王都の空
王都が見えたのは、西街道の丘を越えた時だった。
夕暮れの光の中に、街並みが広がっている。石壁に囲まれた巨大な都市。尖塔が林立し、その中央にひときわ高い建物が二つ――王宮と、魔術院の本棟だ。
何ヶ月ぶりだろう。数えてもいなかった。
ノエラは丘の上で足を止め、その景色をしばらく眺めた。
懐かしい、とは思わなかった。ただ、以前とは違う目でこの街を見ている自覚があった。
西門で通行証の確認を受けた。
門番の兵士は短杖を見て「魔術師か」と聞き、ノエラが頷くと、それ以上の質問はなかった。魔術師の通行は優先される。この国の仕組みだ。
カルムの関所で、行商人が長い列を作って待たされていたことを思い出した。
門をくぐると、すぐに人の波に飲まれた。
王都の雑踏は、地方の比ではない。石畳の大通りを馬車が行き交い、商人が声を張り上げ、職人が荷を運ぶ。道の両側には店が隙間なく並び、看板が重なり合って空を狭くしている。
匂いが違う。人と馬と食べ物と煙が混ざった、濃い空気。カルムの土の匂いも、セルーナの香草の匂いも、レイネンの果樹園の匂いも、ここにはない。
「……うるさいな」
口をついて出た言葉に、自分で少し笑った。以前はこれが当たり前だったのに。
宿を探す前に、足が勝手に一つの場所へ向かっていた。
王都中央区の書店街。
出版社と書店が軒を連ねるこの通りは、ノエラにとって王都で数少ない馴染みの場所だ。旅に出る前は、ここの書店に原稿を持ち込んで、何度も突き返された。
今は、棚に自分の本が並んでいる。
通りの中ほどにある中規模の書店に入った。壁際の棚に「紀行・旅行記」の区画がある。その一角に、薄い冊子が二冊。
『東部街道紀行』ノエラ・ヴィルト著。 『北方辺境の冬』ノエラ・ヴィルト著。
どちらも初版の刷り部数は少ない。大きく売れる種類の本ではない。それでも、棚に並んでいる。
「お、久しぶり」
奥から店主が顔を出した。五十代の痩せた男。出版のことで何度も世話になった相手だ。
「戻ってきたのか。今度はどこを回ってたんだ」
「南部です。カドレイユ領のあたりを」
「南部か。いいね、需要はあると思うよ。最近は南部の話題が多いから」
「話題?」
「カドレイユ公と王家の対立さ。魔術院の派閥がどうとか、宮廷魔術師がどうとか。貴族連中の政治の話だけど、庶民の間にも噂は流れてくる」
ノエラは棚に目を戻した。紀行の棚の隣に、「政治・論説」の区画がある。そこには分厚い本が並んでいた。
『魔術院の未来と王権の在り方』『五星制度の功罪』『カドレイユ公爵の施政論』。
どれも著者は魔術院や貴族に近い人間だろう。立派な装丁で、ノエラの薄い冊子とは比べものにならない。
「ああいうのは売れるんですか」
「そこそこね。買うのは主に役人や学者だが。庶民向けじゃないな」
「でしょうね」
ノエラは自分の冊子を一冊手に取った。薄い。百頁にも満たない。中身は、街道沿いの村の風景と、そこで暮らす人々の言葉だ。政治も論説もない。
それでいい、と思う。
「新しい原稿、できたら持ってきます」
「待ってるよ。南部の話、楽しみにしてる」
書店を出て、大通りを東に歩いた。
王都の中心に近づくにつれて、街並みが変わっていく。商人の店が減り、石造りの大きな建物が増える。貴族の屋敷、官庁、そして――
魔術院の外壁が見えた。
白い石で築かれた高い壁。正門の上にはアーヴェリア王国と魔術院の紋章が並んでいる。門の前には衛兵が立ち、出入りする魔術師たちは皆、整った服装をしている。
ノエラは門の前を素通りした。
中に入る用事はない。かつてはあったかもしれない。魔術学校を出た時、同期の何人かはあの門をくぐっていった。星を取り、論文を書き、派閥に入り、出世を目指す。王都の魔術師にとっての「正しい道」だ。
カルムのヘルダの声が頭をよぎった。
『勝ったのは王都の偉い人たちで、こっちは勝ちも負けもしてない。』
セルーナのオットの声。
『この辺の人間にとっちゃ、王様より公爵様の方がよっぽど頼りになる。』
マルタの声。
『ここの人間はそんな名前、知りもしない。知ってるのは、隣の家の息子が無事に帰ってきたかどうか。それだけだよ。』
父の声。
『俺やじいさんのように、ひとつの村で一生を過ごす側じゃない。歩いて、見て、書く。そういう人間なんだろう。』
ユルカの声。
『あいつらはあいつらで生きてるだけだ。』
魔術院の白い壁を横目に、ノエラは歩き続けた。
あの壁の内側で、どんな議論が交わされているのかは知らない。星の数がどうとか、派閥がどうとか、王家と貴族の均衡がどうとか。重要なことなのだろう。この国の行く末を決める話だ。
だが、カルムの農夫にとって、セルーナの革職人にとって、レイネンの村付き魔術師にとって、ベッケルの害獣駆除人にとって――あの壁の内側は、別の世界だ。
ノエラはそのどちらにも属していない。壁の中にも、地方の暮らしにも。
ただ、歩いて、見て、書く。その間に立って、片方をもう片方に伝える。
それが自分の仕事だ。たぶん。
宿を取ったのは、王都の西区にある安宿だった。
魔術師なら中央区のもっとまともな宿に泊まれるが、ノエラは西区の方が落ち着く。職人や行商人が泊まる地区で、気取った空気がない。
部屋に荷を置き、窓を開けた。
王都の夜は明るい。通りの魔術灯が青白い光を放ち、遠くの塔にも灯りが点いている。カルムの夜の暗さとは別世界だ。レイネンでは星が近かった。ここでは、灯りが多すぎて星がよく見えない。
手帳を開いた。
何を書こうか、少し迷った。
旅の間は、見たものを見たまま書けばよかった。だが王都は「見たまま」で済ませるには、あまりにも多くのものが重なっている。
しばらくペンを持ったまま考えて、最初の一行を書いた。
『南東部紀行・王都篇』冒頭草稿
王都に帰ってきた。
数ヶ月の旅を終えて、この街の石畳を踏む。懐かしいかと問われれば、そうでもない。ただ、以前とは違う足で歩いている気がする。
私はカルムで、国の根を見た。何もない小さな町で、人々は王都の政治とは無縁に、朝の井戸端から夕暮れの食卓までを生きていた。
セルーナで、国の枝を見た。カドレイユ公の手が隅々まで行き届いた豊かな町で、庶民は領主を「まだマシ」と評し、それを最大の賛辞としていた。
レイネンで、自分の根を見た。魔術師の家に生まれ、魔術師の道を歩まなかった娘を、父は半ば諦め、半ば認めていた。
ベッケルで、この世界の理の一端を見た。マナを持つ獣は「魔物」と呼ばれ、マナを操る人間は「魔術師」と呼ばれる。名前が違うだけで、根は同じだ。
そして今、王都にいる。
この街は、アーヴェリアの心臓だ。魔術院がそびえ、王宮がそびえ、貴族たちが権力を競い合う。ここで決まったことが、遠い地方の町にまで届く。関所が増え、税が上がり、若者が徴集される。
だが、心臓から送り出された血が指先に届く頃には、もう温度が変わっている。
王都の人間は、カルムを知らない。カルムの人間は、魔術院を知らない。同じ国に暮らしていても、見えている景色はまるで違う。
それを繋ぐことが、私の仕事なのかもしれない。
繋ぐ、というのは大袈裟だろうか。私はただの物書きで、薄い冊子を書いて、小さな書店の棚に並べてもらうだけの人間だ。政治を動かす力も、魔術院の壁を揺るがす力もない。
でも、書くことはできる。
カルムの農夫の声を。セルーナの革職人の笑い方を。父が毎朝井戸にマナを込める手つきを。角持つ獣が水場で静かに眠っていた姿を。
それが誰かに届くかどうかは分からない。届いたとして、何が変わるかも分からない。
それでも書く。見たものを、見たまま。
それが私の旅だから。
ノエラはペンを置いた。
窓の外では、王都の夜が続いている。魔術灯の青白い光。遠くの酒場から漏れる笑い声。馬車の車輪が石畳を叩く音。
明日は出版社に顔を出そう。南部の原稿をまとめて、持ち込む相談をしなければ。
それから、また旅に出る。次はどこへ行こうか。北の山間部も、まだ書いていない。帝国との国境沿いも気になる。
手帳はまだ半分以上、白紙のままだ。
ノエラは窓を閉め、寝台に横になった。
安宿の天井は、ひび割れた漆喰で覆われていた。カルムの宿もこんな天井だったな、と思い出す。セルーナの宿はもう少しましだった。レイネンの実家の天井は、子供の頃に数えた木目の数まで覚えている。
目を閉じる。
明日からまた、歩き始める。この足で。この目で。このペンで。
見たものを、見たまま。
それだけを抱えて。