雷雨の夜
空の色がおかしい、と最初に気づいたのはルーカスだった。
その日の午後、灌漑の術式板を整備するために集落の南側の農地に出ていた。膝をついて術式板の刻印を確認していると、ふと顔を上げた。
西の空が暗い。
暗いというだけなら珍しくない。東部の山間では、夕立が日常的にある。だがこの暗さは違った。雲が黒い。低い。山の稜線を飲み込むように、西から東へ向かって壁のように押し寄せてくる。
風が変わった。
それまでの穏やかな秋風が止み、代わりに冷たく湿った風が吹き始めた。木々がざわめく。鳥が一斉に飛び立ち、森の奥へ消えていく。
ルーカスは道具をまとめ、集落に走った。
広場に着くと、既に何人かの領民が空を見上げていた。
「ありゃあ、でかいのが来るぞ」
古株の狩人が呟いた。日焼けした顔に、緊張がある。
「嵐か」
「嵐なんてもんじゃねえ。あの雲の色は秋雷だ。東部じゃ何年かに一度、山を越えてくる。前に来たのは、もう十年前か」
十年に一度の大雷雨。ルーカスは唇を引き結んだ。
フィリスが邸宅から出てきた。執事と何か話しながら、素早く広場を見渡す。
「状況は」
「西から大きな雷雲が来ています。秋雷だと」
「秋雷か。親父から聞いたことがある。前回は南の谷筋で土砂崩れが起きたらしい」
フィリスの声は落ち着いていた。だが目が動いている。状況を把握し、やるべきことを組み立てている目。
「南の谷筋――あそこに集落があるだろう」
「ハルゲンの集落です。七世帯。中心集落からは徒歩で半刻ほど」
執事が答える。フィリスの表情が引き締まった。
「避難させるか?」
「間に合わないかもしれません。雲の速度からして、一刻もあるかどうか」
ルーカスは西の空を見た。雲はさらに近づいている。風が強まり、木の枝が大きく揺れ始めた。遠くで雷鳴が聞こえる。まだ遠い。だが近づいてくる。
「フィリス」
「なんだ」
「ハルゲンの集落の地形を教えてくれ。谷筋というのは、どういう形だ」
フィリスが一瞬、ルーカスの顔を見た。何かを読み取ったのだろう。すぐに執事に地図を持ってこさせた。
広場の石段の上に地図を広げる。ルーカスは指で谷筋を辿った。
集落は谷の出口に位置している。上流側は急斜面で、山の水が集まる地形だ。大雨が降れば、水は谷筋を一気に下る。集落を直撃する可能性がある。
さらに厄介なのは、谷の上流の斜面が、前回の土砂崩れ以降も十分に安定していない可能性があることだ。
「前回の土砂崩れの後、斜面の補強はしたのか」
「……していない、と思う。予算も人手もなかった」
フィリスが低い声で言った。
ルーカスは地図から顔を上げた。
「水を逃がす。谷筋に流れ込む水を、集落の手前で別の方向に分流させれば、直撃を防げる」
「どうやって」
「術式で。排水用のマナ流路を即席で組む。水の流れを制御するだけなら、大掛かりな術は要らない。土壌の性質を変えて、水が流れやすい道を作ればいい」
「できるのか」
「やったことはない。でも、理論上は可能だ」
フィリスはルーカスの目を見た。迷いはなかった。
「行け。必要なものは」
「マナ結晶。できるだけ多く。それと、杭になるものを何本か。術式を定着させる媒体が要る」
「用意する。狩人を何人かつける。案内と、もしもの時のために」
フィリスが振り返り、声を上げた。
「ゲオルグ、ハンス、ヴェルナー。ルーカスと一緒にハルゲンに行ってくれ。荷は俺が手配する」
狩人たちが顔を見合わせた。一人が口を開きかけた。
「若様、あの魔術師の坊ちゃんで大丈夫なんですか」
率直な疑問だった。悪意はない。だが、「よそ者の若造に何ができる」という不安が、声ににじんでいた。
フィリスが答える前に、ルーカスが口を開いた。
「大丈夫かどうかはわからない。でも、できることはある。それをやらせてください」
静かな声だった。自分でも驚くほど、落ち着いていた。
狩人たちは一瞬黙り、それから年長のゲオルグが頷いた。
「……わかった。行こう」
ハルゲンまでの道は、半刻どころではなかった。
風が強まり、木々が激しく揺れている。道には落ち葉と小枝が散乱し、足を取られる。空はもう完全に暗く、昼間だというのに夕暮れのようだ。
ルーカスは走った。背中の袋にはマナ結晶と木杭。狩人たちが先導して道を切り開いてくれる。
雷鳴が近づいてくる。光が走り、数えるまもなく轟音が追いかけてくる。近い。
ハルゲンの集落に着いた時、最初の雨粒が落ちてきた。
小さな集落だった。谷の出口に張りつくように、木造の家が七軒。住民たちは既に異変に気づいており、家の戸口から不安そうに空を見上げていた。
「全員、家から出てください。高台のほうに避難を」
ゲオルグが声を張り上げる。住民たちが動き始める。子供を抱えた女性、腰の曲がった老人。足の遅い者もいる。
ルーカスは集落の上流側に走った。谷筋の地形を自分の目で確認する。
地図通りだ。急斜面から谷に水が集まり、まっすぐ集落に向かって流れ下る構造。斜面の土は黒く湿っていて、既に水を吸い始めている。
雨が強まった。
粒が大きい。地面を叩く音が、一瞬で轟音に変わる。視界が白く霞む。
時間がない。
ルーカスは谷筋の脇に膝をつき、袋からマナ結晶と木杭を取り出した。
手が震えている。寒さではない。恐怖でもない。集中している時の、身体の反応だ。
頭の中で術式を組み立てる。
やるべきことは単純だ。谷筋を流れ下る水を、集落の手前で横に逸らす。そのために、地面に溝を掘り、水が流れやすい道を作る。
だが、人力で溝を掘る時間はない。だから術式でやる。
土壌変質の術式。地面の組成を変え、特定の方向に水が浸透しやすくする。魔術工学の応用だ。教科書で学んだ理論を、初めて実地で使う。
木杭を地面に打ち込む。杭の表面に、短杖で術式を刻む。マナ結晶を杭の根元に埋め込む。結晶がマナの供給源となり、杭に刻まれた術式が持続的に機能する。
一本目。谷筋の左岸、集落の百歩ほど上流。
マナを流す。杭が淡く光り、周囲の土が微かに動いた。水の浸透方向が変わる。谷筋を流れていた水の一部が、左に逸れ始める。
足りない。一本では足りない。
二本目。一本目から十歩離した位置。同じ術式。マナを流す。
雷が落ちた。近い。地面が揺れた気がした。雨はもう滝のようだ。服が張りつき、視界がほとんどない。
三本目。四本目。手が泥にまみれて滑る。術式を刻む指先に感覚がなくなりかけている。
「おい、大丈夫か!」
ゲオルグの声が、雨音の向こうから聞こえた。
「まだ足りない。あと二本……」
五本目を打ち込んだ時、上流から音が聞こえた。
水の音。
それまでの雨音とは違う、低い、地鳴りのような音。山の水が谷に集まり、一つの流れになって押し寄せてくる音。
「来る」
ルーカスは六本目の杭を手に取った。最後の一本。これを打ち込めば、分流路が完成する。
だが、水はもう目の前まで来ている。谷筋を茶色の濁流が滑り降りてくるのが見えた。木の枝と泥を巻き込んで、恐ろしい速さで。
間に合うか。
間に合わせる。
杭を地面に突き立てる。短杖で術式を刻む。手が震える。文字がぶれる。駄目だ、集中しろ。
母の声が頭をよぎった。
「薬草の力を、引き出したの」
あの日。ゲルトの牛を助けた日。母は精霊言語で、薬草のマナを活性化させた。小さな術だった。だが、確かに命を救った。
同じだ。今やっていることは、同じだ。
術式を道具に刻み、マナを流し、力を引き出す。母がやっていたこと。自分が学んできたこと。
手の震えが止まった。
最後の一画を刻む。マナ結晶を埋め込む。マナを流す。
杭が光った。
六本の杭が、連動して光を放つ。地面が動いた。谷筋の左岸に沿って、幅二尺ほどの溝が浮かび上がるように形成される。土壌の組成が変わり、水が引き込まれる道ができる。
濁流が到達した。
水は谷筋をまっすぐ下ろうとする。だが六本の杭が作った分流路が、その力を横に引っ張る。すべてではない。谷筋を流れる水の半分ほど。だがそれで十分だ。集落に直撃する水量が、半減する。
残りの水も、最初の勢いを削がれて速度が落ちる。集落の手前の緩斜面で広がり、浅い水たまりになって止まる。
家を押し流すような力は、もうない。
ルーカスは泥の中に膝をついたまま、荒い息をついた。
全身が泥まみれだ。雨はまだ降り続いている。雷鳴が頭上で轟く。だが、水の地鳴りは止んだ。
「……止まった」
呟いた声は、雨に消えた。
雨は夜通し降り続けた。
ルーカスは杭の術式が維持されているか、一時間おきに確認した。マナ結晶の残量が減っていく。予備の結晶を追加しながら、六本の杭を巡回する。
狩人たちが交代で見張りについてくれた。ゲオルグが外套を脱いでルーカスの肩にかけた。
「着とけ。風邪を引かれちゃ困る」
「でも――」
「俺たちは慣れてる。あんたは慣れてない」
ルーカスは礼を言って、外套を受け取った。
夜が更け、雷雲が東に抜けていった。雨脚が弱まり、やがて止んだ。
東の空が白み始めた頃、ルーカスは谷筋の縁に座り込んでいた。
泥だらけの手を見る。爪の間にまで泥が入り込んでいる。短杖を握りすぎて、指の皮が剥けている。
だが、集落は無事だ。
家は一軒も流されていない。畑は一部水に浸かったが、作物への被害は最小限だった。
「先生」
声に顔を上げると、ハルゲンの住民たちが立っていた。
子供を抱えた女性。腰の曲がった老人。昨日、不安そうに空を見上げていた人たちだ。
先頭に立った初老の男が、頭を下げた。
「ありがとうございます。おかげで、家が残りました」
「いえ、僕は術式を組んだだけで――」
「それが、ありがたいんです」
男の声は震えていた。
「十年前の時は、何もできなかった。水が来て、家が流されて、ただ見てるしかなかった。今回は違った。あんたが来てくれたから」
ルーカスは言葉が出なかった。
後ろから、子供の声がした。
「先生、すごい。魔法で水を止めたの?」
七つか八つの女の子が、目を丸くしてルーカスを見上げている。
「止めたんじゃないよ。横に逸らしただけ」
「でも、おうちが残ったよ!」
女の子が笑った。泥だらけの顔で、歯を見せて笑った。
ルーカスは、その笑顔を見た。
胸の奥で、何かが動いた。
これまで感じたことのない感覚だった。教官に褒められた時とも、フィリスに認められた時とも違う。もっと深い場所で、もっと確かなものが、静かに灯った。
自分の力が、人を守った。
術式を組み、杭を打ち、マナを流した。それだけのことだ。華やかな魔術ではない。誰の目にも留まらないような、地味な作業だ。
でも、それで家が残った。あの子の笑顔がある。
「……ありがとう、ございます」
ルーカスの声が掠れた。自分でも何に対して礼を言っているのかわからなかった。ただ、言わずにいられなかった。
中心集落に戻ると、フィリスが広場で待っていた。
一晩中、各地の被害状況の確認と対応に追われていたらしい。目の下に隈ができている。だがルーカスの姿を見た瞬間、大股で歩み寄ってきた。
「ハルゲンは」
「無事だ。家屋の被害なし。畑は一部浸水したけど、軽微」
フィリスが立ち止まった。ルーカスの泥まみれの姿を、頭の先から足の先まで見た。
それから、ルーカスの肩を掴んだ。
言葉はなかった。
だが、その手の力が語っていた。ルーカスにはわかった。
フィリスの目が、何かを言おうとして、だが言葉にならないまま揺れていた。いつもの鋭い目ではなかった。もっと柔らかい、もっと生々しい何か。
ルーカスはその目を見て、初めて気づいた。
この男は、怖かったのだ。
ルーカスを送り出した後、ずっと怖かったのだ。友を危険な場所に送ったことが。領主として正しい判断だったのか、自問し続けていたのだ。
野心家で、計算高くて、人の才能を「使う」ことに躊躇のないこの男が。
友のことだけは、計算できなかった。
「……ありがとう」
フィリスが言った。低い声だった。領主の声ではなかった。友人の声だった。
「仕事だよ」
ルーカスが答えた。
「そうだな。仕事だ」
フィリスが手を離し、一歩下がった。表情がいつもの鋭さに戻る。
「報告は後でいい。まず風呂に入れ。その格好で邸宅に入ったら、執事に殺されるぞ」
「……そうだな」
ルーカスは少しだけ笑った。
広場を横切って離れに向かう途中、すれ違った領民の何人かが、ルーカスに小さく頭を下げた。
昨日まではなかったことだった。
離れの部屋に戻り、泥まみれの服を脱いだ。
盥に水を汲んで、身体を洗う。泥が落ちていく。指の皮が剥けた箇所が沁みる。
着替えて、机の前に座った。
ブローチを手に取る。泥はつけなかったはずだが、念のため布で拭いた。薄緑の石が、朝の光を受けて静かに光る。
母さん。
僕の力が、人を守ったよ。
華やかな魔術じゃない。母さんがゲルトさんの牛を助けた時と同じだ。小さな術を、必要な場所で、必要な時に使った。それだけだ。
でも、それだけのことが、こんなにも重い。
あの子が笑ってた。泥だらけの顔で、歯を見せて笑ってた。おうちが残ったよ、って。
何に使うかは、自分で決めなさい。
母さん、まだ決められてない。でも、少しだけ見えた気がする。
自分の力が何のためにあるのか。
まだ答えは出ない。でも、今日感じたこの重さだけは、本物だと思う。
ルーカスはブローチを机の上に置き、記録帳を開いた。
昨夜の術式の詳細を書き留める。杭の配置、術式の構成、マナ結晶の消費量、分流路の効果。すべてを一字も逃さず記録する。
次に同じことが起きた時、もっと早く、もっと確実にやれるように。
窓の外で、雨上がりの森が朝日に光っていた。木の葉から雫が落ち、地面を叩く小さな音が、規則的に続いている。
静かな朝だった。嵐の後の、静かな朝。
ルーカスは記録帳に向かい続けた。手は、もう震えていなかった。