卒業と東へ
三年は、あっという間だった。
フィリスがそう言っていたのを思い出す。二年目の秋、祭りの夜に。あっという間だ、と。その通りだった。
卒業式は晴天だった。
王都魔術学校の中庭に椅子が並べられ、卒業生が整列している。壇上では学長が式辞を述べている。形式的な言葉が風に乗って流れていく。
ルーカスは列の中ほどに座り、ぼんやりと空を見上げていた。雲一つない青空。王都に来た日のことを思い出す。石畳の硬さに怯え、人の多さに圧倒された日。あれからもう三年か。
隣を見る。フィリスがいるはずだが、名前の並びが違うので席は離れている。遠くの列に、見慣れた茶色の髪が見えた。フィリスは壇上に目を向けていたが、退屈そうに指で膝を叩いていた。
式辞が終わり、一人ずつ名前を呼ばれて卒業証書を受け取る。
「ルーカス・ヴィール」
壇上に上がる。学長から証書を受け取り、礼をする。拍手。ただそれだけのことだが、手の中の紙が、三年間の重さを持っている気がした。
席に戻る途中、フィリスと目が合った。フィリスが小さく笑い、拳を上げてみせた。ルーカスは軽く頷き返した。
式の後、中庭は賑わっていた。
卒業生同士で別れを惜しむ者、家族に囲まれて写真を撮る者、教官に挨拶に行く者。人の輪がいくつもできて、笑い声と話し声が溢れている。
ルーカスの周りには、誰もいなかった。
別に寂しくはない。三年間、フィリス以外に親しい友人と呼べる相手は作れなかった。平民出身の学生とは何人か顔見知りにはなったが、深い付き合いには至らなかった。貴族の学生とは、最後まで壁があった。
ルーカスは中庭の端のベンチに座り、卒業証書を眺めていた。
成績表が同封されている。魔術工学・応用課程、首席。総合成績、上位一割。悪くない。いや、十分すぎるほどだ。東部の農村から出てきた平民としては、これ以上望めない結果だろう。
だが、その結果が何に繋がるのかが、まだ見えない。
応用課程の教官からは、王都の工房への推薦状を書くと言われた。老舗の魔道具工房で、腕の良い職人が何人もいる。安定した仕事だ。技術を磨ける環境でもある。
魔術院の研究助手という道もある。成績を考えれば、門戸は開かれている。ただし魔術院は貴族の政治の場でもある。平民が入り込むには、それなりの覚悟がいる。
どちらも、悪い選択ではない。
だが、どちらを選んでも、「自分で選んだ」という実感が持てる気がしなかった。工房に行くのは、成績がいいからだ。魔術院に行くのは、推薦があるからだ。どちらも、流れに乗っているだけではないか。
三年前、父が言った。「わからないなら、行け」。あの言葉に背中を押されて王都に来た。来て、学んで、力をつけた。それは間違いではなかったと思う。
だが、もう一度「行け」と言われて動くだけでいいのか。
「ルーカス」
顔を上げると、フィリスが立っていた。
卒業式の正装を着崩した姿。外套のボタンを外し、襟を緩めている。気取らないが、不思議と様になる。
「一人で考え込んでるなよ。お前のその顔は、だいたい碌なことを考えてない時だ」
「碌なことは考えてたよ。進路のこと」
「ああ、それか」
フィリスはベンチの隣に腰を下ろした。
しばらく、二人とも黙っていた。中庭の喧騒が遠くに聞こえる。
「俺は明後日、東に発つ」
フィリスが言った。
「早いな」
「やることが多い。家督の引き継ぎもあるし、領地の現状把握もしなきゃいけない。三年も空けたんだ、いろいろ変わってるだろうしな」
ルーカスは頷いた。わかっていたことだ。フィリスは最初から、卒業したら東部に帰ると言っていた。
「お前は? 工房か、院か」
「……まだ決めてない」
「そうか」
フィリスは膝に肘を載せ、前を向いたまま言った。
「ルーカス。うちに来い」
ルーカスは動かなかった。
「レーヴェルの領地には、まともな魔術師が一人もいない。魔道具の整備ができるやつもいない。お前の力が要る」
「……フィリス」
「待遇は約束する。領地魔術師としての正式な地位と、住居と、報酬。王都の工房ほどの給金は出せないが、不自由はさせない」
淡々と条件を並べる。だがその声には、条件交渉にはない熱がある。
「友達だから誘ってるんじゃない。お前の力が必要だから誘ってる。……いや、嘘だ。両方だ」
フィリスが初めて言い淀んだ。
「お前がいてくれたら、心強い。友達として。それと、東部を変えるために。両方だ。どっちが先とか、どっちが本音とか、そういう区別は俺にはつかない」
ルーカスは黙って聞いていた。
フィリスの言葉は、いつも真っ直ぐだ。嘘がない。だからこそ、その真っ直ぐさが時々怖い。この男は、友情と打算を矛盾なく両立させる。それが自然にできてしまう人間だ。
悪いことではない。むしろ、誠実ですらある。自分の本心を隠さず、相手に判断を委ねている。
だからこそ、ルーカスは自分で決めなければならない。
「少し、考えさせてくれ」
「ああ。明後日の朝まで待つ」
「短いな」
「俺はせっかちなんだ」
フィリスが笑った。だがその目は笑っていなかった。真剣に、ルーカスの答えを待っている目だった。
その夜、ルーカスは寮の自室で一人、天井を見つめていた。
相部屋の学生はもう荷物をまとめて実家に帰っていた。がらんとした部屋に、ルーカスの荷物だけが残っている。
机の上に、三つのものが並んでいる。
一つ目。工房の推薦状。教官の署名入り。これを持っていけば、王都で安定した職に就ける。
二つ目。卒業証書。三年間の証。
三つ目。母のブローチ。薄緑の石が、窓から差し込む月光をぼんやりと反射している。
ルーカスはブローチを手に取った。
母の言葉を思い出す。
「何に使うかは、自分で決めなさい」
自分で決める。
王都の工房に行けば、技術は磨ける。安定した生活も手に入る。それは間違いなく「良い選択」だ。誰に聞いても、そう答えるだろう。
だが。
ルーカスは目を閉じた。
フィリスの顔が浮かぶ。祭りの夜、街を見下ろしながら語った横顔。怒りを野心に変えて前に進む男。東部を変えると、真っ直ぐに言い切った男。
あの隣にいたら、何が見えるだろう。
工房にいては見えないものが、見えるかもしれない。あるいは、何も見えないかもしれない。わからない。
わからないなら――。
父の声が蘇る。
「わからないなら、行け」
ルーカスは目を開けた。
推薦状を机の上に戻し、ブローチを握りしめた。
わかっている。これは合理的な判断ではない。安定を捨てて、辺境の小貴族の領地に行く。将来の保証はない。フィリスの野心が成功する保証もない。
でも。
「自分で選んだ」と言えるものが、今まで一つもなかった。
王都に来たのは、母と父に背中を押されたからだ。魔術工学を選んだのは、適性があったからだ。応用課程に進んだのは、教官に勧められたからだ。どれも間違いではなかった。だが、どれも「自分で決めた」とは言い切れない。
フィリスの誘いを受けること。それは、初めて自分で掴みに行く選択だ。
理由は明確ではない。フィリスの理念に共鳴したわけでも、東部への使命感があるわけでもない。ただ、あの男の隣にいれば、自分にも何かが見えるかもしれないという、漠然とした予感。
それだけで十分なのかは、わからない。
でも、動かなければ何も始まらない。それだけは、この三年間で学んだ。
翌朝。
ルーカスは荷物をまとめた。教科書の大半は図書室に返却し、残したのは魔術工学の参考書が数冊と、祭りの日に買った壊れた術式盤と、母のブローチだけ。
推薦状は、丁寧に封筒に戻し、教官の部屋の前に置いた。短い手紙を添えて。
「推薦をいただきありがとうございました。別の道を選ぶことにしました。学んだことは必ず活かします」
それから、フィリスの部屋を訪ねた。
扉を叩くと、すぐに開いた。フィリスは既に旅支度を整えていた。
「決めたか」
ルーカスは頷いた。
「行くよ。東へ」
フィリスは一瞬、目を見開いた。それから、ゆっくりと笑った。いつもの気安い笑みではなかった。もっと深い、安堵と喜びの混じった笑み。
「……そうか」
「ただ、一つだけ言っておく」
「なんだ」
「僕は、フィリスの理念に共鳴したから行くわけじゃない。東部を変えたいとか、国を糺したいとか、そういう大きなことは、正直まだわからない」
「ああ」
「でも、フィリスの隣にいたら、何かが見えるかもしれないと思った。それだけだ。それだけで行く。それでいいか」
フィリスは腕を組み、少し考える素振りをした。
「十分だ」
短く答えた。
「理由なんて、後から見つかるもんだ。まず動くやつが一番強い」
それがフィリスの本心なのか、ルーカスを安心させるための言葉なのか、判断がつかなかった。たぶん両方だ。この男はいつもそうだ。
「じゃあ、明日の朝、東門の前で」
「ああ。馬車は手配してある」
「早いな」
「俺はせっかちだからな」
二日前と同じやり取り。ルーカスは少し笑った。
翌朝。
王都の東門の前に、二頭立ての馬車が一台。フィリスが御者台の横に立っていた。
「荷物、少ないな」
「必要なものは全部持ってる」
ルーカスは小さな旅袋を馬車に載せた。参考書と、術式盤と、ブローチ。それだけ。
馬車に乗り込む。フィリスが御者に合図し、馬が歩き出す。
東門をくぐる。王都の城壁が背後に遠ざかっていく。石畳が土の道に変わる。
三年前、この門から王都に入った。石畳の音に怯え、人混みに圧倒された日。あの日の自分は、この街で何を得たのだろう。
魔術工学の技術。それは確かだ。
フィリスという友人。それも確かだ。
そして、「自分で選ぶ」ということの重さ。
それが一番大きかったかもしれない。
馬車が街道を東に進む。木々が増え、丘が見え始める。空が広くなっていく。王都の尖塔が、もう見えない。
フィリスが馬車の窓から外を見ていた。
「いい天気だな」
「ああ」
「東部まで七日くらいかかる。長い旅だ」
「僕は慣れてるよ。来た時も長かったから」
「そうだな。帰り道ってのは、来た時より短く感じるもんだけど」
「帰り道じゃないよ」
ルーカスが言った。フィリスが首を傾げる。
「帰るんじゃない。行くんだ」
フィリスはしばらくルーカスの顔を見つめ、それから声を出して笑った。
「お前、たまに良いこと言うよな」
「たまにね」
馬車が揺れる。車輪が土を踏む音が、規則的に続く。
東へ。
選んだのか、流されたのか。正直、まだわからない。
でも、自分の足で馬車に乗り込んだ。自分の口で「行く」と言った。それだけは確かだ。
ルーカスは懐のブローチに触れた。
母さん。僕は自分で決めたよ。何に使うかは、まだわからないけど。
でも、使う場所は決めた。
窓の外を、東部の緑が流れていく。