綴る旅人
その町に名前があることを、ノエラ・ヴィルトは三日前まで知らなかった。
カルム。アーヴェリア王国の南東部、丘陵地帯の裾野に張り付くようにして広がる小さな町。王都から馬車で六日、徒歩ならさらに二日。街道沿いではあるが、主要な交易路からは外れていて、旅人の姿はまばらだ。
宿屋の窓から見下ろす朝の通りには、荷車を引く農夫と、井戸端で話し込む女たちの姿がある。どこにでもある光景だった。だからこそ、書く価値がある。
ノエラは寝台の上で手帳を開き、昨夜のうちに走り書きした覚え書きを読み返した。
『宿の主人、ゲルト。五十代。元は鍛冶屋だったが腰を悪くして転業。妻と二人で宿を営む。息子は二年前に王都の兵站部隊に徴集され、半年前に戻ってきた。「戻ってきただけ儲けもんだ」と笑った。笑い方が少し乾いていた。』
ペンを取り、余白に一行足す。
『この町から徴集された若者は十四人。戻ってきたのは十一人。残り三人の行方を、誰も口にしなかった。』
朝食は一階の食堂で取る。
宿は六部屋しかない小さな建物で、食堂と言っても丸テーブルが三つ並んでいるだけだ。壁には色褪せた地図と、何年前のものかわからない王都の祭りの木版刷りが貼ってある。
「あんた、また書いてるのかい」
宿の女将――ゲルトの妻、ヘルダが麦粥の椀を置きながら言った。
「仕事ですから」
「物好きだね。こんな何もない町に来て、何を書くことがあるんだか」
「何もないように見える場所ほど、書くことがあるんですよ」
ヘルダは鼻を鳴らしたが、悪い顔ではなかった。
「魔術師なんだろう? もっといい仕事がありそうなもんだけど」
「よく言われます」
魔術学校を出た、と言うと大抵こう返される。王都魔術学校の卒業生といえば、魔術院か騎士団か、少なくとも貴族の屋敷に仕えるのが普通だ。それを蹴って旅の物書きをやっている。実家の顔が曇る理由は、自分でもよくわかっている。
「まあ、お客が来てくれるのはありがたいけどね。最近はめっきり旅人も減ったから」
「街道の関所が増えたせいですか」
ヘルダの手が一瞬止まった。
「……詳しいね、あんた」
「途中で二ヶ所、通行証の確認をされました。以前はなかったはずですけど」
「帝国との戦の後だよ。王都の連中が関所を増やしたんだ。治安がどうとか、密偵がどうとか。こっちからすれば、ただ商人の足が遠のいただけだけどね」
ヘルダは空いた椀を下げながら、独り言のように続けた。
「戦が終わったって聞いた時は安心したよ。でもね、終わった後の方が面倒なんだ。関所に兵隊の駐留に、税も上がった。勝ったのは王都の偉い人たちで、こっちは勝ちも負けもしてない。ただ持っていかれただけさ」
ノエラは麦粥を口に運びながら、その言葉を頭の中で反芻した。
書き留めたい。だが今は手帳を出さない。こういう言葉は、相手がこちらを「取材者」だと意識した瞬間に消えてしまう。
午前中、ノエラは町を歩いた。
カルムの町は丘の斜面に沿って段々に広がっていて、上の方に領主の館と小さな礼拝堂、中ほどに市場と職人の工房が並び、下の方に農家や牧場が点在する。どこの地方でもそうだが、上に行くほど石造りの建物が増え、下に行くほど木と土壁になる。
市場は週に三回開かれるらしい。今日はその日に当たっていた。
広場と呼ぶには狭い石畳のスペースに、十数の露店が並んでいる。野菜、干し肉、粗末な布地、蝋燭。王都の市場とは比べるべくもないが、並んでいるものにはそれぞれ土地の匂いがあった。
「珍しいね、旅の人かい」
声をかけてきたのは、革細工の露店を出していた中年の男だった。日に焼けた顔に、人懐こい目をしている。
「ええ。少しこの辺りを回っていて」
「商人?」
「いえ、物書きです」
「物書き!」男は大袈裟に目を丸くした。「そりゃ珍しい。この町に書くようなことがあるかね」
「あるかどうかは、聞いてみないとわかりません」
男は愉快そうに笑った。名前はオット。革職人で、親の代からこの町で店を出している。
「あんた、魔術師だろう。杖を持ってる」
腰帯の短杖に目を留められた。隠しているわけではないが、目ざとい。
「一応。使うのはもっぱら旅の道具としてですけど」
「へえ。魔術師ってのは、みんな王都で偉い顔してるもんだと思ってた」
「そういう人もいますよ。私はそっちに行かなかっただけで」
「変わってるね」
「よく言われます」
オットは革紐を編む手を止めずに話し続けた。この町のこと、暮らしのこと、季節ごとの行事のこと。聞けば聞くほど、ごく普通の地方の町だった。
だが、話題が「戦の後」に差しかかると、声のトーンが少しだけ変わった。
「うちの甥っ子も徴集されてね。まあ、無事に帰ってきたからいいんだが。帰ってきてから、ちょっと様子が変わったな」
「……というと」
「大人しくなった。前はうるさいくらい喋るやつだったんだが。何があったかは聞いてない。聞かない方がいいこともあるだろう」
ノエラは頷いた。
「それでね、この辺りの人間はさ、戦のことをあんまり話したがらないんだ。別に口止めされてるわけじゃないよ。ただ、自分たちのことじゃないって感覚があるんだな。王都で始まって、王都で終わった。こっちは人を出して、物を出して、それで終わり。勝ったって言われても、何が変わったかっていうと……」
オットは肩をすくめた。
「まあ、税が少し上がって、関所が増えたくらいだな」
ヘルダと同じことを言っている。言葉は違うが、感覚は同じだ。
ノエラは露店を離れてから、路地の陰で手帳を開いた。
『カルムの人々にとって、第二次帝国侵攻は「王都の戦」である。自分たちの戦ではない。人と物を差し出し、見返りのないまま日常に戻った。勝利は王都のもの。負担だけがここに残った。』
ペンを止めて、少し考えた。
『しかし、それを恨んでいるわけでもない。ここにあるのは怒りではなく、諦めに似た距離感だ。国というものは、元からそういうものだという認識。王都の政治も、貴族の権力争いも、魔術院の偉い人たちも、天気と同じで自分たちにはどうにもならないもの。』
書きながら、自分の中にも似たような感覚があることに気づく。
魔術師の家に生まれ、魔術学校を出て、その先に用意されていた道を全部断った。魔術院の星がいくつだとか、どの貴族の派閥に属するだとか、そういう話を聞くたびに思った。それは私の世界じゃない。
この町の人たちとは理由が違う。でも、距離感は似ている。
だからこそ、ここに来た。ここに書くものがあると思った。
昼過ぎ、礼拝堂の近くで老婆に声をかけられた。
「あんた、ヘルダのところに泊まってる娘だね」
小さな町だ。余所者の情報が回るのは早い。
「ええ。少しお話を聞いてもいいですか」
「構わないよ。こっちは暇だからね」
老婆の名はマルタ。礼拝堂の世話をしている。齢は七十を越えているが、背筋はしゃんとしていた。
ノエラは礼拝堂の前の石段に並んで腰を下ろし、マルタの話を聞いた。
「この礼拝堂はね、百年以上前に建てられたんだよ。当時の領主が、王都の大きな神殿を真似して作らせたんだ。まあ、真似と言ってもこの大きさだけどね」
小さな石造りの建物だった。装飾は素朴で、王都の神殿とは似ても似つかない。だが、壁の石は丁寧に磨かれていて、手入れが行き届いている。
「戦の時はここに避難所を作ったんだよ。帝国の兵がここまで来るかもしれないって話があってね。結局来なかったけど、一週間くらいは女子供がここで寝泊まりしたんだ」
「怖かったですか」
「怖かったよ。何が怖いって、何も分からないのが一番怖い。王都から早馬が来て、若いのが連れていかれて、それっきり何の知らせもない。勝ったのか負けたのか、生きてるのか死んでるのか。何日も何日も、ただ待つだけ」
マルタは穏やかな口調で話していたが、その言葉には重みがあった。
「それでね、ようやく終わったって知らせが来た時、みんな泣いたよ。嬉しくて泣いたんじゃない。終わったから泣けたんだ。それまでは泣くことも怖くてできなかったから」
ノエラは黙って聞いていた。
「あの五星とかいう人たちが活躍したんだって? よく知らないけどね。ありがたいことだよ。でも、ここの人間はそんな名前、知りもしない。知ってるのは、隣の家の息子が無事に帰ってきたかどうか。それだけだよ」
夕方、宿に戻ったノエラは、二階の部屋で手帳を広げた。
一日で集まった言葉を、順番に読み返す。ヘルダの愚痴。オットの肩をすくめる仕草。マルタの「終わったから泣けた」という一言。
どれも、王都では聞けない言葉だった。
魔術学校にいた頃、教官たちは誇らしげに語っていた。アーヴェリアは魔術の国だ、と。魔術院は知の殿堂であり、王国の礎であり、世界に冠たる学術機関だ、と。
間違ってはいない。だが、それはこの国のほんの一部分でしかない。
カルムの人々は魔術院の名前すら知らない者が多い。知っていても、「王都にある偉い人たちの集まり」程度の認識だ。貴族の派閥争いなど、文字通り別世界の話だ。
この町を支えているのは、魔術ではなく、畑と家畜と革と木だ。
ノエラはペンを取り、新しい頁に書き始めた。
『南東部紀行・カルム篇』冒頭草稿
カルムは、何もない町だ。
住人たちは口を揃えてそう言う。何もない。見るものもない。書くこともない。しかし私は、何もない場所にこそ、この国の本当の姿が見えると思っている。
アーヴェリアは魔術の国と呼ばれる。王都には壮麗な魔術院がそびえ、貴族たちは魔術の才を競い合い、五星と呼ばれる英雄たちが国を守ったと語り継がれている。
だが、カルムの人々にとって、それは遠雷のようなものだ。聞こえはする。だが、足元の土を揺らすほどではない。
彼らの国は、朝の井戸端から始まり、夕暮れの食卓で終わる。王が誰であろうと、魔術院の長が誰であろうと、明日の天気と今年の収穫の方が重要だ。
それを「無知」と呼ぶ者もいるだろう。だが私には、それがこの国の根の部分に思える。幹がどれほど揺れようと、根が生きていれば木は倒れない。
カルムは何もない町だ。だからこそ、ここには国の根がある。
ノエラはペンを置いて、窓の外を見た。
丘の向こうに夕日が沈みかけている。茜色の空の下で、誰かが牛を追う声が聞こえた。
明日はもう少し歩いてみよう。町の外れにある農家で話を聞きたい。南の街道沿いの茶屋にも寄ってみたい。
書くことは、まだたくさんある。
ノエラは手帳を閉じ、短杖を窓辺に立てかけた。
魔術師としてではなく、旅人として、この町の夜に身を預ける。
窓の外では、最初の星がひとつ、丘の上に光り始めていた。