信ずるに足るもの
冬が来た。
レーヴェルの森は白く染まり、木々は葉を落として骨のような枝を空に突き出している。朝は息が白く、井戸の水が凍る。集落の人々は厚い外套に身を包み、足早に歩く。
ルーカスは離れの部屋で目を覚ました。窓の外は灰色の空。雪がちらついている。
寝台から起き上がり、まず指輪を――いや、指輪はない。ルーカスはグリシカではない。代わりに、机の上のブローチに目を遣る。薄緑の石が、曇り空の薄い光を受けて、かすかに光っている。
毎朝の習慣。ブローチを確認すること。母がそこにいるわけではない。だが、あの石を見ると、一日が始まるという実感が湧く。
着替えて、離れを出る。
雪を踏む音が鳴る。キュ、キュ、と。エルデ村の冬とは違う音だ。エルデ村は山の村で、雪は重く湿っていた。ここの雪は軽い。森が風を遮るから、積もっても嵩が高くならない。
集落の広場を横切る。井戸の傍で、老農夫が水を汲んでいた。ルーカスが先月整備した汲み上げの術式板のおかげで、凍結しても水が出るようになっている。
「おはようございます、先生。今日も寒いね」
「おはようございます。井戸の調子はどうですか」
「上々だよ。去年の冬は三日に一回は凍って動かなくなったもんだが、今年はまるで違う」
老農夫が笑う。皺だらけの顔が、くしゃりと崩れる。
「ありがたいことだ」
ルーカスは小さく頭を下げて、邸宅に向かった。
朝食の後、フィリスに呼ばれた。
執務室に入ると、フィリスは窓際に立っていた。手には一通の書簡。
「問題が起きた」
フィリスが振り返る。目が鋭い。領主の目だ。
「アイゼンとの合併について、隣のブレヒト男爵領から異議が出た」
「ブレヒト?」
「東部の小領で、うちとアイゼンの南側に接してる。合併によってレーヴェルが大きくなることを警戒してるんだろう。書簡の文面は丁寧だが、要するに『鉱脈の権利を寄越せ、さもなければ中央に訴える』ということだ」
「中央に訴える、というのは」
「カドレイユに泣きつく、ということだ」
フィリスの声に、低い怒りが混じった。
ルーカスは椅子に座り、書簡を読ませてもらった。丁寧な言葉遣いの中に、確かに脅しが透けている。
「ブレヒトの当主は、どういう人間だ」
「臆病で欲深い。自分から動く度胸はないが、強い者の後ろに隠れて利益をかすめ取るのは上手い。カドレイユと繋がりがあるとは聞いていないが、この機に接近する可能性はある」
フィリスが机の上に地図を広げた。レーヴェル、アイゼン、ブレヒト。三つの領地が隣り合っている。鉱脈はレーヴェルとアイゼンの地下にまたがっているが、ブレヒトの領地の端にもかかっている可能性が、ルーカスの資源調査で示唆されていた。
「最悪の場合、ブレヒトがカドレイユを引き込んで、鉱脈の権利を主張してくる。そうなれば法廷闘争だ。カドレイユの後ろ盾があれば、小貴族の俺たちに勝ち目は薄い」
「どうする」
「ブレヒトを黙らせる」
フィリスの目が据わっていた。
ルーカスは、あの夜の会話を思い出した。「お前が道を踏み外しそうになったら、また言う」。自分でそう言った。
「黙らせる、というのは」
「交渉だ。ブレヒトにも利益がある形を提示して、カドレイユに走る理由をなくす」
「具体的には」
「鉱脈の南端部分の採掘権を、ブレヒトと共有する。共同開発の枠組みを提案する。ブレヒトが得られる利益を明示して、中央に訴えるより手元の実利を取らせる」
ルーカスは少し考えた。
「それだと、レーヴェルの取り分が減る」
「減る。だが、カドレイユに介入されるよりましだ」
「……もう一つ、方法がある」
フィリスが眉を上げた。
「ブレヒトが恐れているのは、レーヴェルが大きくなりすぎることだろう。つまり、脅威を感じているから抵抗している。なら、脅威を取り除けばいい」
「取り除く?」
「鉱脈の開発で得られる利益を、東部の複数の領地で分配する仕組みを作る。レーヴェルが独占するのではなく、東部全体の共同事業にする。ブレヒトも含めて」
フィリスの目が動いた。計算している。
「共同事業か。それだと、レーヴェルの主導権が――」
「主導権はレーヴェルが持てばいい。鉱脈の中心はレーヴェルとアイゼンの領地にある。開発の技術もうちが持ってる。だから運営の主導権は自然とレーヴェルに来る。でも、利益の分配を東部全体に広げることで、他の領地は敵ではなく協力者になる」
ルーカスは地図の上に指を置いた。
「フィリスが最初に言ったこと、覚えてるか。東部をまとめて、中央に物を言えるだけの勢力を作る、って。一つの家が大きくなるのと、東部全体がまとまるのとでは、どっちが強い」
フィリスは地図を見つめたまま動かなかった。
長い沈黙。
「……お前、いつの間にそんなことを考えるようになったんだ」
「僕は魔術工学の人間だよ。全体の流れを見て、一番効率のいい設計を考える。それだけだ」
「それだけ、か」
フィリスが鼻を鳴らした。だが口元が緩んでいた。
「ブレヒトにこの案を持っていったら、乗るか」
「乗ると思う。独り占めされるよりも、分け前をもらえるほうがいい。欲深い人間ほど、目の前の実利には弱い」
「辛辣だな」
「フィリスが教えたんだろ。政治は綺麗事じゃないって」
フィリスが声を出して笑った。久しぶりに聞く、気安い笑い。
「わかった。お前の案で行く。ブレヒトへの提案書を一緒にまとめてくれ」
「提案書は僕が書く。ただし、鉱脈の技術面に関する部分だけだ。政治的な文言はフィリスが入れてくれ」
「当然だ。お前の書く文章は素っ気なさすぎて、外交文書には向かない」
「自覚はある」
提案書の作成に三日かかった。
ルーカスは鉱脈の規模、開発に必要な技術と資金、予想される産出量、分配の仕組みを、すべて数字と図表で示した。魔術工学の報告書と同じ形式だ。曖昧さを排し、事実と推測を明確に分け、根拠を添える。
フィリスはその上に政治的な文脈を重ねた。東部の結束がもたらす利点。中央への発言力。カドレイユの影響力からの脱却。ブレヒトが得るもの、失うもの。
二人で推敲を重ね、三日目の夜に仕上がった。
「これでいいか」
「いい。明日、ブレヒトに送る」
フィリスが提案書を封筒に入れ、蝋で封をした。
「ルーカス」
「ん?」
「この案は、お前が考えたものだ。俺一人じゃ思いつかなかった」
「僕一人でも形にはならなかった。政治の部分はフィリスがいないと」
「そうだな。……俺たち、いい組み合わせだよな」
「三年前に隣の席に座った時から、そうだっただろ」
フィリスが笑った。ルーカスも笑った。
返答は、五日後に届いた。
ブレヒト男爵は、共同事業の提案に応じた。条件面での細かな交渉は残っているが、大筋では合意。カドレイユへの接近は、ひとまず回避された。
フィリスは書簡を読み終えると、静かに机の上に置いた。大きな感情の発露はなかった。ただ、「よし」と一言だけ呟いた。
その日の夕方、フィリスがルーカスの離れを訪ねてきた。珍しいことだった。普段は執務室に呼び出すのに。
「散歩しないか」
「散歩?」
「たまにはいいだろ」
断る理由もなく、二人で集落の外に出た。
雪の中を歩く。森の小道を抜け、集落の東の丘を登る。雪を踏む足音だけが、静かに続く。
丘の頂上に立つと、レーヴェルの森が眼下に広がっていた。
白い世界だった。森が雪に覆われ、谷筋が白い線を描いている。遠くに、ハルゲンの集落の屋根が見える。煙突から煙が上がっている。あの集落は、あの夜ルーカスが守った集落だ。
「いい眺めだな」
フィリスが言った。
「ああ」
しばらく、二人とも黙って景色を見ていた。
冬の風が頬を刺す。だが痛くはなかった。空気が澄んでいて、深く吸い込むと肺が冷たくなる。
「なあ、ルーカス」
「ん」
「お前は、ここに来てよかったか」
唐突な問いだった。だが、フィリスの声はいつになく静かだった。
ルーカスは少し考えた。
ここに来てよかったか。
半年前、馬車でこの森に入った時のことを思い出す。王都を出て、東へ向かった日。選んだのか、流されたのか、わからないまま来た日。
あれから半年。結界柱を直し、灌漑術式を書き換え、魔術灯を整備し、井戸を修繕した。雷雨の夜に杭を打ち、ハルゲンの集落を守った。領民に「先生」と呼ばれるようになった。子供たちに魔術の原理を教えた。
フィリスと言い合いをした。友人と主の間で揺れた。それでも隣にいることを選んだ。
「よかったよ」
答えは、自然に出た。
「ここに来てよかった。フィリスに誘われた時は、正直よくわからなかった。自分で選んだのかどうかも怪しかった。でも、今はわかる」
「何がわかった」
ルーカスは白い森を見渡した。
「僕はまだ、信じるべきものが何なのか、はっきりとは言えない。国を変えたいとか、東部を良くしたいとか、そういう大きなことは、正直まだわからない」
「ああ」
「でも、一つだけわかったことがある」
ルーカスは懐からブローチを取り出した。母の手製。薄緑の石。手のひらの上で、冬の光をぼんやりと反射している。
「母さんが言ったんだ。魔術は道具だって。何に使うかは自分で決めろって。ずっと考えてた。何に使うか。何のために。何を信じて」
フィリスは黙って聞いていた。
「答えは、まだ完全には出てない。でも、少しだけ見えたものがある」
ルーカスはブローチを握り、フィリスに目を向けた。
「人を守ること。術式で、魔道具で、自分にできるやり方で。あの雷雨の夜に、初めてわかった。自分の力が人を守れるんだって。あの感覚は本物だった」
「ああ。あれは本物だった」
「それともう一つ。お前を守ること」
フィリスの目が揺れた。
「お前の力じゃなくて、お前自身を。お前が道を踏み外さないように。お前の怒りが、お前自身を食い潰さないように。隣にいて、見ていて、違うと思ったら言う。それが、僕にできることだ」
風が吹いた。雪が舞い上がり、二人の間を白い粒が流れていく。
「……それは、大変な役目だぞ」
フィリスの声が掠れていた。
「知ってる」
「俺は頑固だ。聞き分けが悪い。お前が正しいことを言っても、聞かない時がある」
「知ってる。三年の付き合いだ」
「それでもやるのか」
「やる。自分で決めた」
ルーカスの声は穏やかだった。だが、揺るがなかった。
フィリスは前を向いたまま、長い息を吐いた。白い息が、冬の空に溶けて消える。
「……お前、変わったな」
「そうかな」
「石畳の街で天井ばっかり見てたやつが、こんなことを言うようになるとは」
「フィリスだって変わっただろ」
「俺は変わってない。最初からこうだ」
「嘘つけ」
フィリスが笑った。今度は、本当の笑みだった。気安さでも、野心家の鋭さでもない。ただの友人の笑顔。
「ありがとう、ルーカス」
「礼はいいよ。仕事だから」
「仕事じゃないだろ、これは」
「……まあ、そうかもしれない」
二人で丘を下りた。雪の上に、二つ分の足跡が並んで続いている。
離れの部屋に戻ったルーカスは、机の前に座った。
ブローチを机の上に置く。その隣に、壊れた術式盤を置いた。
祭りの夜に買った、あの術式盤。半年経った今も、まだ直していない。忙しかったのもあるが、なんとなく手をつけずにいた。
今日、直そうと思った。
術式盤を手に取り、裏蓋を外す。内部の術式を、久しぶりに確認する。方位を示す魔道具。針を動かすための術式が、三箇所で断線している。
だが、構造はわかる。あの日の自分にはわからなかった内部の流れが、今は手に取るように見える。
半年間、領地の魔道具を片端から直してきた。結界柱、灌漑術式、魔術灯、井戸のポンプ。一つ一つは地味な仕事だ。だが積み重ねた経験が、ルーカスの目を変えた。壊れた術式を見れば、どこがどう壊れているか、どう直せばいいか、前よりずっと早くわかるようになった。
短杖を手に取り、断線した術式を修繕する。一画ずつ、丁寧に。三箇所すべてを直し、マナを流す。
針が、動いた。
ゆっくりと回転し、北を指して止まる。安定した動き。迷いのない針。
ルーカスは術式盤を掌に載せて、しばらく眺めていた。
使い道のわからない、壊れた道具。祭りの夜に、自分自身と重ねて買ったもの。
今、それが直った。針は北を指している。
自分はどうだろう。針は、何を指しているだろう。
信じるべきもの。まだ名前はつかない。国を変えるという大義でもなく、学術を極めるという志でもない。もっと小さくて、もっと近い場所にあるもの。
目の前の人を守ること。隣にいる友を守ること。壊れたものを直すこと。正しい流れを設計すること。
それが信念と呼べるほど大きなものかはわからない。
でも、信ずるに足るものだと、今は思える。
窓の外で、雪が止んでいた。
雲が切れ、冬の夕日が森を照らしている。白い木々が金色に輝いて、息を呑むほど美しかった。
ルーカスは窓を開けた。冷たい空気が流れ込む。澄み切った空気。遠くに、ハルゲンの集落の煙が見える。
明日も仕事がある。
ブレヒトとの交渉の細部を詰めなければならない。結界柱の冬季点検もある。ハルゲンの子供たちに、マナの基礎理論を教える約束もした。
フィリスは明日も領主として動き回るだろう。計画を練り、人と会い、東部を変えるための一歩を積み重ねる。その隣で、自分は自分の仕事をする。術式を組み、魔道具を直し、必要な時には「それは違う」と言う。
大きな物語の主人公にはなれないかもしれない。
でも、ここにいる。自分の足で、自分の意志で。
ルーカスは術式盤をブローチの隣に置いた。
壊れていたものが、直った。使い道のわからなかったものに、居場所ができた。
自分も、そうなれただろうか。
たぶん、まだ途中だ。答えは出きっていない。これからも迷うだろう。フィリスと言い合うことも、自分の選択を疑う夜もあるだろう。
それでいい。
迷えるということは、まだ選べるということだ。誰かがそう言ってくれた。
ルーカスは窓を閉め、机に向かった。記録帳を開く。
今日の日付。天候、雪のち晴れ。気温、低い。特記事項――
ペンが止まる。少し考えてから、書いた。
「術式盤を修繕。正常に動作することを確認。針は北を指す」
それだけ書いて、記録帳を閉じた。
夕日が沈み、窓の外が暗くなっていく。ルーカスは魔術灯に手を触れた。自分が整備した灯りが、穏やかに部屋を照らす。
その光の中で、ブローチと術式盤が並んで光っていた。
母がくれた道具と、自分で選んだ道具。
どちらも、小さくて、地味で、目立たない。
でも、確かに光っている。
ルーカスは椅子に深く座り、その光を見つめた。
これでいい。今は、これでいい。