南の公の領
街道の空気が変わったのは、カドレイユ領に入ってすぐのことだった。
石畳の質が違う。カルムの辺りでは継ぎ接ぎだらけだった街道が、領境を越えた途端に均一な切石で整備されていた。排水の溝が道の両脇にきちんと掘られ、一定の間隔で道標が立っている。
ノエラは足を止めて、道標に刻まれた文字を読んだ。
『セルーナまで半日。カドレイユ公爵領南街道第七標。街道の破損を発見した者は最寄りの詰所に届け出ること。』
詰所、という言葉に目が留まった。中央部の街道にこんなものはない。
歩き始めて半刻もしないうちに、その詰所を見つけた。街道脇の小さな石造りの建物で、カドレイユ家の紋章が掲げられている。詰所の前には兵士が一人、退屈そうに腰掛けていた。
通行証の確認はなかった。代わりに兵士が一瞥をくれ、腰帯の短杖を見て、小さく顎を引いただけだった。
――管理されている。
それが第一印象だった。圧迫感があるわけではない。ただ、隅々まで手が行き届いている。中央部の、放っておかれているような空気とは明らかに違った。
セルーナは、カルムとは比べものにならない規模の町だった。
丘の上に領主の代官館、中央に広い市場広場、そこから放射状に通りが伸びている。建物は二階建てが多く、石と煉瓦で造られたものが目立つ。商店の看板は彩色されていて、通りは掃き清められていた。
王都ほどではない。だが、中央部の地方町とは格が違う。
宿を探すまでもなかった。街道から市場広場に入る手前に、旅人向けの宿が三軒並んでいて、どれも表に料金表を掲げている。料金表が出ているということは、吹っかけられる心配がないということだ。カルムではそんなものは見なかった。
中程の宿に入った。受付の女が手慣れた様子で宿帳を差し出す。
「お名前と出発地、ご職業をお願いします」
「ノエラ・ヴィルト。王都方面から。物書きです」
「物書き。……紀行ですか?」
「ええ」
「でしたら、二階の通り側がいいですよ。市場が見えますから」
慣れている。旅人の扱いに手馴れた町だ。
部屋に荷を置いて、すぐに外に出た。まだ日は高い。
市場はカルムの三倍は広かった。
露店だけでなく、常設の店舗が市場広場の周囲に軒を連ねている。布地、香辛料、陶器、革製品。品物の種類も量も、中央部の地方町とは段違いだった。
だが、ノエラの目を引いたのは商品ではなかった。
市場の一角に、石板に文字が彫られた掲示板がある。公爵領の布告板だ。税率の告知、街道の補修予定、市場の開催日程。すべて平易な言葉で書かれていて、難しい法律用語は一切ない。
その横に、もう一枚。
『識字教室のご案内。毎週火の日、代官館にて。費用はかかりません。』
ノエラは目を細めた。
中央部では、字を読める庶民は多くない。読み書きは魔術師か商人か、さもなければ貴族の家に仕える者の技能だ。それを領主の費用で教えている。
「感心してるね、お嬢さん」
振り向くと、掲示板の前で荷物を整理していた行商人らしき男が立っていた。四十代くらい。日焼けした顔に商人特有の人当たりの良さがある。
「この掲示板、中央部では見ないので」
「そりゃそうだ。こんなことやってるのはカドレイユ領くらいだよ。俺は中央と南を行き来してるから、違いがよく分かる」
「だいぶ違いますか」
「全然違う」
男は荷を肩に担ぎ直しながら、遠慮のない口調で言った。
「まず道が違う。中央は王都の近くだけ立派で、少し離れると酷いもんだ。穴だらけで、雨が降ると荷車が動かなくなる。こっちは端の方までちゃんとしてる。商人にとっちゃ道がすべてだからね。道がいい領地には人が集まるし、人が集まれば金が落ちる」
「領主の方針ですか」
「カドレイユ公だろうね。あの方が当主になってから、目に見えて変わった。道、市場、税。全部仕組みがしっかりしてる。中央の貴族連中が魔術院で派閥争いしてる間に、南はどんどん豊かになってるよ」
行商人は声を落として、だが隠す気のない調子で続けた。
「正直な話、この辺の人間にとっちゃ、王様より公爵様の方がよっぽど頼りになる。税を取るだけ取って何もしてくれない王都と、取った分ちゃんと道と市場に戻してくれる公爵様と。どっちがありがたいかって話だよ」
ノエラは頷きながら、頭の中で整理していた。
カドレイユ公。冷徹で計算高い政治家。王家を軽んじ、魔術院を通じて権力を握ろうとする男。
――魔術学校にいた頃、そう聞いた。教官たちの口ぶりでは、王家に忠実でない危険な貴族、というニュアンスだった。
だが、ここから見える景色は違う。
整備された街道。読み書きを教える識字教室。公正な料金表。この町の人々が暮らしやすいのは、紛れもなくカドレイユ公の施政の結果だ。
どちらが本当の姿なのか。
いや、たぶん両方だ。王都から見た顔と、領地から見た顔。同じ人物の、違う切り口。
こういうことがあるから、旅はやめられない。
昼食は市場広場に面した食堂で取った。
羊肉の煮込みとパン。中央部では羊肉は高級品だが、この辺りでは牧草地が多いせいか、庶民の食事に普通に出てくる。味付けは南部特有の香草が効いていて、王都の料理とはだいぶ違った。
隣の席に、若い男女が座っていた。二人とも二十歳前後。食事をしながら話し込んでいる。
聞くつもりはなかったが、耳に入ってきた。
「――だから、識字教室に通ってよかったって話だよ。おかげで帳簿がつけられるようになった」
「私は手紙が書けるようになったのが嬉しい。姉さんが王都に出てるから」
「そういや、王都ってどんな感じなんだ。姉さん何か言ってた?」
「うーん……人が多い、空気が悪い、物価が高い。あと、貴族がうるさいって」
「はは。こっちも貴族はいるけど、公爵様はまだマシな方だろ」
「まだマシ、っていうのが褒め言葉なのかどうか微妙だけどね」
二人は笑っていた。
ノエラはパンを千切りながら、その笑い声を聞いていた。
カルムでは、領主の話はほとんど出なかった。あの町にとって領主は「いるらしいが関わりのない存在」だった。だがここでは違う。カドレイユ公は庶民の生活の中に、仕組みとして浸透している。好かれているかどうかは別として、少なくとも存在が認識されている。
「まだマシ」。
たぶん、それが庶民にとっての最大の賛辞なのだろう。期待も崇拝もしない。ただ、生活が回っている。それで十分。
午後、町の外れまで足を延ばした。
セルーナの南端には、小さな工房街がある。革、木工、陶器。どの工房も活気があった。
その中に一軒だけ、魔道具の修理を看板に掲げた店があった。
「失礼します」
薄暗い店内に入ると、白髪交じりの男が作業台で魔道具の分解をしていた。ノエラの腰の短杖に目をやり、微かに眉を動かす。
「魔術師か。何か壊したか」
「いえ、お話を聞きに来ました。物書きです」
「物書き。珍しいのが来たな」
男はハースと名乗った。元は王都の魔道具工房にいたが、十年ほど前にこちらに移ってきたらしい。
「王都じゃ、魔道具の仕事は全部貴族の注文だ。侯爵家だ伯爵家だ、魔術院の偉い先生だ。腕がよくても、コネがなきゃ仕事が来ない。疲れたよ」
「こちらではどうですか」
「こっちは素朴なもんだ。農具に術式を刻んでくれ、井戸のポンプに魔力を込めてくれ。そういう地味な仕事が多い。金にはならんが、感謝される。それで十分だよ」
ハースは作業台の魔道具――農作業用の小さな発光器――を持ち上げた。
「これなんか、王都じゃ見向きもされない代物だ。だがここじゃ、夜に畑を見回る時の命綱だよ。魔術ってのは、本来こういうもんじゃないのかね」
ノエラは少し笑った。
「魔術学校では教えてくれない話ですね」
「そりゃそうだ。あそこは魔術院に人を送り込むための学校だからな。……あんた、学校出てるのに旅の物書きをやってるってことは、何か思うところがあったんだろう」
図星だったが、答える代わりに話題を変えた。
「この辺りでは、魔術師はどう見られていますか」
ハースは少し考えてから答えた。
「うーん……遠い存在、かな。この町にまともな魔術師は俺くらいしかいない。王都や魔術院は別世界だよ。ただ、カドレイユ公は魔術院に力を入れてるって話は聞く。自分の領から優秀なやつを送り込んでるんだと。この識字教室も、元を辿ればそういう流れだろう。読み書きができれば、魔術を学ぶ入口にもなる」
「庶民にも魔術の門戸を開く、ということですか」
「きれいに言えばそうだが、実際は違うだろうね。公爵様は、自分の手駒を増やしたいんだよ。魔術院に送り込む人材は、そのまま公爵家の力になる。庶民のためっていうよりは、投資だな」
ハースの口調には批判の色はなかった。むしろ、当然のこととして語っている。
「だが、結果としては庶民も助かってる。動機がなんであれ、道が良くなって、字が読めるようになって、暮らしが楽になるなら、それでいいんだよ。上の人間の考えなんて、こっちが気にしてもしょうがない」
夕暮れ。宿の二階の窓から、市場広場を見下ろす。
露店が片付けられ、広場を掃除する人影がある。遠くから子供たちの声が聞こえる。煙突から夕餉の煙が上がり始めている。
ノエラは手帳を開いた。
『カルムとセルーナ。同じアーヴェリア王国の中で、これほど違う。』
『カルムは放っておかれた町だった。良くも悪くも、国の手が届いていない。人々は自分たちの力だけで暮らしを立てていた。不満はあるが、期待もない。』
『セルーナは管理された町だ。街道、市場、識字教室。すべてにカドレイユ公の意志が行き渡っている。人々は豊かで、暮らしは安定している。だがそれは、公爵家という巨大な手のひらの上での安定だ。』
『どちらがいいのか、私には判断できない。ただ、どちらにも人の暮らしがあり、それぞれのやり方で日々を回している。』
ペンを止めて、窓の外に目をやる。
『王都にいた頃、私はアーヴェリアを一枚の絵のように捉えていた。魔術の国。貴族と魔術院の国。だが実際に歩いてみると、一枚の絵などどこにもない。場所ごとに色が違い、匂いが違い、人の顔が違う。』
『それを一枚に纏めようとすること自体が、たぶん傲慢なのだ。』
『私にできるのは、見たものを見たまま書き留めること。それだけだ。』
ノエラは手帳を閉じ、宿の一階に降りた。
食堂では数人の客が夕食を取っている。ノエラは隅の席に座り、本日のお勧めという羊のスープを頼んだ。
明日はもう一日この町にいよう。工房街をもう少し歩きたい。それから、識字教室の日に合えば覗いてみたい。
書くことは、まだたくさんある。
スープが運ばれてきた。南部の香草が効いた、温かい一杯。
口に含んで、ノエラは小さく息をついた。
――悪くない町だ。
手帳には書かない、ただの感想だった。