角持つ獣
レイネンを発って三日目。街道沿いの小さな宿場町、ベッケルに着いた。
西へ向かう旅人や行商人が一晩の足を休める程度の町で、宿が二軒と食堂が一軒、あとは馬の世話をする厩舎がある。それだけだ。
宿に入ろうとした時、食堂の入口に人だかりができているのが見えた。
「――だから、もう三日も畑に出られないんだ!」
声を荒げているのは、日焼けした中年の男だった。農夫だろう。その周囲に五、六人の住民が集まっていて、深刻な顔をしている。
中央に立っているのは、革の胸当てを着けた中年の女。腰に剣を帯びている。傭兵か、あるいは自警団の類だ。
「場所は特定できてるのかい」
「西の林の奥だ。水場の近く。あいつが居座ってから、家畜も怖がって水を飲みに行かねえ」
「大きさは」
「牛くらいはある。角が二本、赤黒い毛。牙が見えた。間違いなく魔獣だよ」
魔獣。庶民が「魔物」を指す時に使う言葉だ。
ノエラは人だかりの端で足を止め、耳を傾けていた。
革胸当ての女が腕を組んで考え込んでいる。
「一人じゃ厳しいね。牛くらいの角持ちとなると、まともにやり合うのは骨が折れる。誰か手を貸してくれる人間はいないかい」
住民たちが顔を見合わせる。農夫や商人はいても、戦えるような者はこの町にはいないのだろう。
ノエラは少し考えた。
考えた結果、自分でも馬鹿だと思いながら、口を開いた。
「手伝いましょうか」
全員の視線が集まった。
革胸当ての女が、ノエラの腰帯の短杖を見た。
「魔術師?」
「一応」
「一応、ね。名前は」
「ノエラ。旅の物書きです」
「物書き」
女は怪訝な顔をしたが、短杖をもう一度見て、それから小さく頷いた。
「私はユルカ。このあたりで害獣駆除を請け負ってる。――魔獣の相手をしたことは?」
「何度か」
嘘ではない。旅の途中で遭遇したことは数回ある。好んで戦ったわけではないが、逃げられない状況というのは、道を歩いていれば起こる。
「報酬は山分けでいい。このあたりの相場は大したことないけど」
「構いません」
ユルカが手を差し出した。固い握手だった。
翌朝、二人で西の林に向かった。
ベッケルから半刻ほど歩くと、街道を外れた獣道に入る。林は広葉樹と低木が混在していて、見通しが悪い。足元は落ち葉と湿った土だった。
「物書きが魔獣退治ね」
前を歩くユルカが、肩越しに声をかけてきた。
「旅をしてると、色々ありまして」
「まあ、魔術師なら戦力にはなる。正直助かるよ。一人で角持ちは割に合わない」
「普段は一人で?」
「大抵はね。この辺りの依頼は小さいのが多い。畑を荒らす猪とか、家畜を狙う狼とか。魔獣が出るのは年に数回だ」
ユルカは歩きながら、淡々と話した。
「魔獣ってのはね、要するにマナが大きい獣だよ。通常の動物より体が大きくて、角や牙が発達してる。中にはマナを纏って突進してくるやつもいる。そういうのは剣だけじゃ対処しづらい」
「マナを纏う」
「体の表面にマナが膜みたいに張り付いてるんだ。刃が通りにくくなる。そういう時は魔術師がいると話が早い」
ノエラは頷きながら、手帳に書くべきことが増えていくのを感じていた。
「ユルカさんは、魔獣をどう思いますか。その……怖いとか、憎いとか」
「どうって」ユルカは少し考えた。「熊が怖いかって聞かれたら、そりゃ怖いよ。でも憎くはない。あいつらはあいつらで生きてるだけだ。ただ、人の暮らしと重なる場所に出てきたら、どっちかが退かなきゃならない。大抵は人間が退くんだが、退けない時は――まあ、私の仕事になる」
「殺すことに、抵抗は」
「あるよ。最初の頃はあった。今は……仕事だからね。抵抗があるとかないとかじゃなく、やらなきゃ誰かが怪我する。それだけだ」
乾いた言い方だったが、最初の頃はあった、という言葉は本音だろうとノエラは思った。
水場が見えてきた。
林の中の小さな泉。岩の間から水が湧き出し、浅い池を作っている。周囲の木々が不自然に折れていた。太い枝がへし折られ、地面には深い足跡が残っている。
ユルカが片手を上げて、ノエラを止めた。
「いるね」
声を落とす。
泉の向こう側、低木の茂みの奥に、大きな影があった。
牛ほどの体躯。赤黒い毛に覆われた獣が、水辺にうずくまっている。頭部から二本の角が伸び、下顎からは鋭い牙がはみ出していた。猪に似た体型だが、はるかに大きく、筋肉の付き方が常軌を逸している。
マナの気配が、ここまで伝わってくる。
獣が持つマナの量は、並の魔術師を上回っていた。ただし、それは量の話であって、制御された力ではない。マナがただ体内に満ちているだけだ。溢れるマナが体表を薄く覆い、角と牙を微かに光らせている。
ノエラは短杖を抜いた。
「正面から行くのは避けたい」ユルカが囁いた。「角持ちは突進が一番危ない。まっすぐ来られると、剣じゃ止められない」
「横から回り込めますか」
「私が右から仕掛ける。気を引いたら、横合いから魔術を叩き込んでくれ。一撃で仕留めなくていい。足を止めてくれれば、あとは私がやる」
「わかりました」
ユルカが音もなく右手の茂みに消えた。
ノエラは左手に回り込みながら、術式を組み立てた。短杖に刻まれた基本術式を起点に、マナを圧縮する。派手な魔術は使えない。使えるのは、魔術学校で叩き込まれた基礎攻撃術式――マナ弾と、その応用だ。
それで十分。相手は獣だ。魔術障壁を張るわけでもなければ、術式で反撃してくるわけでもない。的確に急所を狙えばいい。
息を整える。
ユルカが動いた。
右手の茂みから飛び出し、剣を抜きながら獣に向かって石を投げた。石が獣の脇腹に当たる。
獣が頭を上げた。赤い目が、ユルカを捉える。
低い唸り声。地面が震えるような重低音だった。
獣が前脚で地面を掻いた。突進の予備動作だ。
ノエラは短杖を構え、マナ弾を放った。
青白い光が一直線に飛び、獣の左後脚に命中した。爆発的な衝撃ではない。だが、集中した力が筋肉を打ち据え、獣の体勢が崩れる。
突進が不発に終わった。左後脚を引きずりながら、獣が首を巡らせてノエラを睨む。
「こっちだよ!」
ユルカが叫び、横合いから斬りかかった。剣が獣の首筋を走る。マナの膜が刃を弾く。だが、完全には防ぎきれない。浅い傷が走り、赤黒い毛に血が滲む。
獣が咆哮した。
身体を振り回し、ユルカを弾き飛ばそうとする。ユルカは身軽に後退し、距離を取った。
ノエラは二発目を撃った。今度は獣の頭部を狙う。マナ弾が額の角の付け根に当たり、獣がよろめく。
三発目。右前脚の関節。
獣が片膝をついた。
ユルカが間合いを詰めた。今度は体表のマナの膜が薄くなっている箇所――首の側面を狙って、深く剣を突き入れた。
獣が一度大きく身体を震わせ、それから、ゆっくりと崩れ落ちた。
水辺に、静寂が戻った。
ノエラは息を整えながら、倒れた獣を見下ろしていた。
間近で見ると、さらに大きい。赤黒い毛皮の下に、筋肉が層のように重なっている。角は根元が太く、先端に向かって鋭く尖っていた。牙の表面には、マナの残滓が薄く光っている。
「いい腕だね」
ユルカが剣の血を拭きながら言った。
「魔術学校で基礎をみっちりやらされたので」
「基礎がしっかりしてる魔術師は、実戦で強いんだよ。派手な術を使う連中より、よっぽど頼りになる」
「……褒められ慣れてないので、反応に困ります」
ユルカは笑った。
ノエラは獣の傍にしゃがみ込み、角に手を触れた。まだ温かい。マナの残滓が指先に伝わってくる。膨大な、しかし無秩序なマナ。
「ユルカさん。この獣が持っていたマナ、並の魔術師より多いです」
「ああ、角持ちはそういうもんだ。だから体がでかくなるし、角や牙も発達する。マナが骨や筋肉に溜まるんだろうね」
「でも、魔術は使わない」
「使わないよ。あいつらは獣だ。マナがいくら多くても、術式を組む知能はない。ただ体に溢れてるだけだ」
ノエラは角から手を離し、手帳を取り出した。
『魔獣。正確には「マナの大きい動物」。生まれつきマナを多く持つ個体が、通常より大きく成長し、角や牙が発達する。体表にマナの膜を纏うこともある。ただし魔術は使わない。マナがあっても、それを操る術を持たない。』
書きながら、考えた。
魔術師と魔獣。どちらもマナを持っている。だが、魔術師はそれを術式で操り、魔獣はただ体内に溜め込むだけだ。
その差は何だろう。
知能の問題だと言ってしまえば簡単だ。人間には言語があり、位階言語があり、魔導書がある。獣にはない。だから獣はマナを操れず、ただ体の変質として表れる。
だが、と思う。
この世界のすべてはマナとソルで満たされている。動物も植物も、石も水も。マナはこの世界の「血液」のようなものだ。その中で、たまたま多くのマナを体に宿した動物がいる。それだけのことだ。
魔獣は、異常な存在ではない。
この世界の理の中にある、自然な一部分だ。人間がマナを操ることを「魔術」と呼んで特別視しているだけで、マナそのものに善も悪もない。
ノエラは倒れた獣の顔を見た。目は閉じている。苦悶の表情は読み取れない。獣に表情があるのかどうかも分からない。ただ、ここに一つの命があって、それが終わった。
『魔獣は「魔」の字がつくだけで、本質は獣である。マナの多い個体が生まれることは、この世界では自然な現象なのだろう。人間がマナを使えば「魔術」、獣がマナを持てば「魔物」。名前が違うだけで、根は同じだ。』
『しかし、名前が違うということは、扱いが違うということだ。魔術師は尊ばれ、魔獣は殺される。どちらもマナの恩恵を受けた存在なのに。』
ペンを止めた。感傷的になりすぎている。紀行に感傷は毒だ。
「何を書いてるの」
ユルカが覗き込んできた。
「……魔獣のことを少し」
「ふうん。この角、売れるよ。マナが残ってるやつは魔道具の材料になる。町に持って帰ったら、解体は任せな」
「お願いします」
ユルカは手慣れた様子で獣の角を検分し始めた。生活の一部としての、害獣駆除。そこに感傷はない。
ノエラは手帳を閉じ、立ち上がった。
ベッケルに戻ると、農夫たちが安堵の顔で出迎えた。
角と牙はユルカが回収し、肉は村人たちで分配することになった。毛皮も売り物になる。魔獣の素材は、辺境の村にとっては臨時収入だ。
報酬は銀貨数枚。王都で一日分の宿代にも満たない額だった。
「こんなもんだよ、このあたりは」
ユルカは銀貨を懐に仕舞いながら、あっけらかんと言った。
「王都の討伐依頼なら、もっと出るんだけどね。こっちは相場が安い。まあ、物価も安いから、なんとかなる」
「ずっとこの辺りで?」
「十年くらいかな。元は東の方にいたんだけど、あっちは魔獣が少なくなってきてね。こっちの方が仕事がある」
「魔獣が少なくなってきた?」
「ああ。人が増えて、林が減ると、大きい獣は棲む場所がなくなるんだよ。マナの多い獣ってのは、マナの濃い土地にしか出ない。森が深くて、人の手が入ってない場所。そういう場所が減れば、魔獣も減る」
ノエラは頷いた。
『魔獣はマナの濃い土地に生まれる。人間が森を拓けば、魔獣の居場所は失われる。討伐しなくとも、いずれ消える存在なのかもしれない。』
「……ちょっと寂しい話ですね」
「寂しい?」ユルカが目を丸くした。「畑を荒らす獣が減って、寂しいって?」
「あ、いえ、そうじゃなくて――」
「変な物書きだね、あんた」
ユルカは呆れたように笑った。
ノエラは苦笑を返しながら、心の中で言葉を探していた。
寂しいというのは正確ではない。ただ、この世界からマナの大きな獣が消えていくということは、この世界の何かが変わっていくということだ。人間の時代が進むにつれて、精霊族が衰え、石碑が散り、魔術が体系化され、世界が「人間のもの」になっていく。その流れの中で、森の奥にひっそりと生きていた角持つ獣もまた、居場所を失う。
それは自然な流れだろう。良いとか悪いとかではなく、世界が変わっていくというだけの話だ。
でも、記録はしておきたい。
今日、この林にこういう獣がいたこと。赤黒い毛と二本の角を持ち、水場のそばで暮らしていたこと。並の魔術師より多くのマナを宿し、それでも術式のひとつも使えなかったこと。
そういうことを書き留めるのが、自分の仕事だ。
夕方、宿の食堂でユルカと向かい合って夕食を取った。
魔獣の肉を使った煮込みが出てきた。硬いが、味は悪くない。噛むとマナの名残りなのか、舌がわずかに痺れる。
「これ、毎回思うけど不思議な味ですよね」
「慣れるよ。マナが多い肉は保存も利くし、この辺の人は重宝してる」
ユルカは慣れた手つきで肉を切り分けながら、ふと目を上げた。
「あんた、次はどこに行くの」
「西の方に。まだ決めてないですけど」
「気をつけな。西に行くと林が深くなる。角持ちも増える」
「その時は、また誰かに手伝ってもらいます」
「物書きのくせに、度胸はあるね」
「旅をしてると、嫌でも度胸はつきます」
ユルカが杯を掲げた。ノエラもそれに応じた。
安い麦酒の、素朴な味がした。
翌朝、ベッケルを発つ前に、手帳に一頁を加えた。
『角持つ獣について。』
『この世界では、マナを多く持つ動物を「魔獣」と呼ぶ。人々はそれを恐れ、時に退治し、時にその素材を生活の糧とする。魔獣は人を襲うこともあるが、多くはただ、森の奥で静かに生きている。』
『魔術師も魔獣も、マナという同じ泉から水を汲んでいる。片方は称えられ、片方は駆られる。それがこの世界の仕組みだ。正しいかどうかは、私には分からない。』
『ただ、どちらも確かにこの世界の一部であることは、書いておきたい。』
ノエラは手帳を閉じ、西の街道に足を向けた。
朝日が林の向こうから差し込んでいた。枝の間から落ちる光の中を、小鳥が一羽、横切っていった。
普通の鳥だ。マナの少ない、小さな鳥。
それが、なんだか少しだけ、眩しく見えた。