友と主
雷雨の夜から、何かが変わった。
領民たちの態度が、目に見えて柔らかくなった。
朝、離れを出て集落を歩くと、すれ違う人々が頭を下げる。小さく「おはようございます、先生」と声をかけてくる者もいる。畑仕事の合間に手を止めて、「結界柱の調子がいいよ」と教えてくれる老農夫。ハルゲンの子供たちが走ってきて、「先生、今日は何を直すの」と聞いてくる。
先生。いつの間にか、そう呼ばれるようになっていた。
ルーカスは相変わらず結界柱の整備と灌漑術式の改良を続けていた。だが以前と違って、領民のほうから声をかけてくることが増えた。「うちの井戸の汲み上げが悪いんだが、見てもらえないか」「納屋の魔術灯が消えたんだ」。小さな依頼が、少しずつ増えていく。
断る理由はない。一つずつ応えていく。井戸のポンプに組み込まれた古い術式を書き換え、魔術灯のマナ結晶を交換し、壊れた農具の補強に簡単な術式を刻む。
地味な仕事だ。魔術院の研究者が見れば、鼻で笑うだろう。だが、これがルーカスの日常になった。そしてその日常が、嫌ではなかった。
秋が深まり、冬の気配が近づく頃。
フィリスの動きが変わり始めた。
領地経営の実務は相変わらず忙しかったが、それに加えて、外への動きが増えた。隣接する小領地の領主たちとの書簡のやり取り。東部の商人との連絡。月に一度は馬車で領地を離れ、二日三日帰らないこともある。
ルーカスは最初、それを気に留めなかった。フィリスは領主だ。外交は仕事の一部だ。
だが、打ち合わせの場で聞こえてくる話の中身が、少しずつ変質していった。
「ルーカス、東の森林の資源調査を頼みたい」
「資源調査? 木材の話か」
「それもある。だが主に鉱石だ。東の山の奥に、マナ結晶の鉱脈があるかもしれない。以前から噂はあったんだが、確認した者がいない」
「マナ結晶の鉱脈か。それは大きいな」
「ああ。もし見つかれば、レーヴェルの経済基盤が一変する。鉱石の精製と魔道具の製造ができれば、東部の他領にも供給できる」
フィリスの目が光っていた。あの目だ。祭りの夜に国を語った時の目。野心に燃える目。
ルーカスは頷いて、調査の準備を始めた。フィリスの構想には筋が通っている。マナ結晶の安定供給ができれば、領地の魔道具整備だけでなく、東部全域の技術基盤を底上げできる。
だが、その先の話を聞いた時、ルーカスの手が止まった。
「鉱脈の権利が確立できたら、隣のアイゼン男爵領との合併交渉に入る」
「合併?」
「アイゼンの領地は鉱脈の西側に当たる。鉱脈がまたがっている可能性がある。向こうの現当主は高齢で跡継ぎに恵まれていない。条件次第では、統合に応じるだろう」
フィリスは淡々と説明した。地図を指差しながら、まるで魔術工学の課題を解くように、論理的に、手順を踏んで。
「統合すれば、レーヴェルの領地は倍近くになる。東部で三番目の規模だ。それだけの領地があれば、中央にも声が届く」
ルーカスは地図を見つめたまま、何も言わなかった。
「ルーカス?」
「……いや。すごい計画だと思って」
「すごいかどうかは結果次第だ。だがやるなら今しかない。アイゼンの当主が存命のうちに話をつけなければ、他の家に先を越される」
「他の家というと」
「カドレイユの息がかかった連中がいる。南部から手を伸ばしてくる可能性がある。あの連中に東部の鉱脈を押さえられたら、二度と取り返せない」
フィリスの声に、あの硬さが混じった。カドレイユへの怒り。東部の不遇への怒り。それを動力にして、フィリスは計画を練り上げている。
ルーカスは頷いた。
「わかった。資源調査はやる。鉱脈の有無と規模を確認すればいいんだな」
「頼む。お前にしかできない仕事だ」
資源調査は、二週間かかった。
東の山に入り、地質とマナの分布を調べる。魔術工学の知識を応用し、マナの濃度を測定する簡易的な装置を組み上げた。狩人のゲオルグが案内役として同行してくれた。
結果は、フィリスの予想通りだった。
東の山の地下に、かなりの規模のマナ結晶の鉱脈がある。しかも鉱脈は西に延びており、アイゼン男爵領の地下にまで達している可能性が高い。
報告書をまとめてフィリスに提出した。フィリスは報告書を読み終えると、静かに机の上に置いた。
「よくやった。これで交渉の根拠ができた」
「フィリス。一つ聞いていいか」
「なんだ」
「アイゼンの当主が、合併に応じなかったらどうする」
フィリスの目が、わずかに細くなった。
「応じるように持っていく」
「それは交渉でか。それとも――」
「交渉だ。俺は力ずくで奪うようなことはしない」
断言した。だが、ルーカスはフィリスの目を見ていた。あの目には、言葉にならない何かがあった。交渉と言いながら、その交渉がどういうものになるか、ルーカスにはなんとなくわかった。
相手の弱みを突くのだろう。跡継ぎ問題を利用するのだろう。高齢の当主が断れないような条件を、親切な顔をして差し出すのだろう。
それは脅迫ではない。違法でもない。だが、誠実とも言い難い。
ルーカスは何も言わなかった。
交渉は、フィリスが自ら出向いた。
三日間の不在。その間、ルーカスは領地の仕事を続けていた。結界柱の最後の一本を修繕し終え、灌漑術式の改良案を書き上げた。ハルゲンの子供たちに簡単な魔術の原理を教えた。
三日目の夕方、フィリスが帰ってきた。
広場で馬車を降りたフィリスの表情を見て、ルーカスは結果を悟った。
笑っていた。だが、いつもの気安い笑みではなかった。もっと鋭い。獲物を仕留めた者の笑み。
「まとまった」
執務室に呼ばれ、フィリスが告げた。
「アイゼン当主は合併に合意した。条件は、当主が存命の間は名目上の領主の称号を残すこと。実質的な統治権はレーヴェルに移る」
「……早いな」
「相手も限界だったんだろう。跡継ぎがいない以上、いずれ領地は誰かの手に渡る。なら、条件のいいうちにまとめたほうが得だ。合理的な判断だよ」
合理的。その通りだ。どちらにとっても悪くない取引のはずだ。
だが、ルーカスの胸には小さな棘が残った。
「交渉は、穏やかに進んだのか」
フィリスの手が、一瞬だけ止まった。書簡を整理していた手。
「……穏やかだったよ。互いに大人だからな」
嘘ではないのだろう。だが、全部を語ってもいない。ルーカスにはわかった。三年の付き合いだ。フィリスが何かを飲み込んだ時の間の取り方は、もう知っている。
「フィリス」
「なんだ」
「これが、お前のやりたかったことなのか」
同じことを、学校の食堂でも聞いた気がする。あの時は、カドレイユの話を聞いた直後だった。
フィリスは書簡を机に置き、椅子の背に身体を預けた。天井を一瞬見上げ、それからルーカスに目を戻した。
「やりたかったことの、入口だ」
「入口」
「これは始まりに過ぎない。アイゼンとの統合は第一歩だ。ここから東部の他領との連携を進めて、中央に物を言えるだけの勢力を作る。それが目標だ。最初から言ってただろう」
「言ってた。でも――」
言葉を選んだ。慎重に。
「領地を広げて、勢力を作って、中央に声を届ける。その過程で、フィリスが捨てるものは何だ」
フィリスの目が据わった。
沈黙が落ちた。執務室の窓から、夕日が差し込んでいる。フィリスの影が長く伸びている。
「捨てる?」
「綺麗事じゃ国は変わらないって、お前が言った。その通りだと思う。でも、綺麗事じゃないやり方を続けた先に、お前が最初に怒っていたものが残るのか。それが気になる」
フィリスは動かなかった。
ルーカスは続けた。
「東部が蔑ろにされてることへの怒り。才能のあるやつが生まれのせいで埋もれることへの怒り。あの怒りが出発点だったはずだ。でも、今お前がやっていることは、高齢の領主の弱みを突いて領地を手に入れることだ。それは、お前が嫌っていたカドレイユのやり方と、何が違う」
言い終えた瞬間、後悔が来た。言いすぎた。
だが、言わずにいることはできなかった。
フィリスの顔から、表情が消えた。怒りでもなく、悲しみでもなく、ただ無だった。
長い沈黙。
「……お前に言われるとは思わなかった」
低い声だった。
「お前は政治に疎いと言ったな。その通りだ。お前にはわからないことがある。綺麗な手段だけで物事が動く世界なんて、どこにもないんだ」
「わかってる」
「わかってない。頭ではわかっても、肌ではわかってない。お前は魔術工学の人間だ。正しい術式を組めば正しい結果が出る世界に生きてる。政治は違う。正しいことをしても正しい結果が出るとは限らない。だから時には――」
「だから時には、汚い手も使うと?」
フィリスの目が光った。怒りだ。だが、ルーカスに向けた怒りではなかった。もっと深い場所にある、自分自身に向けた怒り。
「……お前の言う通りかもしれない」
声のトーンが変わった。硬さが消え、代わりに疲れが滲んだ。
「カドレイユと何が違うのか。正直に言えば、わからない。やってることの形だけ見れば、同じに見えるだろう。弱い相手の足元を見て、有利な条件を引き出す。そういうことだ」
フィリスは椅子から立ち上がり、窓際に歩いた。夕日を浴びて、影が長くなる。
「でもな、ルーカス。俺がやらなければ、カドレイユがやる。アイゼンの領地はいずれ誰かの手に渡る。それが南部の利権屋の手に渡るのと、俺の手に渡るのとでは、結果が違う。少なくとも俺は、あの土地の民をカドレイユの駒にはしない」
「それは本当か」
「本当だ。それだけは、嘘じゃない」
ルーカスはフィリスの背中を見つめた。
夕日に照らされた横顔。祭りの夜と同じ横顔。だが、あの時より少し疲れて見えた。
「……信じるよ」
ルーカスが言った。
フィリスが振り返る。
「ただし、お前が道を踏み外しそうになったら、また言う。それだけは許してくれ」
フィリスはしばらくルーカスの顔を見つめ、それから小さく、本当に小さく笑った。
「……お前がそういうやつだってのは、最初から知ってた」
「知ってたのか」
「だから隣の席に座ったんだ」
ルーカスは言葉に詰まった。
フィリスが続けた。
「俺は自分が正しいとは思ってない。やり方が汚いことも知ってる。でも止まれない。止まったら、東部は何も変わらない。だから、止められないなら、せめて道を外れた時に気づかせてくれるやつが要る」
「それが、僕か」
「お前しかいない」
静かな声だった。野心家の声ではなかった。
ルーカスは何も言えなかった。
窓の外で、夕日が山の端に沈んでいく。執務室が薄暗くなり、二人の影が壁に溶けていく。
「……灯りを点ける」
ルーカスが立ち上がり、部屋の隅の魔術灯に手を触れた。ルーカスが整備したばかりの灯りが、穏やかな光を放つ。
「よく光るな。前より明るい」
「術式を書き換えたんだ。効率が上がってる」
「さすがだな」
「褒めても何も出ないよ」
「知ってる」
二人の間に、少しだけ空気が緩んだ。
だが、完全に元に戻ったわけではないことを、ルーカスは感じていた。今日の会話は、二人の間に新しい線を引いた。友人としての線ではない。もっと複雑な、もっと重い線。
友人であり、主と使用人であり、そして互いの良心の番人。
そういう関係が、世の中にあるのかどうかはわからない。
だが、今のルーカスとフィリスには、それしかなかった。
その夜、離れの部屋でルーカスは机に向かっていた。
記録帳ではなく、白い紙に向かって。何かを書こうとして、書けずにいた。
フィリスに言ったこと。言いすぎたのだろうか。
いや、言わなければならなかった。
フィリスの怒りは本物だ。東部を変えたいという志も本物だ。だがその志を実現するための手段が、志そのものを蝕む可能性がある。それを指摘できるのは、政治の外にいる人間だけだ。
つまり、自分だ。
政治に疎い。世間知らずの、農村出身の魔術工学師。フィリスの構想の全体像を理解できているわけではない。交渉の機微も知らない。
だがそれだからこそ、見えるものがある。
術式は正しく組めば正しく動く。フィリスはそれを「政治は違う」と言った。その通りだろう。だが、ルーカスは思う。正しい結果が保証されない世界だからこそ、正しさを手放してはいけないのではないか。
正しさを手放した瞬間、手段と目的の区別がつかなくなる。領地を広げることが目的になり、民のためという大義が後づけになる。フィリスはまだそこまで堕ちていない。だが、坂は滑りやすい。
だから、隣にいる。
隣にいて、「それは違う」と言う。言える関係を、壊さない。
ルーカスはペンを置き、ブローチを手に取った。
母の言葉。「何に使うかは、自分で決めなさい」
決めた、と思った。
まだ完全な言葉にはならない。でも、輪郭が見え始めている。
自分の力の使い道。
人を守ること。術式で。魔道具で。それだけではない。
友を守ること。友が道を踏み外さないように。友の良心を、預かること。
それが自分にできることだ。たぶん、自分にしかできないことだ。
ブローチを机に置き、白い紙に向き直った。
今度は書けた。
「資源調査報告書・補遺――鉱脈開発における領民の生活への影響評価」
フィリスが読むかどうかはわからない。だが、書く。
自分の仕事は、正しい術式を組むことだ。正しい流れを設計することだ。
それは魔道具だけの話ではない。
ペンが走る。夜が深まる。離れの灯りは、まだしばらく消えなかった。