィリスには目指す場所がある。自分にはない。隣にいるのに、見ている景色がまるで違う。


寮に戻る帰り道、中庭を二人で歩いていた。

日が暮れかけて、魔術灯が一つずつ点り始めている。

「なあ、ルーカス」

「ん?」

「お前、魔術工学が好きだろ」

「好き、というか……しっくりくる、という感じだけど」

「同じことだ。しっくりくるものを見つけてるだけ、お前はましだよ。この学校の半分は、親に言われたから来ただけの連中だ」

ルーカスは少し驚いた。フィリスのような人間が、そういう見方をするとは思わなかった。

「フィリスは違うのか。言われたから来たんじゃなくて」

「俺は自分で来た。東部を変えるには、王都を知らなきゃいけない。この学校は、そのための手段だ」

迷いのない声だった。

ルーカスは、掌のブローチに触れた。癖になっている。迷った時、考え込んだ時、無意識にブローチに手が伸びる。

「……僕は、まだ手段も目的もない」

「焦ることはないだろ。お前はまだ一年目だ。俺だって、最初からこうだったわけじゃない」

「嘘だろ。最初からこうだったんじゃないのか」

フィリスが一瞬きょとんとして、それから声を出して笑った。

「ひどいな。そんなに単純に見えるか」

「単純というか、真っ直ぐだなと思って」

「褒めてるのか?」

「半分くらい」

フィリスがまた笑う。ルーカスも、少しだけ口元が緩んだ。

寮の入り口で別れる。フィリスの部屋は二階、ルーカスは三階だ。

「じゃあな。明日の魔術工学、また隣座るぞ」

「別に席は決まってないんだから、好きに座ればいい」

「だから隣に座るって言ってるんだ」

手を振って階段を上がっていくフィリスの背中を見送り、ルーカスは自室に戻った。

寝台に腰を下ろす。ブローチを取り出して、掌に載せる。

「こいつは何を考えているんだ」

小さく呟いた。

わからない。フィリスの野心も、自分に声をかけた本当の理由も、まだわからない。

でも。

嫌いじゃない。

それだけは、確かだった。