帰らない家


セルーナを発って二日。街道を南に下ると、見覚えのある丘陵が現れた。

なだらかな起伏の合間に果樹園が点在し、その奥に小さな集落が見える。レイネン。カドレイユ領の南端にある、地図に載るか載らないかの小さな村。

ノエラ・ヴィルトが生まれた場所だ。

足が少しだけ重くなるのを自覚しながら、街道を外れて村への細道に入った。

別に避けてもよかった。南部の取材は終わりにして、このまま街道を西に抜ければ、実家の前を通らずに済む。実際、前回の旅ではそうした。

だが、手帳にはこう書いてある。

『見たものを見たまま書き留めること。それだけだ。』

自分で書いた言葉が、自分に跳ね返ってくる。見たくないものを避けて通るなら、それは紀行ではなく、ただの逃避だ。

「……我ながら面倒なことを書いたな」

呟いて、細道を歩き続けた。


レイネンは、カルムよりさらに小さい。

家は二十軒ほど。中央に井戸がひとつと、それを囲むように住居が並んでいる。果樹園と牧草地に囲まれた穏やかな村で、特筆すべきものは何もない。

――ひとつだけ、他の村と違うところがある。

村の東端に、周囲より少しだけ立派な石造りの家がある。屋根の上に、風見鶏の代わりに魔術的な避雷の術式を刻んだ金属棒が立っている。壁には淡い保護の術式が施されていて、近づくと微かにマナの気配がする。

ヴィルト家。代々この村で魔術師を務めてきた家だ。

「魔術師を務める」と言っても、魔術院に名を連ねるような華々しいものではない。村の井戸にマナを込め、家畜の病を魔術で診て、収穫期には天候を読む簡単な予測術を使う。そういう、地に足のついた仕事だ。

カドレイユ領には、こうした「村付きの魔術師」がいくつかの集落に配置されている。領主の施策の一環だろう。王都の魔術師から見れば末端も末端だが、村の人間にとっては頼れる存在だ。

ノエラの父、ダルクス・ヴィルトはその三代目にあたる。

玄関の前で足を止めた。

扉は開いている。奥から、薬草を煮る匂いが漂ってくる。母のリネアが何か調合をしているのだろう。

深呼吸を一つ。

「――ただいま」

声をかけると、奥から物音がして、廊下の向こうに母の顔が覗いた。

リネア・ヴィルト。五十手前の女性。かつてはこの村で助産師も兼ねていた。魔術の心得はないが、薬草と民間療法に詳しい。

「あら」

それだけだった。

驚いた様子もなく、怒った様子もなく、ただ「あら」と言って、手についた薬草の汁をエプロンで拭いた。

「上がりなさい。お父さんは裏の畑にいるよ」

「……うん」

この淡白さが、ノエラには一番堪える。怒ってくれた方がまだ楽だ。


居間は昔と変わっていなかった。

木の卓に、使い込まれた椅子が四つ。壁には父の魔術書が並ぶ小さな棚と、母の薬草の束が吊るされている。窓辺には鉢植えの薬草。日差しが差し込んで、埃が光の中で踊っている。

リネアが茶を淹れてくれた。乾燥させた果実の皮を煮出した、この辺りの家庭でよく飲まれるものだ。王都では見かけない味。懐かしい、とは思わなかった。ただ、知っている味だった。

「元気そうじゃない」

「まあ、なんとか」

「食べてる?」

「食べてますよ」

「痩せたように見えるけど」

「歩いてるから」

短いやり取り。間が空く。リネアは茶を啜り、ノエラも茶を啜る。

「……まだ書いてるの」

「うん」

「そう」

それ以上は聞かなかった。リネアはそういう人だ。聞かない。ただ、その「聞かない」の中に、色々なものが詰まっていることをノエラは知っている。

裏口から足音が聞こえてきた。重い靴の音。

「リネア、裏の排水路にまた――」

居間に入ってきたダルクス・ヴィルトが、ノエラを見て足を止めた。

日焼けした顔。白髪の混じり始めた短い髪。がっしりした体格は、魔術師というより農夫のそれだ。腰には使い古された短杖が差してある。

「おう」

父もまた、それだけだった。

「帰ったのか」

「立ち寄っただけ。南部を回ってて」

「ああ、そうか」

ダルクスは靴を脱ぎ、卓の向かいに座った。リネアが黙ってもう一杯の茶を出す。

三人が卓を囲む。四つ目の椅子は空いたままだ。昔、兄が座っていた場所。兄のアーレンは今、王都の魔術院で研究員をしている。ヴィルト家の期待を一身に背負って。

「アーレンは元気?」

「ああ。先月手紙が来た。忙しいらしい。二つ星の審査を受けるとか言ってたな」

「そう」

ノエラは茶に目を落とした。二つ星。魔術院の位階。兄はちゃんと、家の期待通りの道を歩いている。

「お前の本、読んだよ」

ダルクスが唐突に言った。

「え」

「セルーナの本屋で売ってた。『東部街道紀行』。買って読んだ」

ノエラは面食らった。父が自分の紀行文を読んでいるとは思っていなかった。

「……どうだった」

「うまいもんだな、文章は」

褒めているのか、皮肉なのか。ダルクスの表情からは読み取れない。

「お前が書いた、東の山間部の村の話。あそこの魔術師のこと、よく書けてた。村付きの魔術師がどういう仕事をしてるか、外の人間に分かるように書いてあった」

「……取材、したから」

「ああ、取材な」

ダルクスは茶を一口飲んだ。

「俺のことを書いたのかと思ったよ」

「違うよ。あれは東部の――」

「わかってる。だが、やってることは似たようなもんだ。村の井戸にマナを込めて、家畜を診て、天気を読む。どこの村付き魔術師も同じだよ」

沈黙が落ちた。

リネアが席を立ち、薬草の仕事に戻る気配がした。この人は、父と娘の間に余計な言葉を挟まない。

「父さん」

「なんだ」

「怒ってないの」

「何にだ」

「私が、魔術師にならなかったこと」

ダルクスは茶碗を卓に置いた。少しの間、窓の外を見ていた。

「……怒ってたよ。最初の一年くらいは」

正直な人だ。昔からそうだった。

「学校を首席とは言わんが、そこそこの成績で出て、魔術院でも騎士団でも行けたのに、旅の物書きだと言い出した時は、正直どうかしてると思った」

「うん」

「アーレンは俺の跡を継ぐ気はない。あいつは王都の人間になった。だから、お前がこの村に戻って、次の村付き魔術師になってくれるんじゃないかと、少し期待してたんだ」

知っていた。知っていたから、言えなかった。

「でもまあ」

ダルクスは頭を掻いた。

「お前の本を読んで、少し分かった。お前は、ここに収まる人間じゃないんだな。俺やじいさんのように、ひとつの村で一生を過ごす側じゃない。歩いて、見て、書く。そういう人間なんだろう」

「……」

「諦めたっていうと大袈裟だが、まあ、そういうことだ。お前はお前の道を行け。俺は俺の仕事をする。それだけだ」

ノエラは何か言おうとして、言葉が見つからなかった。

ありがとう、は違う。ごめん、も違う。どちらも正しくて、どちらも足りない。

「……茶、おかわりもらっていい」

「自分で淹れろ」

ダルクスが素っ気なく言い、ノエラは立ち上がって台所に向かった。鍋に残っていた茶を温め直しながら、少しだけ息を吐いた。


午後、村を歩いた。

取材のためではなく、ただ歩いた。

井戸のそばで遊ぶ子供たち。果樹園で梯子をかける老人。塀の上で昼寝をする猫。何もかもが小さくて、静かで、ゆっくりと動いている。

子供の一人がノエラに気づいて駆け寄ってきた。

「おねえちゃん、ダルクスさんの娘でしょ。お母さんが言ってた」

「そうだよ」

「魔術師なんでしょ。何か見せて!」

ノエラは苦笑して、短杖を取り出した。小さな灯りの術式を起動する。掌の上に、橙色の光が灯った。

「わあ!」

子供たちが集まってくる。ノエラは光の形を変えてみせた。丸く、四角く、星形に。大した魔術ではない。灯りの基礎術式を少し弄っただけだ。

「すごい! ダルクスさんの魔術よりきれい!」

「……それはお父さんに言わない方がいいよ」

子供たちが笑う。ノエラも少しだけ笑った。

父の魔術は、きれいではない。実用に徹した、飾り気のない魔術だ。井戸のマナ充填も、家畜の診断も、天候予測も、すべて必要最小限の力で、確実に結果を出す。無駄がない。

魔術学校で学んだ理論体系。位階言語の構造。魔導書の仕組み。そういうものは、父の魔術にはない。代わりに、三十年この村で積み上げてきた経験と勘がある。

教官たちなら「前時代的」と言うだろう。だが、この村の人間にとっては、それで十分なのだ。

ノエラは子供たちに手を振って、村の外れまで歩いた。

丘の上から見下ろすレイネンは、本当に小さかった。二十軒の家と、一つの井戸と、果樹園と牧草地。それだけの世界。

父はこの世界を選んだ。兄は出て行った。自分も出て行った。

でも、出て行き方が違う。兄は「上」に行った。魔術院という、この国の中枢に向かって。自分は「横」に行った。どこでもない方向に向かって。

父から見れば、兄の選択の方がまだ理解できるだろう。息子は家業を継がなかったが、少なくとも魔術師として立派な道を歩んでいる。娘は魔術そのものを捨てたわけではないが、それを生業にする気もない。中途半端だ。

中途半端。

その自覚はある。だから、せめて書くことだけは中途半端にしたくないと思っている。


夕食は三人で食べた。

リネアが作った羊肉と根菜の煮込み。セルーナの食堂で食べた南部料理とは味付けが違う。もっと素朴で、塩と少しの香草だけ。だが、これがこの家の味だった。

「明日、発つよ」

「そうか」

ダルクスはそれだけ言って、煮込みを口に運んだ。

「……次はどこに行くんだい」

リネアが聞いた。

「西に向かおうと思ってる。まだ決めてないけど」

「そう。気をつけてね」

「うん」

食事の後、ノエラは自分の部屋――だった場所に入った。今は物置のようになっているが、寝台だけは残してあった。

壁に、古い地図が一枚貼ってある。子供の頃にダルクスが描いてくれたものだ。レイネンを中心に、周囲の村や町が簡略に描かれている。セルーナ、カルム、そして遠く離れた王都。子供の頃は、この地図が世界のすべてだった。

今、ノエラの手帳には、この地図の何倍もの場所が書き込まれている。でも、出発点はここだ。この小さな村の、この小さな部屋だ。

手帳を開いた。だが、今夜は何も書かなかった。

書かなくていい夜もある。


翌朝、日の出前に起きた。

荷物をまとめ、短杖を腰帯に差す。一階に降りると、台所にリネアがいた。

「はい、これ」

小さな包みを渡された。干し果実と焼いたパン。旅の食料だ。

「ありがとう」

「手紙くらい書きなさいよ。たまには」

「……善処します」

リネアが小さく笑った。珍しいことだった。

玄関を出ると、ダルクスが井戸の前に立っていた。毎朝の日課だろう。井戸にマナを込める仕事。

ノエラが近づくと、ダルクスは振り返らずに言った。

「次の本にも、村の話を書くのか」

「……書くかもしれない。レイネンのことは書かないけど」

「書いてもいいぞ。別に隠すようなことは何もない」

「そういう問題じゃなくて」

「わかってる」

ダルクスは井戸の縁に手を置いたまま、少し笑った。ほとんど表情が動かない人だが、目元がわずかに緩んだのがわかった。

「元気でやれ」

「うん。父さんも」

それだけだった。

ノエラは村の細道を歩き、街道に出た。振り返らなかった。振り返ったら何か余計なことを書きたくなる。今はまだ、この距離がいい。

朝の空気は冷たく、街道は西に向かって真っ直ぐ伸びていた。

ノエラは手帳を開き、一行だけ書いた。

『レイネン。何もない村。だが、ここに根がある。』

ペンを閉じて、歩き出す。

次の町まで、あと二日。