レーヴェルの森


森が深い。

馬車が街道を外れ、細い林道に入ったのは六日目の午後だった。それから半日、道の両側を覆う木々は途切れることなく続いている。

樫、楢、橡。幹の太さは大人が両腕で抱えても足りないほどで、枝が頭上で絡み合い、木漏れ日がまだらに地面を照らしている。空気が違う。王都の乾いた空気ではなく、湿り気と土の匂いを含んだ、重い空気。

エルデ村の周りにも森はあったが、これほどの深さではなかった。

「レーヴェルの森だ」

フィリスが窓の外を見ながら言った。

「領地の大半がこの森に覆われてる。東部でも有数の原生林で、魔獣もそこそこ出る。だが資源は豊富だ。木材、薬草、鉱石。うちの経済を支えてるのは、この森だ」

ルーカスは窓に額をつけて外を見ていた。

木々の間を、鳥が飛んでいく。名前のわからない鳥だ。エルデ村にいた山鳩とは違う、大きな翼を持つ鳥。

「静かだな」

「ああ。王都とは別の世界だよ」


レーヴェル子爵領の中心集落に着いたのは、七日目の夕刻だった。

集落は森の中の開けた谷間にあった。石造りの家が三十軒ほど。中央に井戸と小さな広場。広場に面して、一際大きな屋敷が建っている。レーヴェル家の邸宅だ。

馬車が広場に止まると、数人の使用人が出迎えに来た。

「お帰りなさいませ、若様」

初老の男が頭を下げる。執事だろうか。フィリスは「ただいま」と短く返し、馬車から降りた。

「こちらは?」

執事の目がルーカスに向く。

「ルーカス・ヴィール。学校の友人で、うちの領地魔術師として来てもらった」

「魔術師、ですか」

執事の声に、微かな驚きがあった。それも当然だろう。こんな若い、しかもどう見ても貴族ではない青年が「領地魔術師」だと言われて、すんなり受け入れるほうがおかしい。

「よろしくお願いします」

ルーカスが頭を下げると、執事は一瞬の間の後、丁寧に頷いた。

「お疲れでしょう。お部屋にご案内いたします」


用意された部屋は、邸宅の離れにあった。

石造りの小さな建物で、部屋は一つ。寝台と机と棚。窓からは森の縁が見える。質素だが、寮の部屋よりは広い。

荷物を置いて、部屋を見回す。壁には何もない。棚も空だ。自分で埋めていく場所なのだと思った。

窓を開けると、森の匂いが入ってきた。湿った土と木の葉の匂い。エルデ村を思い出す。だが同じではない。エルデ村は山の村で、ここは森の村だ。似ているが違う。故郷に帰ったわけではない。

ルーカスは机の上にブローチを置いた。参考書を棚に並べた。壊れた術式盤を、机の隅に置いた。

これが、新しい場所だ。


翌日から、仕事が始まった。

フィリスはルーカスに一日だけ休むよう言ったが、ルーカスは断った。早く仕事を覚えたかったし、何もせずに過ごすことが落ち着かなかった。

最初の仕事は、領地内の魔道具の現状把握だった。

フィリスに案内されて集落を歩く。領地には魔道具がいくつか設置されている。灌漑用の水路に埋め込まれた術式板。集落の入口に立てられた魔獣避けの結界柱。広場の魔術灯。

どれも古かった。

「前の魔術師がいなくなってから、もう五年経つ。整備する人間がいないから、動いてないやつも多い」

フィリスが結界柱を指差した。柱の表面に刻まれた術式は、風雨で半分以上摩耗している。

ルーカスは柱に手を触れた。マナを流す。応答はあるが、弱い。術式の大半が機能を失っている。

「……これは酷いな。結界としてはほとんど機能してない。あるだけ、という状態だ」

「だろうな。魔獣が出た時は、狩人たちが自力で対処してる。結界なんて飾りだと思ってる連中が多い」

「飾りになってしまったのは、整備されてないからだよ。直せば十分機能する」

「直せるのか」

「術式の再刻印と、マナ結晶の交換が要る。結晶はある?」

「東の山で少し採れる。在庫も多少はあるはずだ」

ルーカスは結界柱の術式を丁寧に記録した。持ってきた参考書の内容と照らし合わせる。基本的な構造だ。教科書通りの設計で、特に複雑な点はない。だが古い。今の魔術工学の知識があれば、より効率的な術式に書き換えることもできる。

「時間をもらえれば、全部やり直せると思う。結界だけじゃなくて、灌漑の術式も、魔術灯も」

フィリスが腕を組んで、ルーカスを見た。

「好きにやれ。必要なものがあれば言え。予算はつける」

「……ありがとう」

「礼はいい。お前のために呼んだんだから」


だが、仕事は順調には進まなかった。

問題は技術ではなく、人だった。

結界柱の修繕を始めて二日目。集落の古株の狩人が、ルーカスの作業を遠くから見ていた。目が合うと、視線を逸らされた。

灌漑の術式板を確認するために農地に入った時。畑の主である老農夫に声をかけた。

「少し術式板を見せてもらえますか。状態を確認したいので」

「……あんた、若様が連れてきた魔術師かい」

「はい。ルーカス・ヴィールです」

老農夫はルーカスを頭の先からつま先まで見て、それから畑の奥を指差した。

「術式板はあっちだ。勝手に見てくれ」

それだけ言って、背を向けた。

拒絶ではない。だが歓迎でもない。「お上の人間」に対する、辺境の民の自然な距離感。ルーカスは王都の魔術学校で学び、領主に連れられてやってきた。領民にとっては「よそ者」だ。

エルデ村では、こういう感覚はなかった。村のすべてが顔見知りで、誰もが互いの名前を知っていた。ここでは、ルーカスは名前のない「若様の魔術師」でしかない。

それは仕方のないことだった。だがわかっていても、少しだけ堪えた。


日が経つにつれて、仕事のルーティンが固まっていった。

朝。離れの部屋で目を覚まし、簡素な朝食を取る。邸宅の厨房で使用人たちと同じ食事が用意されている。パンと干し肉と茶。エルデ村の朝食と大差ない。

午前中は領地内の魔道具の整備。結界柱、灌漑の術式板、魔術灯。一つずつ、状態を確認し、修繕していく。

午後はフィリスとの打ち合わせ。領地の課題と、魔道具でどこまで対応できるかを話し合う。フィリスは領主としての仕事に追われており、顔を合わせるのはこの時間だけになりつつあった。

夕方は自室で記録の整理と、新しい術式の設計。参考書を広げ、領地の環境に合わせた魔道具の改良案を練る。

夜。一人きりの部屋で、天井を見上げる。

静かだ。

王都の寮も静かだったが、あれは石の壁に閉じ込められた静寂だった。ここの静寂は違う。窓を開ければ虫の声が聞こえ、風が木の葉を揺らし、時折遠くで獣の声がする。エルデ村の夜に似ている。だが、似ているだけだ。

ここには、母の声がない。父の寝息がない。

一人だ。

フィリスはいる。だがフィリスは領主だ。学生時代のように、隣の席に座って軽口を叩く関係ではなくなりつつある。

二人で話す時も、話題は領地のことばかりだ。資源の配分、人材の不足、隣領との関係。フィリスは頭の中がすでに領主のそれに切り替わっていて、かつての学友と話しているというよりは、部下に指示を出しているような空気になることがある。

フィリスは変わったのだろうか。

いや、変わったのではない。もともとこういう人間だったのだ。学校では見えなかった部分が、領地に来て表に出ただけだ。野心家の本質。目的のために環境を整え、人を配置し、物事を動かす。ルーカスもその「配置」の一つだ。

わかっていたはずだ。「お前も含めて使う」と、フィリスは最初から言っていた。

不満はない。仕事は充実している。自分の技術が活かせる場所だ。ブローチを握って母の言葉を思い出す。「何に使うかは自分で決めなさい」。自分で決めて、ここに来た。

だが。

「友達」だったはずの距離が、「主と使用人」に変わっていく感覚。

それを寂しいと思う自分がいて、寂しいと思うこと自体が甘えだと思う自分もいる。

ルーカスは寝台に横になり、窓の外を見た。

星が見えた。

王都では見えなかった星だ。空が広い。森の向こうに、無数の光点が散らばっている。

エルデ村の空と同じ星。同じはずなのに、見え方が違う。

あの村で見上げた星は、世界のすべてだった。ここで見上げる星は、自分がどこにいるのかを確認するための目印でしかない。

ここは自分の居場所なのか。

まだわからない。

ルーカスは目を閉じた。

明日も結界柱の修繕がある。灌漑の術式板の設計も途中だ。やるべきことはある。やるべきことがある限り、ここにいる理由はある。

だが、やるべきことと、いたい場所は、同じだろうか。

答えは出ないまま、眠りに落ちた。

森の夜は深く、虫の声だけが、窓の向こうで静かに続いていた。